2020年04月01日

このブログについて

自分のブログを作らなければとは思っていたのですが、なかなか出来ずにいました。
忙しいので作ってみました。(現実逃避とも言います)
ここに載せるのは、過去の説教原稿です。
他には、まだ考えていません。
以上

教会のホームページが新しくなりました。
http://www.ikenoue-ch.jp/
(2017年6月24日スタート)
posted by ちよざき at 00:00| Comment(1) | 日記

2019年12月01日

礼拝説教「神の栄光への応答」ローマ11章32節〜12章2節

礼拝説教「神の栄光への応答」ローマ11章32節〜12章2節
今日から待降節と言って、クリスマスに備える時となります。聖餐台の布も救い主を待ち望む民の苦難と、人となられた神の御子の苦しみを表すと言われる紫色です。この布は、クリスマス礼拝では白となりますが、それは神の栄光を表す色で、クリスマスとイースターに使います。神様は私たちを救うために御子をこの世に送り、栄光を表してくださいました。この栄光に私たちはどのように応答したら良いのか、そのことを考える待降節となるように願っています。
さて、今週も引き続いてローマ人への手紙を開きます。9章から11章まではイスラエルの救いについて書かれているのですが、よく読むと、ユダヤ人の救いを語りながら異邦人の救いについても教えています。ですから1章から11章までが、救いに関するキリスト教の大切な教えがまとめられていると言うこともできます。そして、12章からは応用、あるいは実践とも言われます。今朝は、その11章の終わりと12章の初めから、これまでのまとめと、それが今後の応用にどうつながっているのかをお話させていただきたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「不従順と憐れみ」、第二に「神の計画と栄光」、そして第三に「礼拝による応答」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.不従順と憐れみ(11章32節)
もう一度、32節を見ます。
11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
すべての人、と言っているのは、ユダヤ人も異邦人も、ということです。この聖句を表面的に読みますと誤解します。全ての人を憐れむために、一度全ての人を閉じ込めた。それでは神様がわざわざ人間を不従順の中に閉じ込めておいて、それから憐れんで救われたかのようです。それは聖書の教えとは違っています。ここでパウロが言っていることを理解するには、全ての人の代表として、最初の人であるアダムのことを考えなければなりません。神様がアダムを、つまり人間を造られたとき、決してロボットのようにはしなかった。ロボットなら自分の意志もなく、神様に言われるままに動きますから不従順になり得ません。でも神様は人間を人間として、違う言いかたをすると自分の意思を持った、一人の人格的存在として愛そうとされた。しかしそれは自分の意志で神様に背く可能性もあったし、実際、アダムは神の言葉に従わなかったので罪が入り込んだのでした。アダムだけではない。人間は誰もが、自分の意志で自分の思い通りに生きることを選び、神様に背くようになった。そして命の源である神様から離れたとき、人間は死すべき存在となり、滅びに向かうことになってしまったのです。その人間を、自業自得だと突き放すのではなく、神様は憐れんで救おうとされたのです。
聖書は、全ての人は罪人である、と告げています。神様はどんな人でも救おうとされますが、その救いに至る手順は様々です。一人一人が様々な救われ方をしています。この手紙では、人間の二つのサンプルとしてユダヤ人と異邦人が挙げられています。ユダヤ人に対しては、神様はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルをエジプトの奴隷の苦しみから救い出し、一方的な恵みとして神の民としてくださった。でも彼らは神の民に与えられた律法を守り行うことで、自分の力で自分を救おうとして失敗します。それに対し、異邦人は、最初は神の民の祝福から疎外されていたように見えますが、アブラハムのように神様を信じることで救いの道を開いてくださった。それがキリストによる救い、すなわち福音です。旧約聖書と新約聖書で、救いに至る道は違う部分もありますが、神様は全ての人を憐れんで救いの御手を差し伸べてくださる点で、ユダヤ人も異邦人も変わりはないのです。
私たちも、この「全ての人」に含まれているのは間違いありません。この手紙が書かれた当時は、パウロを始め、多くの弟子が世界中に遣わされて福音が宣べ伝えられ、至る所で救われる人が起こされました。それはパウロの時代だけのことではありません。今も教会を通し、また一人一人のクリスチャンを通して、キリストによる救いが示され、そして、どんなに神様に従わなかった不従順な人であっても、神の憐れみによる救っていただける。ですから私たちも「キリストを救い主として信じ受け入れるなら救われる」という福音の言葉を、自分に与えられた神様からの言葉として受け止めて、神様の恵みである救いに与っていただきたいと思います。(ここまでが1章から11章までのまとめです)
2.神の計画と栄光(11章33〜36節)
神様がユダヤ人と異邦人、全ての人を救うためになさったことは、1章から11章までで語られてきました。イスラエルの救いのためになさった御業が旧約聖書に書かれ、異邦人にまで及ぶ救いはパウロたちによって世界中に広められていました。旧約から新約まで1000年以上の間になされた救いの働きは、人間の理解をはるかに超えた、偉大なものでした。その偉大さが33節から述べられています。
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
