2020年11月29日

礼拝説教「常識を覆す救い」使徒の働き8:1〜8(使徒8章)

礼拝説教「常識を覆す救い」使徒の働き8:1〜8(使徒8章)
序.私は教師だったこともありますが、誰かが、あるいは何かが成長することに喜びを感じます。反対に、大切に育ててきたものがダメになってしまうのは、とても残念ですし、そうなることを恐れます。使徒の働きに描かれている最初の教会も、最初は目覚ましい成長をします。時には一日に数千人が救われる。このまま成長していって、何万、何十万となり、ついにはエルサレム全体がクリスチャンとなったら素晴らしいと思う。ところが、それが一気に数十人、恐らく最初の人数以下に減ってしまったら、もう終わりだ、と思ってしまうかも知れません。ところが、私の、この世的な常識では考えられないことが起きた。それは、この8章こそが教会が今迄の枠組みを乗り越えて、さらに前進するきっかけとなった、ということです。神様が私たちを救ってくださる救いも、常識とは違います。普通は、修業や努力を積み重ね、たくさん良い働きをしたら、それが認められて救われる。受験勉強しかり、仕事もそうです。ところがキリストによる救いは、自分が罪深い、ダメな存在だと分かったときに、救われる。この常識外れではなく、常識を越えた救い、古い考えを覆すような神の御業を、『使徒』8章から見て参ります。
いつものように、三つのポイントで。第一に「散らされても広がる」ということ。第二に「救われても罪がある」、そして第三に「分からないから恵みがある」という順序でメッセージを進めてまいります。
1.散らされても広がる
先ほど司会者に読んでいただきました、8章の最初の部分は、7章の最後から繋がっています。ステパノが殉教し、その日、エルサレム教会への大迫害が起こります。2節に「使徒たち以外の者はみな」散らされた、と書かれている。数千、あるいは数万人になっていたクリスチャンたちが、地方へと散らされていったのです。さらにステパノを私刑にしたサウロ、後にパウロと呼ばれるようになりますが、このときはサウロです。彼は教会、これは大きな会堂ではなく、家の教会です。まだエルサレムにいた信者たちを、隠れていた信徒の家に押し入って、引きずり出して牢屋に入れた。徹底的な迫害です。ところが、4節。
4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
散らされたと思っていたら、彼らは御言葉を宣べ伝えて、救われる人がさらに起こされていくのです。
話は変わりますが、旧約聖書の中にイズレエルという地名があります。イズレエルという言葉は、「神が種を蒔く」という意味で、神様が種まきをしたら豊作になるということで、豊かな穀倉地帯でした。ところがその場所で恐ろしい犯罪が起こり、その結果、神の裁きが下り、その場所に血が流された。それでイズレエルは不吉な名前となり、人々を神が散らしてバラバラになる、という意味になってしまいます。「種を蒔く」という動詞は「散らす」という意味にも使われる。すみません、つい旧約聖書の話をしてしまったのですが、この『使徒の働き』ではサウロたち迫害者によって教会は散らされた。でも、神様はそれを種まきのように、もっと広い地域に福音の種を蒔き広げる機会となさったのです。
この後の教会の歴史を見ましても、迫害で多くの人が殉教すると、クリスチャンはさらに増えていく、という現象が何回もありました。逆に、キリスト教国だ、信教の自由だと、福音が伝えやすい環境なのに、それ以上クリスチャンが増えないこともある。宣教の働きは常識では計れない。ダメだと思ったことをチャンスとされるのが聖霊の働きです。これが分かったときに、私たちは絶望的な状況でも諦めないで、神様に希望をおき、祈ることができるのです。それは、祈った通りになるとか、計画通り、考えたようになるということではなく、もっと素晴らしい神様の御業がなされることを信じるのです。
2.救われても罪がある
二つ目のポイントです。散らされた人たちは、それぞれの場所で福音を伝えます。たくさんのドラマがあったと思いますが、ここでは一人の人にスポットライトを当てています。ピリポは、ステパノと一緒に七人の執事に選ばれた人で、彼も信仰と聖霊に満ちた評判の良いクリスチャンでした。ピリポは、まずサマリヤの町々に行った。ユダヤ人はサマリヤ人と仲が悪かったと福音書に書かれていますから、この迫害が無かったら、サマリヤ人にはなかなか宣教がなされなかったかもしれません。でもピリポが行き、多くの人が福音を聞いて信じ、救われました。素晴らしい働きです。
ところが、ここにもう一人の人物が登場する。9節から、シモンという魔術師です。シモンは良くある名前で、ペテロも本名はシモンでした。この魔術師シモンは、ピリポの話を聞き、他の人が救われるのを見て、自分も洗礼を受けた。13節に「シモン自身も信じて、バプテスマを受け」と書かれていますから、信じて救われたことは確かです。でも、古い罪の心がまだ残っていた。ピリポの活躍を聞き、エルサレムからペテロとヨハネが遣わされて、様子を見に来ました。二人は救われた人たちに手を置いて祈り、サマリヤの人たちにも聖霊が下ったのです。それを見たシモンは、自分も同じ事が出来たら、以前のように自分に人気が戻ってくると思ったのでしょう。ペテロに頼んだ。18節。
18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。

