2020年04月01日

このブログについて

自分のブログを作らなければとは思っていたのですが、なかなか出来ずにいました。
忙しいので作ってみました。(現実逃避とも言います)
ここに載せるのは、過去の説教原稿です。
他には、まだ考えていません。
以上

教会のホームページが新しくなりました。
http://www.ikenoue-ch.jp/
(2017年6月24日スタート)
posted by ちよざき at 00:00| Comment(1) | 日記

2019年09月15日

礼拝説教「聖きに進む人生」ローマ人への手紙6章12〜22節

礼拝説教「聖きに進む人生」ローマ人への手紙6章12〜22節
イエス・キリストを信じてクリスチャンになることを、新しく生まれる、すなわち新生、と言うことがあります。その人が何歳であっても、神様の子どもとしておぎゃーと生まれた。新しい人生をスタートすることが出来るのです。でも私はクリスチャンになってからも、もう何十年も経った、だからクリスチャンとしても高齢になった、という人もいるかもしれません。でも、「日々、新たにされる」とも書かれていますから、キリストにあってはいつもリフレッシュされて生きることが出来る。今日からまた気持ちを新たにして信仰の人生を進んで行っていただきたいと思います。ただ、どのような人生を歩むのかが問われます。今朝は「聖きに進む人生」という説教題をつけました。聖さに向かって進む、それがクリスチャンの向かうべき方向です。間違った道を進むのではなく、私たちに新しい命をくださった神様の御心にかなう人生を歩ませていただきたい、そう願っています。
いつものように三つのポイントに分けてお話しさせていただきます。第一に「義の器」ということ、第二に「神の奴隷」、そして第三に「聖潔への道」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.義の器(12〜13節)
13節に「不義の器」、「義の器」という言葉が出てまいります。器というのは入れ物ですから、いろいろなものを入れることが出来る。プレゼントで素敵なマグカップをいただくことがありますが、そのカップでコーヒーを飲むことも、水を飲むこともできますし、何かを飲むためではなく、例えば机の上に置いてペンを立てるのに使うのもオシャレです。原文では、器と訳すよりも道具とか武器と訳すことが出来る言葉ですが、道具や武器は使い方がかなり特定されるのですが、でも物は使いようです。ノコギリは木を切ることに使いますが、ノコギリを楽器として音楽を演奏する人もいる。ちょっと話が脱線しましたが、私たちは自分を何の器、何の道具とするか、が問われています。せっかく救っていただいて、新しい人生としていただいたのに、新しい革袋に古いぶどう酒を入れるなら革袋がダメになってしまう。
私たちが洗礼を受けたとき、それは一度水の中で死んで、起き上がる時に新しい命に生きる者とされた。一度死ぬとは、古い生き方、罪に対して死んだのだと11節で語られています。だから、また罪に支配されるような生き方になってしまっては、救ってくださったお方に申し訳ない。罪から救われて自由の身となったのに、自分の欲望に従うような「不義の器」となってはいけない。むしろ、私たちは「義の器」となって、それは義なる神様に用いていただける器です。欲望ではなく神様に従う、それが私たちの目指すべき生き方だと教えているのです。
パウロは福音とは「信仰義認」だと言います。信じたときに神様は罪人であった私たちを義、正しいと認めてくださった。ですから正しい者として相応しい人生、義の器としての生き方を進んでまいりいたいと願うのです。
2.神の奴隷(14〜21節)
二番目に「神の奴隷」ということですが、誰も奴隷になりたいとは思いません。ところが聖書は、人間という存在は根本的には、誰か、あるいは何かに仕える存在として造られた。創世記を、開きませんが、2章で人が土から造られ、そして土を耕すものとなった。この「耕す」という言葉は「仕える」という意味の言葉です。人間は神様から命じられ、つまり神様に仕え、具体的にはアダムは土を耕した。仕事も何かや誰かに仕えることです。
でも、自分は誰にも仕えたくない、という人もいます。自分は自分の思い通りに生きるんだ、と言う人は誰の奴隷でもないのか。聖書は、それは罪の奴隷、欲望の奴隷だと言います。自分の好きなことをするのは、自分の願っていることには逆らわない。ですから自分の欲望の欲するままに行動する。時には正しくないことでも、自分の願いならば、突き進んでしまう。いつのまにか、欲望の奴隷となってしまうのです。自分の人生において、誰でもない、自分自身が主である、とするなら、それは罪の奴隷となって、罪の言うままに歩むなら、その人生は滅びに向かう生き方になってしまう。そのような死の人生ではなく、永遠の命に向かう人生を歩むためにはどうすれば良いのか。自分でもない、罪でもない、むしろ本当の意味で正しいお方であり、また永遠の命を与えてくださるお方、すなわち神様に従う生き方です。
キリストを救い主として信じるとは、このお方を私たちの主人として受け入れることです。キリストに従うとき、イエス様は父なる神様に従ったのであり、イエス様ご自身も御子なる神ですから、神に従うとは具体的にはキリストに従うことでもあります。
