テレビでは夏の甲子園が始まっています。何点もの差を付けられ、もう逆転は無理だろうと思っても高校球児は最後まで諦めないで戦います。人生の戦いにおいても、小さな負けなら挽回できても、もう逆転は不可能に思えることもあります。人間にとって死の問題はその一つかもしれません。神様がイスラエルに下された判決によって、彼らは滅亡が決定する。そこからの逆転はできるのだろうか。ホセア書も後二回を残すのみとなりましたが、今朝は「滅亡からの勝利」ということを、13章を通してご一緒に考えて参りたいと思います。
いつものように三つのポイントで、第一に「空しい偶像」、第二に「破滅する王国」、そして第三に「死の滅び」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.空しい偶像(1〜4節)
前回の十二章でイスラエルの罪が告発され、神の裁きが示されていますが、この13章では、さらに彼らの罪が明らかにされていきます。1節。
1 エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。
この節の前半は、翻訳によって違いが出てくる箇所です。原文では、震えたのがエフライムなのか、人々なのか、どちらとも読むことが可能なので、新改訳第三版は、エフライムが震えていて、新しい協会共同訳では「エフライムが語ると、人々は恐れ」と訳しています。他にも謎な部分があるのですが、結論となる後半は明確です。「エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ」。死んだ、と過去形ですが、実際にはまだイスラエルは滅亡していない。でも神様の目には滅亡したも同然で、近い将来、必ずその通りになる。でも、どうしてバアルの偶像をおがんだ罪の結果、彼らは滅亡するのでしょうか。2節。
2 彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ」と。
イスラエルの民は、預言者たちによって罪を指摘されても、なおも罪を重ねていった。新改訳2017訳を見ますと、
13:2 今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。
彼らが偶像を作るのは、自分のため、すなわち自己中心が根っこにあり、また「自分の考えで」、つまり彼らが考えている神の姿を作ったのです。それは本当の神に対する冒涜だと言えます。その結果、3節では、
3 それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる。
朝もや、朝の露、風に散らされる籾殻、そして煙。どれも儚く消えていく、空しい存在です。人間が空しい存在になるとはどういうことでしょうか。2節の最後に
「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ」
と書かれていますが、これも新しい翻訳ですと、
『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』
となっていて、こちらの方が直訳に近い。人を献げるというのは、羊や牛ではなく、人間を生け贄として献げるということで、神様が忌み嫌う行為です。それと、「子牛に口づけする」とは、イスラエルにあった金の子牛という偶像があります。人々はこの子牛を礼拝し、足もとにひれ伏して、その足に口づけして忠誠を誓う。それは自らを自分の手で作ったものよりも下にする行為です。人間は礼拝する相手よりも下になる。でも、神様が人間を創造されたとき、神のかたちに作られたと創世記に書かれていて、それは神よりも少し低い存在だと詩篇に教えられています。神様と等しくはないけれど、神様の少し下であって、動物よりも、そして人間の手で作られたものよりもはるかに尊い存在なのに、偶像をおがむことで、自分をそれよりも低い存在にする。それは自分自身の人間性を犠牲として捨てることであって、だから人間は素晴らしい存在だったはずなのに、空しい存在に落ちてしまう。そのことを聖書は警告しているのです。
しかし、その人間を救ってくださるお方こそ、本当の神様、礼拝を献げるべきお方です。4節。
4 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。
2.破滅する王国(4〜11節)
二つ目のポイントに移ります。4節で、エジプトから、つまり歴史の最初からイスラエルを救って下さった神様です。さらに5節では
5 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。
6 しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。
出エジプトの後、荒野を旅した時も、神様は彼らを忘れて見放すことはせず、牧草を食べさせて養ってくださった。彼らを緑の野辺、素晴らしい約束の地にまで導いてくださった。この救いの神様を、しかしイスラエルは高慢になって忘れた。忘れたとは、彼らはこのお方が神であることは知っていましたが、このお方の言葉を無視して、まるでいないかのように扱った。こんな恩知らずであり、神様を侮辱するようなことをしていたら、神様がお怒りになっても当然です。その怒りを表す、7節。
7 わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。
8 わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く。
ここでは猛獣たちの姿に例えています。いま、日本では熊の恐ろしさがテレビで伝えられていますが、子を奪われた母熊がどれほと怒り狂うか。神様はイスラエルに怒り、彼らを引き裂くはずではないか。
神様はイスラエルが自分の罪に気が付くように、様々な災いを送り、神様に心を向けて祈りように導かれるのですが、彼らは神様ではなく、人間に頼ろうとする。イスラエルの歴史を振り返ると、10節。