これ以来、お金で宗教的な権威を手に入れようとすることを「シモニズム」と呼ぶようになる。人気どころか、大変に不名誉な名前になってしまいました。23節。
23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
シモンだけが特別だったのではありません。私たちはキリストを信じて救われて、罪を赦していただいた。でも、まだ心の中に苦い胆汁、黒い心が残っていることがある。救われたら心の中の罪が無くなって清らかな心になるのかと思ったら、信仰が成長すればするほど、もっと罪に対して敏感になり、昔ならこれくらいはかまわないと思っていたことが罪であることに気がつくようになる。私たちは救われても、なお罪人です。でも、罪に悩むからこそ、もっと祈らなければならない、もっと神様に助けを求める、謙ることができる。救われても罪がある、と言うと変に思うかもしれませんが、それが現実であり、その罪を認めることが大切です。今日も神様の前に進み出て悔い改めて、信仰を新たにしてまいりましょう。
3.分からないから恵みがある
三つ目に、ピリポに話を戻します。サマリヤ伝道はさらに広まり、指導者としてのピリポの働きはもっと祝されていった。ところが、そのピリポに神様は違う場所に行きなさいと命じる。それは人里離れた場所でした。なんで、そんなところに。他の、たくさんの人がいる場所なら良いのに。ピリポはそんなことを考えたかもしれません。でも言われるままに出かけて行きました。27節。
27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。