私たちの信仰生活は、キリストを主として、キリストに、また神に従う生活です。一週間の最初の日に、まず神様を礼拝する。それは、この一週間も神様に従うためです。日々、聖書を読むのは、神様の声に聞き従うためです。祈るのは、自分の願いを神様に隠さずに述べると共に、全て委ねて、あとは神様にお任せして、神様に従って行くのです。そして、一週間に一度ではなく、毎日、様々な状況で、神様に従う生き方を選択しながら歩む。それが信仰者の人生です。
神の奴隷と言う言葉は、すこしキツイかもしれません。でも知らないうちに罪の奴隷とならないためには、神様に仕え、神様の言葉に従う奴隷となるとき、幸いなことに神様は私たちを奴隷として扱き使うのではなくて、愛していてくださり、大切に扱ってくださるだけでなく、神様の働きのために用いてくださる。尊い働きのために用いる器は、聖なる器と呼ばれます。神様に従うなら、聖なる器として整えられるのです。欲望のために生きる人生は死に向かっているだけでなく、いつか滅んでしまうようなものに仕えることになる。そんな人生ではなく、永遠の命に至る人生、不義ではなく義に仕える器、神様の義の道具として用いていただきたいのです。13節。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
3.聖潔への道(19〜22節)
最後に清潔への道ということですが、聖潔とは、石鹸で手を洗うと言う清潔ではなく、聖さという意味の聖潔です。聖というのは神様のご性質で、神様の言葉が書かれているから聖書と言い、聖なる神様を信じて神様のものとされたので聖徒と呼ばれます。私たちは罪から救われて、義と認められた、だけでなく、さらに神様の聖なるご性質にふさわしいものとされていく、それが聖潔に向かう人生です。19節。
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
でも、聖い生き方をしたい、と願っても、なかなか聖い者となることができない。罪を赦されて救われても、なお、自分の中にある罪に悩まされることがある。私もそうでした。なぜ、自分は罪を犯してしまうのだろうか。もちろん、そんな罪人でさえ神様は愛してくださり救ってくださった。でも救っていただいたのに、罪に悩む生き方を送るのはイヤだ、いえ神様に申し訳ない。そのように悩み苦しんでいるクリスチャンに対して、聖書は、聖めということを語っている。どうしたら聖くなることが出来るのか。
20節から少し読みたいと思います。
20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
ここで、義については自由というのは、自由に正しいことを行うというのではなくて、自分勝手に何が正しいかを決める。自分に都合の良いことが正義なのです。それは知らない間に罪の奴隷となる生き方です。22節。
22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
ここでパウロが語っているのは、キリストを信じて義と認められた、それは罪から解放されたのであり、罪の奴隷ではなく神の奴隷となったのであった。そして、「聖潔に至る実を得た」と言っています。聖くなることが出来ないでもがいている私たちに、すでに「得た」。何を得たか。「聖潔に至る実」です。私たちの中に与えられた永遠の命、また神様が私たちの前に備えてくださった信仰による生き方。もう、それが聖潔に至らせる道なのです。御言葉を読んで、聖霊が私たちの心に語り掛けてくださり、罪を示し、赦しを受け入れさせ、信仰を増し加えてくださる。私たちが欲に従うことを求めるのではなく、聖なる神様に従うことを求めるようにしてくださる。自分の力で自分を聖くすることは出来ません。でも神様にお頼りし、神様の語ってくださる声に従って行くなら、自分の力ではなく神様の力によって変えられ、変えられ続ける。それが聖潔に至る、聖潔に向かう道なのです。それは、もう神様が与えておられるのです。私たちはその生き方に従うことを決心するのです。
この聖潔に向かう道は、いつか、クリスチャンとして立派になったら、では無くて、実は最初から備えられ、開かれている。それが、ここまで何度も語って来た、「キリストと共に生きる」ということです。もはや生きているのは自分ではなく、キリストが私の内に生きておられる。私はもうキリストと共に十字架に着けられた。それは欲望に従う古い生き方をしている自分が十字架の上でキリストと共に死んで、聖霊に従い御言葉に従う新しい生き方が始まった。この新しい人生を一歩ずつ歩むことです。この聖さに向かう道は私たち、誰の前にも開かれている。自分でそれを閉ざすのではなく、この道を自ら選び取って歩む。いえ、自分の力ではなく、キリストが共に歩んでくださり、具体的にも聖霊が働いて、御言葉を通して導いてくださるのです。この聖潔への道を、さらに聖書から教えていただき、知っただけではなくて、実際に足を進める。どうぞ、この恵み、聖潔に至る実を受け取り、この道を進んで行きましょう。
まとめ.
今日は敬老愛餐会です。これまでの人生を感謝しつつ、これからの人生、それは神様が与えてくださった、新しい人生です。この人生をどのように歩むかは、一人一人に選択がゆだねられています。罪や欲望に振り回される生き方ではなく、聖さを目指す人生を歩ませていただきましょう。
タグ:ローマ書
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2019年09月08日