神様の知恵の奥深さ、神様のくだされる裁きの大きさ、神の導かれる道は想像もできないほどです。この節で、「何と」と訳されているのは、驚きを表す言葉ですが、一種の質問と捕らえた場合の答えは「人間には理解しつくせない」ということです。次の34節では「だれが」と質問形式になっていますが、これも答えは、神のみこころを本当に知ることが出来るのは神だけですから、人間には知る事はできない。「主の計画に与った」と新改訳第三版で訳している言葉は、直訳では「神の相談役」という意味で、人間にはできません。次の35節も、神様から受ける前に神に与えることは、人間には出来ない。ですから36節で「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。しかし、これらの問いかけへの本当の答えは、人間には出来ないが、神が遣わされた救い主、イエス・キリストこそ、神の御心を知っているお方であって、このお方に神の知恵が表され、神の裁きが実現し、キリストこそ神に至る道です。
神様が不従順な私たちを救うために送ってくださった救い主、御子イエス・キリストが人間となられたのがクリスマスです。キリストが十字架につけられて罪の贖いを成し遂げ、私たちを救ってくださり、復活により私たちにも新しい命に与らせてくださったことが、イースターです。両方とも、神の栄光を表すほどの偉大な御業です。
イエス・キリストが三人の弟子を連れて山に登ったことがあります。山頂でイエス様の姿が栄光に輝く姿となって、旧約聖書の代表とも言うべきモーセとエリヤと語り合っていたことが福音書に書かれていますが、その対話の内容は、十字架のことであったとルカの福音書が告げています。十字架、そこに至る、イースターから始まり、十字架を通り、復活に至る、そのすべてが旧約聖書に預言された神の計画、救いの計画であって、栄光の働きなのです。
この神の救いの計画は、パウロの時代で終わったのではなく、今も続けられています。私たちが教会に来るようになり、聖書を通してキリストに出会い、やがて信じるだけで救われるという恵みに与り、それをさらに伝えていく。これも神様のご計画のうちになされたことで、この計画を立てたのは神ご自身であって、私たちがその神様の思いに従うなら救っていただいていることを、しっかりと心に留めましょう。
3.礼拝による応答(12章1〜2節)
最後に、12章の1節ですが、11章の最後が「アーメン」で終わっているのは、「神に栄光があるように」という祈りの言葉を閉じているもので、これで、これまでの話が終わったことを示し、そして、これから新しい話が始まることを意味します。ところが12章1節は「こういうわけで」と始まり、12章以下の新しい話は、これまでのことを理由としていることを示しています。1章から11章までに語られた、全ての人を救うイエス・キリストの十字架、それを信じるだけで救われるという福音。この十字架の恵みに、では私たちはどのように応答して行けば良いのか。それが12章からのメッセージです。1節。
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
神のあわれみとは、不従順な者を救ってくださる神の憐れみです。この憐れみによって救われた者にパウロが勧めていることが、「霊的な礼拝」。霊的とはどういう意味か、様々な日本語訳聖書を比べると見えてきます。古い口語訳聖書では「なすべき」と訳され、憐れみによって救われた者のなすべきことだということです。新しい新改訳2017では「ふさわしい礼拝」、憐れみによって救われた者に相応しいあり方です。昨年出版された聖書協会共同訳では「理に適った礼拝」、救われた事を考えれば論理的に当然だ、ということです。霊的な礼拝とは、神様は人間を霊的な存在として造られ、霊である神様に応答する存在として造られた。ですから神様のしてくださった救いに対して正しく応答することが礼拝です。
パウロが私たちに勧めている礼拝とは何でしょうか。もともと旧約聖書では、礼拝とは動物などの捧げ物を祭壇に行って神様に捧げることでした。パウロは、羊や牛ではなく、自分自身のからだ、肉体も心も全部含めたからだです。それを神様に供え物としてささげる。動物なら殺した後で捧げますが、自分自身を生きた供え物として、生きたまま捧げるのです。「神に受け入れられる」とは、新しい翻訳では「神に喜ばれる」としています。「聖い」とは神のものとされるということです。自分は神様のものであって、神様の自由にしてください。そのような思いで自分を捧げるとき、神様は喜んでくださるのです。
この捧げ物は、救いのためではありません。今、木曜夜の祈祷会ではレビ記を1章ずつ開いています。レビ記の最初の部分には様々な捧げ物が出てくる。その中には罪を犯してしまった場合、どのような罪であったら、どのような動物を捧げたら良いか、細かく教えられています。しかし、私たちが自分を捧げるとは、罪を赦していただく供え物ではありません。それは、すでにキリストが十字架の上で「神の小羊」となってくださった。ですから罪の贖いとしての捧げ物は必要ありません。レビ記の供え物の中には、罪の赦しのためだけでなく、感謝の捧げ物や自ら進んで捧げるものもあります。もうキリストが贖いの働きをしてくださり、100パーセント罪は贖われた。ですから私たちは自分から進んで、自分自身を神様に捧げる生き方。それは、自分中心であった生き方から全く新しい生き方になることです。それが2節。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
この世の人と同じ生き方ではなく、神に捧げられ、神のものとなった存在として、御心に適う生き方をする。でも、それは心の一新、心の底から変わらなければできません。それが出来るのは聖霊であり、また自分がキリストと共に十字架につけられた、生きているのはもはや自分では無く、キリストが私の内に生きておられる、という信仰です。
来週からは12章から始まる部分を見て行きますが、一つだけ、例えば10節、
10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさい。尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