エチオピア人ですから、当然ユダヤ人でもサマリヤ人でもない。イスラエルとは何の繋がりもない。しかし、異邦人の中にはユダヤ教の教えに惹かれて、中には割礼を受けて改宗者となる人もいました。でも宦官は改宗はできないし、彼は女王の高官、高い地位の仕事をしていたので、せめてエルサレムで礼拝だけでも捧げたいと思って出かけてきて、帰り道です。イザヤ書を読んでいた。当時は聖書は簡単に買えるものではありません。異邦人が手に入れるためにはそうとうのお金を支払ったことでしょう。馬車の中で朗読していたのが聴こえて、ピリポは、「読んでいることが分かりますか」。ちょっと失礼な質問です。怒って、読んでいるくらいですから意味も分かります、と見栄を張ったら、それでお終いですが、彼は謙虚な人でした。導きを願って、ピリポに馬車に乗ってもらった。そこでピリポは、ちょうど開かれていたイザヤ書の53章からキリストのことを話していったのです。この宦官はイエス様を信じて救われた。
この出来事は三つの点で重要です。第一に、これは異邦人が救われてクリスチャンとなった最初の記述です。本格的な異邦人伝道はもう少し後からですが、でもこの人はエチオピアでの初穂です。第二に、宦官が救われた。旧約聖書の時代、宦官は祝福に与ることはできないと考えられていた。ところがイザヤ書。先程馬車の中で読んでいたのはイザヤ書53章ですが、56章を家に帰ってからお読みください。宦官も救われて新しい名前が与えられる時代が来ることが預言されています。どんな人であっても救われる。私はもうダメだ、ということは決して無い。第三に、神様はこの、たった一人のためにピリポを遣わしたということ。この出来事の後、ピリポはすぐに他の場所に行ってしまいます。この一人を救うためだけに用いられた。イエス様の譬え話で、一匹の羊を救う羊飼いを思い出します。私たちも一人の救いのために祈り続け、労を厭わないのです。ピリポがいなくなった後も、救いの喜びは無くならなかったことが8章の最後に書かれています。きっと彼は聖書を読み続け、56章で宦官の救いが書かれているのを見つけたときに、これは自分のことだと分かったでしょう。御言葉が分かるようになって行き、さらなる恵みに満たされ続けるのです。
この名も無い宦官は、聖書が分からなかった、自分の人生がどうなるのか、分からなかった。このまま朽ち果てて行くのか。でも御言葉を通してキリストに出会った時、彼は驚くばかりの恵みが自分にも注がれていることが分かったのです。聖書を読んでも分からなかったからこそ、人間の理解や常識を超えた恵みにあずかったのです。もし分かったつもり、自分は知っていると高慢な思いでいたら、恵みを受け損ねていた。今はわからなくても良いのです。教えてくださいと謙虚に祈り求めるときに、何度も読んできたはずの御言葉から、さらに豊かな恵みに目が開かれる。これが救いの祝福であり、聖霊の働きが確かに私を導いておられるのです。
まとめ.
今は、キリスト教会は厳しい状況に置かれています。伝道活動がなかなか出来ない。交わりも充分とは言えない。経済的にも苦しい。池の上教会もそうです。でも神様の恵みは人間的な常識を超えている。このような状況で、何人も洗礼の恵みに与る人、転入会して神の家族に加えられる人が起こされている。新しい技術を使って、出来ないではなくて出来ることを見出して活動している若者たちがいる。教会に来たことのない人が御言葉のメッセージを聞くことができる。ですから、皆さん。私はもうダメだ、と行き詰まった時でも、神様はそれ以上のお方ですから、神様を信頼して祈り求め続けてください。自分の常識を覆すほどの神様の恵み、キリストの救いの素晴らしさを体験するチャンスなのです。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2020年11月22日

礼拝説教「闇を切り開く光」使徒の働き6:1〜8(使徒6〜7章)