礼拝説教「キリストに生きる」ローマ人への手紙6章1〜11節

礼拝説教「キリストに生きる」ローマ人への手紙6章1〜11節
「使徒の働き」を読むと、イエス・キリストを信じた人々がクリスチャンと呼ばれるようになったのは、アンテオケにあった教会が最初だったと書かれています。何故そう呼ばれたかは書かれていませんので推測しかできませんが、アンテオケ教会の人々が口を開けば「キリスト、キリスト」とキリストの事を語っていたので、周りの人が、あいつらは「キリスト屋だ」とからかうつもりでつけたあだ名でしょうが、それを彼らの方が気に入って自分からクリスチャンと名乗るようになったのだと思います。でも、クリスチャン、キリストのもの、キリストの弟子と呼ばれるに相応しいだろうか。本当の弟子は、師であるキリストのような存在でなければならない、キリストが教え、キリストが生きられたように生きるのがクリスチャンではないでしょうか。
今朝はパウロが私たちに教えている、キリスト者の生き方として大切なこと、キリストと共に生きる、ということを、ご一緒に考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「恵みによる罪からの救い」、第二に「キリストと共に罪に対して死ぬ」、そして第三に「キリストと共に生きる恵み」という順番でお話ししてまいります。
1.恵みによる罪からの救い(1〜2節、5:20〜21)
先程は司会者に1節から朗読していただきましたが、「それでは」という書き出しから分かるのは、前の章から続いている、ということです。先週お話ししたことですが、イエス様によって罪からの救いが始まったことが5章後半に書かれていて、その結論的に、5章20節に「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と書かれています。それに対して、6章1節で、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」とつながっているのです。
私がクリスチャンになった、つまりイエス様を救い主として受け入れたのは小学生の時でしたが、大人の人のお証を聞くと羨ましく思ったことがあります。特に劇的な証と言うのでしょうか、「自分はこんな人間だったけど救われて変えられた」と聞くと、自分はそうではない。教会に来るようになる前は、と言われると、自分は生まれた時から教会に来ていた。救われる前はこんな罪を犯していた、と聞くと、自分は嘘をつくとか、その程度のことしか言えない。いっそ大きな罪でも犯して、それから救われたら、スゴイ証を語れるんじゃないか。そんな風に悩んでいたことがあります。同じ牧師の息子でも、親に反発して、ぐれて、暴走族に入り、ヤクザになって、それから救われて、とうとう献身して牧師になった人もいますが、そこまでの勇気もありませんが、ちょいワルくらいになって、それから救われたら、いえ、今からでもスゴイ罪を犯して...。いいえ、それが本当に良いことでしょうか。神様の御心にかなっているでしょうか。確かに罪が大きいほど、それを赦してくださる恵みも大きい。でも、だからと言って、もっと罪を犯すべきではない。パウロは2節で「絶対にそんなことはありません」。ある日本語訳では、「断じて否である」と訳していますが、それくらいの口調でパウロは語っているし、神様ご自身がそうおっしゃるでしょう。恵みを受けるために、もっと罪を犯そう、と言うのは、その罪を赦すために、身代わりとして、聖書的な言い方ですと、贖いとなるために、命をかけてくださったキリストの愛を踏みにじることです。*。また、罪は、本質的には、神に反逆することだということがわかってきたら、それを敢えて犯すのは神への正面切った敵対行為です。ですからパウロは大変に強く否定している。パウロの伝えた福音を歪めて受け取った人が、パウロがもっと罪を犯すように教えている、と吹聴したのに対して、パウロは「絶対に否」と反論しているのです。
確かに、わざと罪を犯すのは問題です。クリスチャンは敢えてそんなことはしないでしょう。でも実際はどうかというと、わざとではなくても罪を犯してしまう。いけないと分かっていても、やめようと思っても、それでも失敗してしまうのが、人間の弱さです。では、人間は弱いから罪を犯してしまうのも仕方がない。これからも罪の中に甘んじよう、で良いのでしょうか。パウロは、そして神様は「断じて否」というはずです。
神様がクリスチャンに求めておられる生き方は、罪の中で甘んじて生きて、そのうち罪が仕方がないとうそぶいて当たり前になっていくという生き方ではない。少しでも罪から離れる、いえ、離れたいと願う、そういう生き方ではないでしょうか。そして、そう願いつつ、なかなかできないで悩んでいる者を、神様は見捨てない、放っておくはずがない。
二番目に、どうしたら罪の中に生きるのではなく、キリストに生きるものとなれるのか、見てまいりたいと思います。
2.キリストと共に罪に対して死ぬ(3〜7節、11節)
パウロは3節でバプテスマ、すなわち洗礼について語ります。洗礼は、その人がイエス・キリストを信じて救われたことを公にすることです。また洗礼は救いの意味を目に見える形で教えます。いつもお話ししていることですが、洗礼式で水を用いるのは、水の中で一度死ぬことを意味しています。それはキリストと共に死ぬためです。キリストの十字架は罪の贖い、つまり私たちが受けるはずの罰をイエス様が身代わりとなって受けてくださった。私たちの代理となってくださった。だから私たちは罰を受けなくてすんだ。いえ、そうではありません。