このような教えを、倫理道徳のようにとらえて、自分の努力でなしとげようとするなら、挫折しますし、これを守ったら救われると考えるなら、それは11章までのことをひっくり返してしまいます。これは救いの条件ではなく、既に救われた者として、神様が示してくださった、なすべき礼拝の具体例なのです。これから救いの恵みに対する応答として一つ一つのことを考えていきますが、その一番最初になすべきこと、それは自分自身を捧げる礼拝であり、神に従う生き方へと心を変えることなのです。
まとめ.
クリスマス、それは神の御子キリストが、十字架につくために人間の体となって、この世に来てくださった。イエス様は先に自らを供え物として捧げてくださったのです。ですから私たちも自分を捧げる者となりたい。でも自分ではなかなか出来ない。ですから神様の憐れみによって、そのようにしていただく、恵みに与りましょう。
タグ:ローマ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2019年11月24日

礼拝「人の愛と神の知恵」ロマ10章1節〜11章36節

礼拝「人の愛と神の知恵」ロマ10章1節〜11章36節(10:9〜14)
ローマ人への手紙をご一緒に学んでおります。前回お話ししましたが、この手紙の9章から11章は、イスラエルの救いについて書いてある。イスラエルのことなら私たちには関係ないのかというと、そうではありません。この手紙を受け取ったローマ教会にはイスラエルの子孫であるユダヤ人もいましたし、ユダヤ人以外の全ての人を異邦人と呼びますが、異邦人クリスチャンもいました。ユダヤ人と異邦人、神様はどちらも救おうと考えておられた。パウロは同胞であるイスラエルを愛しており、同時に異邦人に福音を伝えるために命がけでした。神様はユダヤ人も異邦人も愛しておられた。互いにいがみ合っていたユダヤ人と異邦人が両方とも救われるためには、この愛と、愛だけでなく神様の知恵が必要だった。このことは、私たちに対しても当てはまります。神様の愛と、人の愛、誰かが自分のために祈っていてくれた、その愛が無ければ、救いに与ることはできなかったし、また救われにくい私が救われるには、神様の知恵が必要なのです。
今朝も三つのポイントに従ってお話を進めてまいります。第一に「神の恵みと信仰」ということ、第二に「人の行いと義」、そして第三に「神の憐れみと計画」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.神の恵みと信仰(10章1〜21節)
司会者には10章9節から読んでいただきましたが、10章1節を見ます。
兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
彼らとはユダヤ人のことです。パウロが心から望み、そして神様に必死で祈っていること、それが同胞の救いです。9章もそうでしたが、パウロの同胞愛を感じます。でも神様はそれ以上に、イスラエルを、そして異邦人をも愛しておられ、ユダヤ人も異邦人も救おうとされます。
先週はI先生がローマ書の「信仰による義」という大切なメッセージを、創世記を通してお話しくださいました。パウロは旧約聖書の専門家でしたから、この10章、11章でも、何回も旧約聖書から引用をしながら論じていて、読んでいて難しく感じます。これら全てを詳しくお話ししますと、何週間もかかってしまいますので、ここで千代崎備道の奥の手。それは、「難しい箇所は飛ばす」。4節から8節までには、旧約聖書の律法のこと、そして何か所からの引用がありますが、結論だけ見ますと、それが9節です。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