礼拝説教「闇を切り開く光」使徒の働き6:1〜8(使徒6〜7章)
序.今日の説教題は「闇を切り開く光」です。闇と光とは、よくクリスマスメッセージで語られます。教会の暦では来週から、クリスマスを待ち望む待降節です。今、世界中が混沌とした闇の世界かもしれません。でも私たちはイエス様を信じ、希望を持って生きる者とされました。私たちの心には光があるのです。『使徒の働き』に描かれている最初の教会は素晴らしい成長を遂げていると同時に、多くの問題と困難がありました。この世では教会も闇の中に置かれている。ただ信仰だけが光へとつながっている。そのことを今日も御言葉を通して考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイント。第一は「壊れかける教会」、第二は「用いてくださる神」、そして第三に「顕されたキリスト」という順番でメッセージを取り次がせていただきます。
1.壊れかける教会
先々週の5章ではアナニヤ夫婦の事件がありました。6章では個人ではなく教会全体に問題が起こります。1節を読みます。
1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
ユダヤ人たちはもともとヘブル語を話していました。正確にはアラム語だと言われますが、専門的なことはさて置き。捕囚の時代からイスラエル人は世界中に散らされ、それぞれの地域の言葉を使うようになり、ギリシヤやローマ帝国の支配下ではギリシヤ語が公用語で、やがてヘブル語を使えない人も増えてきた。由緒正しいヘブル語で生活している人からは、ギリシャ語を使うユダヤ人は見下されていました。食事の配給でも、ヘブル語ユダヤ人が優遇され、ギリシャ語ユダヤ人は後回し、その中でも一番立場が弱い寡婦たちが最後になり、配給が回らないこともあった。世間での差別が教会に入り込んでいたのです。しかし苦情を申し立てたギリシャ語ユダヤ人たちにも、寡婦を後回しにする点では差別があった。旧約聖書で繰り返し寡婦や孤児を守るように教えられているのに、実際は弱いものが差別されます。
この問題を解決するために、十二使徒は七人を選ぶように提案し、この七人に配給の仕事を任せた。これが教会における役員とか執事と呼ばれる働きの始まりだと言われます。確かに組織という面から考えるなら適切な解決で、悪いことではありません。でも、どのような信仰がそこに働いていたのかが問われます。
2節の後半に、「私たち(十二使徒)が神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」と書かれています。古い、口語訳聖書では、「食卓のことに携わるのはおもしろくない」と訳されていて、食事の働きをするのが面白くない、というのはいかがなものか、と批判的な意見もあります。面白くないから仕事がしたくないというのは問題です。食事の準備が価値の低い仕事だというのも間違っています。もちろん使徒たちが言っているのは、そんなことではありません。新改訳が訳しているように、「よくありません」。それは、食事の働きはまさに命に係わる大切なことですが、恐らく一万を超える人たちの配給に携わるなら多くの時間が必要で、その結果、神のことばを教えるという、これも大切な働きで、体のごはんも必要ですが、信仰者にとって魂の糧である御言葉を教える働きができなくなるなら、これも教会にとって大変なことです。その意味で、仕事を分担したことは良い。ただ、もし十二使徒が、ただ単に祈りと御言葉の奉仕、それは確かに重要な働きですが、それだけに専念するあまり、多くの弟子たちの悩みから目を背けてしまったら、それはあるべき姿ではありません。
今、エルサレム教会は、差別のため、ヘブル語ユダヤ人とギリシャ語ユダヤ人とに分裂しそうになっている。その争いの中で弱い立場の寡婦たちが一番苦しんでいる。そしてリーダーたちも、御言葉を教える使徒たちと、食事に携わる七人の執事たちとに働きが分かれてしまう可能性がある。キリストのからだである教会がバラバラになろうとしていたのです。
今も教会は様々な問題を抱え、時には一体性が損なわれそうになることも少なくありません。自分と異なる立場や境遇の人をお互いに思いやることを大切にして、心を一つにする。それは祈りから始まります。どうか離れている人、弱っている人のために特に祈っていただきたいと願っています。
2.用いてくださる神
二つ目のポイントに移ります。配給の働きのために選ばれた七人が5節に紹介されています。ステパノとピリポだけは覚えておいてください。7節に書かれている通り、配給の問題が解決して、また教会は前進していきます。その中で、8節からはステパノの活躍が記されています。8節。
8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
わざとしるしとは、奇跡のことです。おそらく病人たちが癒されたのでしょう。選ばれた七人の執事は、信仰と聖霊に満ちた人だったと書かれていますから、奇跡は人間の力ではなく聖霊の働きです。神様がステパノたちを用いて働いてくださったのです。配給の奉仕だけでなく、ステパノは伝道も行います。9節では様々な人たちと議論したと書かれ、10節。
10 しかし、彼(ステパノ)が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
確かにステパノは知恵に満ちた人で、議論に勝つことができた。ただ、気を付けたいのは、議論では人は救われない。議論して負けた人たちは、今度は偽りと暴力でステパノを倒そうとします。ステパノが素晴らしい信仰者なのは確かですが、議論を吹っ掛けられて、それに議論で対抗した。でも、信仰は理屈だけでは上手くいかない。その点でステパノにも足らない部分があったのです。
ステパノたちだけでない。十二使徒も欠点を持った人間です。でも神様は、そのような彼らを用いてくださるのです。神様が用いてくださるからといって、必ず成功するかはわかりません。でも、神様が共にいてくださり、神様の働きの一部を委ねてくださるほどに私たちを信頼してくださる。それがスゴイことではないでしょうか。神様は私たち一人一人を用いたいと願っておられます。ただ受けるだけ、それも恵みです。でも恵みにお応えしたいと思う私たち、しかし力がないから自分なんて、としり込みする。力が無くても良いのです。用いる神様に力があるのですから。小さな働きでも、面白くない働きでも良いではありませんか。神様に用いていただけることを感謝したいと思います。
3.顕されたキリスト
最後に、裁判の場に立たされたステパノを見てまいります。15節。
15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。
光り輝くような顔だったのでしょう。顔だけが素晴らしかったのではありません。この後、7章は、読みません。長すぎます。教会の新改訳聖書第三版では4ページ近くあって、ほとんどがステパノの説教です。長いので読まなくても結構ですが、この説教は、もっと長い旧約聖書を見事にまとめたものです。イスラエルを救おうとされる神様の働きと、それに従わない人間の罪が旧約聖書の歴史を通して語られ、アブラハムから始まり、ヨセフ、モーセ、ダビデ、預言者の時代と、旧約全体を網羅した説教です。と言うとちょっと興味が出てきたでしょうか。(先週の特別記念礼拝で、村上先生は、このステパノの説教は説教学では見本のようなメッセージだと言われました)。読みたい人は後でどうぞ。長い途中を飛ばして、最後の54節から最後までを読みたいと思います。
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