代理人ということがあります。本人ができないときに、しかるべき人が代理人となってする。手続きをして判子を押す。代理人が行ったことは、本人が行ったことになります。イエス様が身代わりとして十字架で死んでくださったとは、神様の目には、私たちが死んだのです。それが、3節や4節で、「キリストの死にあずかるバプテスマ」ということです。キリストが死んだとき、私も一緒に死んだ。でも、どういう意味で死んだのか。
医学的な意味で、十字架上でイエス様は息を引き取られた。でも、それが全てではない。10節にこう書いてあります。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
人間が死んだなら、もう罪を犯すことはなくなるし、罪の罰を受けることもない。そして私たちはバプテスマを受けたときにキリストと共に死んだのです。ですから私たちも罪に対して死んだのです。このことをパウロは繰り返して語っています。3節から11節で、知らないのか、で始まり、6節の終わりには「知っています」、8節最後は「信じます」、9節、「知ってます」、11節、「思いなさい」。私たちは洗礼を受けたときから、もう罪に対しては死んでいるのだということを、知りなさい、そう思いなさい、信じなさい、と語っているのです。
ただ、それは、そう思い込みなさい、という話ではありません。3節の最初で「知らないのですか」と書いていますが、これは旧約聖書の預言書でよく使う言い回しです。あなた方は知らないのか、というのは、もう知っているはずだ、もし知らないのなら、今からでも良く聞いて知りなさい、ということです。知識として知るだけなら、聞いたら知ったことになる。でも聖書が知ると語るときは、頭で知るだけでなく、体で、体験として知ることも含んでいます。
一番分かりやすい例は、夫婦がお互いのことを知る、というのは結婚前に身上書を受け取って、名前や学歴や趣味を知ったら、もうそれで知ったといえるでしょうか。恋愛結婚で、恋愛しているときは、相手には自分を良く見せたくて取り繕います。いいカッコします。でも結婚したら全部見えてしまう。アバタもエクボと思っていたら、良く見たら、やはりアバタだ。それでも一緒にいると、相手の良いところも悪いところも、外面だけでなく内側も知るようになる。何年たっても、ああ、この人にはこんな一面があったんだと驚くことがある。一度知ったら完全に分かるという知り方ではなくて、一生かけて知り続ける。それが知るということです。
罪に死んだ者であると知りなさい、とは、実際の体験を通して、一生知り続ける知り方です。自分は罪に対しては死んだんだ。だから、こんなことをする必要はない、それにとらわれることはない。そう思えたとき、その罪から自分の身を離すことができる。でも、また次の日には同じことをしてしまうでしょう。そうしたら、また神様に赦しを願って祈り、力をいただいて、その罪を振り払う。そうしたことの連続です。そのように繰り返し罪に対しては死ぬことを体験して行ったとき、だんだんと罪から離れ、やがて死んだ者は葬られる。4節。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
小林和夫先生が説教の中で、笹尾鉄三郎という先生の話を紹介しています。人間誰でも面と向かって悪口を言われたら、最初は我慢をしていても腹が立ってきて、ついに堪忍袋の緒が切れて怒り出す。でも、葬られて墓の中に入ったら、いくらその人の悪口を墓の前で言っても、怒って墓から出てくることは無い。私たちが罪に対しては死んで葬られるとは、いくら誘惑されても、もう反応しなくなる。目の前に罪を犯しそうな状況があっても、誰も見ていなくても、これは自分とはもう無関係だと思える、そういう体験をするときに、私たちは罪に対して死んでいるのだということを知るのです。
しかし、もう死んでいるはずの罪がしぶとく生きていて、そのために悩み苦しみ続けるのは、なぜなのでしょうか。信仰が足らないから、自分はダメだから、神様から見放されたのではないか。そうではありません。聖書をもう一度読むなら、キリスト教は、その重要なメッセージは十字架の贖いによる救いですが、十字架は十字架で終わるのではなく、復活がある。いいえ、復活が無ければキリスト教は始まらなかった。私たちのクリスチャンとしての歩みも、罪との戦いも、復活抜きには不可能なのです。
3.キリストと共に生きる恵み(4〜11節)
私たちはバプテスマによってキリストの死に与った、つまりキリストと共に死んだだけでなく、キリストと共に復活する、ということを、5節。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
そしてキリストと共に復活するなら、キリストと共に新しい命に生きるのです。8節。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
信じます、とあります。具体的には、私たちは罪に気がついたらすぐに悔い改め、キリストを信頼し、キリストに従うことを繰り返していく。それで大丈夫なのでしょうか。キリストと共に生きる、あるいは、キリスト我が内にありて活くるなり、と、ただ知っている、信じている、というのではなく、私が信じているから上手くいくのではありません。イエス様が私の中で生きておられるなら、イエス様が私の主であり、私はキリストに従う者です。主であるキリストを差し置いて、自分が全部決めてしまうのは、自己中心の罪です。でも私たちは、罪に関して、自分で決めてしまい、これくらい仕方が無いと諦めたり、自分の力で罪を解決しようと奮闘して失敗する。そうではなくて、生きて働いておられる主であるキリストにお任せし、お従いする。では、その主であるキリストは、復活の命をもってどのように生きておられるのか。10節。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