人は、と書かれているとおり、ユダヤ人、異邦人、どんな人でも、救われる道、それはイエス様が救い主であることを、心に信じ、口で告白する。これは二つのことではなく、一つです。口で告白するけれど心では信じないなら、それは口先だけになります。また心では信じているけれど人前では告白せずに隠しておくのは、真剣に信じていないことになってしまう。ですから、心に信じると共に、口で告白するのです。
信じる内容に関しては、イエス様が主である、とは、救い主であるだけでなく、私の人生の主、あるじであって、このお方に従って生きることを含みます。また死者の中からよみがえった、つまりキリストの復活ということは、なかなか理解し難い。でも私たちは理解できなくても信頼は出来ます。今はスマホの時代で、どこに行っても電波でインターネットにつながっている。その理屈を理解できている人は専門家だけです。でも私たちは、信頼して、当たり前のようにスマホを使っています。キリストの復活だけでなく、聖書には理解を越えたことがいくつも出て来るし、何度読んでも理解するのは難しいことが書かれています。でも、神様は偉大なお方であり、キリストを通して愛を示してくださったことを、信頼することは出来る。いえ、分からないことがいくらかはあっても、信じる「決心」をして、これから信じ続けていく。そのことを神と人の前で告白して洗礼を受けます。キリストを信じて告白する、それだけで救われる、それが福音、良き知らせです。
しかし、この救いの道を、知らなければ信じることも告白することも出来ません。パウロは異邦人の使徒として、苦労を重ねながら各地の異邦人に福音のメッセージを伝えてまわり、ローマの人たちにも伝えたいと願って、この手紙を書きました。福音を伝えるのはパウロだけではない。私たちも自分に近い人にイエス様を伝える使命が与えられています。自分一人では力が足らないので、一緒に力を合わせて福音を伝える。それが特伝であり、ランチョンやコンサートもそうです。少しずつキリストの救いを伝えていき、やがて伝えられた福音を信じ受け入れる人が現れる。そのことを、これからも祈りつつ伝道をしていきましょう。
パウロだけが使徒ではなく、まず十二使徒を始めとするキリストの弟子たちがユダヤ人に福音を伝えたことから教会がスタートしました。でもユダヤ人の多くは、福音を聞いても信じて従おうとはしなかったために、救いから遠ざかっていた。それがパウロの心の痛みでした。二つ目に、どうしてユダヤ人は救いから離れてしまったかをお話ししたいと思います。
2.人の行いと義(11章1〜10節)
救いの方法は信仰です。信じることで救われるのです。救いの原動力は神様の恵みです。神様が私たちを愛し、憐れんでくださり、救いを無代価で与えようとされた。それが恵みです。ところがユダヤ人の多くは恵みによる救いよりも行いによる救いを選んでしまったことが、恵みにより救われるという福音から彼らを遠ざけてしまったのです。
パウロはユダヤ人のことを評して「熱心」だと書いています。2節。
2私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありませんでした。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
彼らは熱心でしたが、正しい知識に欠けていたため、熱心さが間違った方向に向いてしまっていた。神様の正しさを知らないために、自分の正しさを主張して認めてもらおうとした。それが「自分自身の義を立てようとした」ということです。自分の考えよりも神様のほうが正しい、と「神の義に従う」ことが出来なかった。だから神の義をいただいて、義と認められることが難しかった。
日本人の特徴を一言で語るのは難しいのですが、真面目さ、というのはその一つではないかと思います。日本人はまじめです、仕事にも真面目に取り組む。野菜の無人販売所なんて、誰も見ていなくてもちゃんとお金を払って買っていく。でも、この真面目さが方向を間違えてしまうと、救いから遠ざかる可能性があります。神様は恵みとして救いを与えようとしたとき、真面目な日本人は、ただで貰うのは悪い、何か自分もしなければ、と思って、恵みとして受け取るよりも、何か良い行いをすることで代価を払って救いを受け取ろうとする。でも、神様は対等な相手ではなく、圧倒的に神様の方が上に立っておられるお方です。私たちが何か良い行いをしたからといって、正しい対価を払うことはできない。だから、ただ神様を信頼して、無代価で、恵みとして救いを受け取ることを、神様が願っておられる。その神様のお考えに従うことが大切です。
恵みによる救いは、行いを否定しているのではありません。ヤコブ書では、行いによる救いということを教え、信じたら、それは必ず行いに現れる。行いに結び付かない信仰は口先だけだと厳しく語っています。行いは、後から付いてくる。また、ヘブル語では、神の恵みを表す言葉として、ヘセド、という言葉があります。このヘセド、神の恵み、神の慈しみの愛に対して、神の愛に応答する人たちを、ヘセドからできた言葉で、ハシードと言います。ハシードはしばしば聖徒と訳されます。神様の愛に応答して、神様の御心にかなった生き方を求める人が聖徒です。聖い生き方を志すことは恵みに対する応答です。でも、最初は、神様の恵みです。どれほど努力をするとしても、その前に神様が恵みを持って私たちを導いてくださった。その神様の愛の前にへりくだって、感謝して恵みを受け取る。それが信仰の出発点です。これを間違えますと、方向がずれてしまう。方向が間違っていることを、聖書では「的外れ」と言います。「的外れ」は罪と訳される。まず恵みを受け取り、神様を信頼して従って生きる聖徒とならせていただきたいと願います。
3.神の憐れみと計画(11章11〜33節)
最後に、もう一度、イスラエルの救いについてパウロの議論に戻ります。途中、旧約聖書を引用しながら議論しているところは難しいので、すっ飛ばします。11章の11節から見たいと思います。11章11節。
では、尋ねましょう。彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
なぜイスラエル、すなわちユダヤ人が福音を受けいれられず、躓いてしまったか、そして、どのように異邦人が救われたのか。ある意味では、ユダヤ人が福音を拒んだために、異邦人に救いが与えられた、と言えます。実際、パウロが各地で福音を伝えたとき、最初はユダヤ人の会堂で福音を語ります。彼らは旧約聖書を知っていたので預言された救い主について理解できるはず、です。でもユダヤ人は拒んで、その結果、パウロは異邦人に福音を伝え、彼らはパウロの語ったことを信じて、恵みによる救いを受け入れた。このパターンが何回も使徒の働きに出てきます。
この、ユダヤ人が拒んで異邦人が救われる、ということを、接ぎ木に例えているのが17節。ここでは、パウロは異邦人クリスチャンに語っています。
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