とうとうステパノは殉教してしまいます。素晴らしい働きをした、信仰に満ちたステパノ。聖霊に満たされ、用いられた。でも、殺されてしまった。しかも、彼の見事な説教を聞いた人たちは、救いを受け入れないで、彼を殺してしまう。悲劇的な最期です。でも、それは一面にすぎません。もっと大切なことがここに書かれています。ステパノは、最後はイエス様を見つめながら召された、だけでなく、彼の言葉です。十字架のイエス様と同じです。イエス様はおっしゃった。「父よ、彼らをおゆるしください」。自分を殺そうとしている人たちのためにとりなしの祈りをする。ステパノは命の最期を用いて、イエス様を証ししたのです。
6章、7章でも聖霊は働かれました。奇跡もあり、素晴らしい言葉もあった。聖書も語られた。でもこれまでと違い、目立った形では、あまり救われる人が起こされていないようにも見えます。どうぞ間違えないでください。たとえ何千人が一度に救われるようなことが無くても、聖霊は確実に働いておられ、人数や人々の満足以上に、そこにイエス・キリストがおられること、クリスチャンを通してイエス様の姿が示されること。それが聖霊の働きなのです。
まとめ.
今、池の上に限らず、ほとんどの教会で、以前のような働きができない。伝道会やコンサートなどのイベントも難しい。交わりも満足な状態ではない。でも、それは聖霊の働きがないということではありません。ステパノは殉教までした。でもイエス様の十字架の姿を見事に描き出した。私たちも、多くの困難の中で、でも私の生き方、私の生活、働き、祈り、なんでも良い。どこか一つでもイエス様を証しし、イエス様のお姿の一端を映し出すものとして用いられるなら、それは私たちがキリストに似たものとされていく証拠であり、聖霊が確かにあなたの中に働いていてくださるのです。これが本当の光です。たとえ世界が闇であっても、その中で、キリストを指し示す存在として私たちがキラっと光ることができる。イエス様を証しして、家族や隣人の心の中にも光を手渡すことができる。そのために、イエス様は闇の世界に誕生してくださり、十字架で罪からの救いを成就してくださった。聖霊は、この救いの光を私たちにも灯してくださるのです。まもなくクリスマスです。イエス様の光を心の中に受け入れましょう。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2020年11月15日

今日はお休み

今日は特別記念礼拝で、千代崎の説教はありませんでした。
posted by ちよざき at 15:00| Comment(0) | 日記