10 あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ」と言った者たちは。
イスラエルは隣国に侵略され苦しめられたとき、自分たちのために王が欲しいと言った。それは本当の王である神様をないがしろにすることだった、とサムエル記を読むと記されています。神様はイスラエルに怒りを覚えたかもしれない。でも彼らの求めに応じて、人間の王を立ててくださった。それがサウルであり、ダビデでした。でも、そのダビデ王朝も、北王国の王たちもまもなく滅ぼされる。11節。
11 わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。
そして、9節。
9 イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。
私たちを救ってくださるお方から離れて、自分勝手な救いを求めることは、昔も今も同じです。私たちの上に神様がおられ、私たちを正しい道に導いて下さることを認めようとしなければ、それは神様の救いを拒むことであって、そうなったら、もう人間の力、例え王様でも救うことは出来ない。こんな判決を下されたイスラエルは、ここから逆転できるのでしょうか。
3.死の滅び(12〜14節)
イスラエルはここまで預言者たちに言われても、なおも罪を重ねます。12節は農業の譬えで、
12 エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。
しまい込むとは収穫したものを束ねる、という言葉で、それを蓄えるとは倉の中に隠す。神様に叱られるような罪を、彼らは隠れて増やしていく。その結果を、13節は、少し難解なのですが、当時の難産のイメージを使って語ります。
13 子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない。
母の胎から生まれ出て生きることが出来る、という神様が示してくださる最後の救いのチャンスさえ、彼らは神の言葉を理解する知恵もなく、苦しみを増している。こんな状態の結果は、死しか無いのです。イスラエルは、もう神の罰を受けて滅亡する。国としては死んでしまう。もう助からない。これが神様がくだされた刑罰です。
ところが、ここで不思議なことが起きます。やはり、これも翻訳によって違いが出てくる、難しい箇所です。新改訳第三版で、14節前半。
14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。
この箇所を、古い口語訳では
口語訳13:14 わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。
新改訳は、彼らを死から贖う、という未来のこととして書いています。ところが、口語訳や共同訳では疑問文で、死から贖うことがあるだろうか、つまり、そんなことはない、という反語として訳されている。いったい、死から贖ってくださるのか、くださらないのか。実は、どちらの読み方も可能です。どちらを選んだら良いか迷うときは、その文脈を見ますと、ここは神様はイスラエルを罪の故に罰する、国を滅ぼす、ということを語っている箇所ですから、口語訳のように、「死から贖うだろうか、いいや、贖わない」と訳すのが良いのです。でも、新改訳は、新約聖書でパウロがホセア書を信用して、「死から贖おう」と書いていますので、それに合わせた。では、パウロは文脈を読まずに訳したのか。いいえ、そうではありません。パウロが、神は死から贖い救ってくださると訳せたのか。その秘密は、旧約聖書の時代には無かったけれど、新約の時代に生きるパウロにはあったこと。イエス・キリストです。イエス様が十字架で罪の贖いを成し遂げてくださり、本当なら私たちも滅ぼされなければならない罪人なのに、その罪をイエス様の十字架によって赦していただいた。それだけでない。イエス様は復活され、十字架による救いが本当であることを証しされ、私たちに新しい命を与えてくださった。この復活のイエス様と、パウロは出会ったのです。ですから、パウロにとっては、死んだらお終いではない。キリストの救いを受け入れたとき、復活の命にも与ることができる。だから、ホセア書の理解を大胆に新しくしたのです。
イスラエルはまもなく敵に滅ぼされ、国は死んでしまう。これは定まった裁きです。でも、神様はそのイスラエルももう一度生かしてくださるときが来る。いいえ、イエス様が復活され、死をも滅ぼしてくださった。私たちは死によって滅ぼされるのではありません。キリストの復活を信じる時、イエス様は死さえも滅ぼして、わたしたちを贖って、救ってくださる。この信仰を、私たちは持たせていただけるのです。
もう一度、14節、
14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。
本来の意味では、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか」、これはイスラエルを刺して苦しめるためのとげをどこにしまったのか、早く持ってきてイスラエルを滅ぼせ、という意味でした。でもイエス様が死を滅ぼされたとき、「おまえのとげはどこにあるのか、もう無いではないか」と死の武器が失われたとの宣言に変えてくださったのです。
今、私たちは死を恐れ、その武器である苦しみによって、倒れそうになり、ですから死ぬことを恐れるのが人間です。でも復活のイエス様を信じ、私たちも、古い自分は十字架でイエス様と死んで、イエス様と一緒に新しい命をいただき、天国の約束をいただいた。そのとき、死は恐怖ではなく、与えられた人生を全うしたとき、天国に入れていただける希望をもって生きることが出来るのです。
まとめ.
もしイエス様が来てくださらなかったら、今も私たちは死のとげに刺されて苦しみ恐れるしかできない。でもイエス様の十字架と復活こそが私たちを罪から救い、死の恐れから解き放ってくださり、永遠の命に生きる者としていただける。この恵みを信じて生きましょう。
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