異邦人クリスチャンは、ユダヤ人に対して、自分の方が勝っていると誇ってはいけない。自分も接ぎ木された枝に過ぎないのだから、と戒めています。養分、すなわち旧約聖書から約束されていた祝福を、接ぎ木である異邦人にも与えることが出来る神様は、一度は折られたとは言っても、元来はくっついていた枝を再びつなぎ合わせて祝福を回復することも出来る。だから、接ぎ木された異邦人は、ユダヤ人より勝っていると思って、誇ってはならない、と言うのです。
でも、どうしてイスラエルは一度折られてしまったのか。それが、先ほど読んだ11節の後半です。
かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためなのです。
イスラエルが神様のご計画を拒んで違反をして躓いてしまった。そこに異邦人が接ぎ木されて神様の救いの恵みに与り、祝福という養分を受け取るようになった。それを見たイスラエルは、自分たちこそが約束された祝福を受けるはずだと、ねたみを起こして、真剣に神の恵みによる救いを求めるようになる。これが神様のご計画であり、それをパウロは奥義だと、25節の後半。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

パウロの本音は、同胞イスラエルが救われることですが、神様はイスラエルも異邦人も愛しておられ、両方が救われるために、一度イスラエルは不信仰のために躓く。しかし、神様はその失敗さえも用いて、異邦人とユダヤ人の救いの道を開かれた。これが神の知恵なのです。
人間の愛はどれほど熱い愛でも、近視眼的になりやすい。嫌われることを恐れて、厳しいことを言うのを躊躇します。でも神様の愛は人間の愛よりも大きく、私たちを正しくするためには厳しいところを通らせることもある。でも神様の知恵がある。失敗を恐れる人間に対して、神様は失敗さえも用いて、万事を益としてくださるのです。
この神の愛と知恵が今も私たちに働いていることを覚えていただきたいと思います。私たちに福音が伝えられるためにも、神様の愛が注がれ、また神の愛を受けた聖徒たちの愛が具体的に働いて、私たちはキリストを信じ告白することができた。そして、神様の知恵による計画は、今も私たちを導き続け、私たちを御心にかなったものに造り変えて行ってくださるのです。
まとめ.
誰でも、教会に来るようになったきっかけは、誰かの愛です。やがてキリストを知り、神様の愛を信じて、救い主を心に信じ口で告白するようになって、これからも神様を信頼して歩みましょう。理解が足らないこともあるでしょうし、これからどうなるかは分かりませんが、万事を益とする神様の知恵を信頼して、その神様からの声に聞き従って歩むものとならせていただきましょう。
タグ:ローマ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教