神に対して生きる、とあります。どういう意味でしょうか。
仕事をする人は、例えば、上司に対して生きています。上司がどう考えて命じているかを見ながら、何をするかを考えます。あるいは商売ならお客さんを見ます。客が何を求めているかを見て、行動します。愛し合う二人は、相手の言うことやすることを注意深く見て、それに対応するように語り、行います。子育てをする人は、赤ちゃんから目を離しません。赤ちゃんに対して生きているのです。
イエス・キリストは、父なる神に全く従って十字架につき、父なる神の力で復活させられた。ですから私たちは、このキリストにならって、神様の言葉に、キリストが語られることに、耳を傾け、その声に従うのです。自分の力でできるかは分からない。でもキリストが命じておられるなら、キリストがさせてくださると信頼する。具体的には、聖霊が御言葉を通して語りかけてくださるときに、その御声に従って生きるのです。そのような体験を通して、キリストが生きておられること、私の中で生きて働いていてくださることを、体験として知り、もっと知り続けていくのです。
今年の教会の標語は「おことばどおり、この身になりますように」です。神様は四六時中、私たちに命令し続けて、私たちをロボットか操り人形のようにしようとしておられるのではありません。私たちを信頼し、力を与え、成長出来るようにしてくださる。でも大切なときには、「そちらの道ではなくて、こちらに進みなさい」と語られる。その時に、「いいえ、私は自分の好きなことをします」というのではなく、聖霊が御言葉を通して語ってくださったことは、その声に聞き従う。それが活けるキリストを知り、キリストと共に生き、キリストが私の内で生きていてくださることが体験できる道なのです。
まとめ.
キリストに生きる、とは、キリストが共に生きるよな生き方ができるように頑張りなさい、ということではなく、もうすでにキリストは私たちと共に生きてくださる、という福音です。最初は実感できない。でも、御言葉を聞き、それに従うことを選んで行くなら、本当にキリストは私と共にいてくださるお方だということが分からせていただける。この福音、良い知らせを、受け入れて、主の御言葉に聞き従いましょう。

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