2022年05月15日

5月15日礼拝説教「知恵よりも自由よりも権利よりも」1コリント9:19〜23(8〜9章)

5月15日礼拝説教「知恵よりも自由よりも権利よりも」1コリント9:19〜23(8〜9章)
今は新型コロナのためか、電車に乗っても車内は静かなことが多いですが、以前は、時々、車内でも携帯でしゃべっている人がいました。なぜ携帯での通話が迷惑なのか、いろいろな理由があると思いますが、一つには、対話の片方しか聞こえない。普通の会話ですと、二人が語っている、そのやり取りが聞こえるので、何について語っているのか、理解できますが、通話ですと一人の言葉は聞こえても相手の声は周囲には聞こえてこない。ですから、耳に入るのは会話の半分だけで、何について語っているかよくわからない。何だかわからない話を延々と聞かされるのはすごく気になってしまう。突然に変な話から始めてしまいましたが、コリント人への手紙は、著者のパウロがコリント教会のクリスチャンたちと手紙でやり取りをしていまして、そのうち、パウロの書いた手紙の一部だけが聖書に残されています。ですから私たちは、この手紙を読みながら、背後にあるコリント教会からの手紙を想像する必要があります。例えば、8章の1節の最初にこう書かれています。
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが
ここには、コリント教会からの手紙で質問が書かれていて、それに対するパウロの応答が書かれています。「偶像にささげた肉」が何かは、少し読んでいくといくらか理解できます。その肉を食べてよいか、食べてはいけないか、という質問だったのでしょう。それにパウロが答えています。でも、8章に書かれているのは、単純に肉を食べるべきかということではなく、その質問がなされた背後にある問題にまでパウロは目を向けている。それは、8章から9章に続いている問題で、クリスチャンの自由や権利といった、現代の私たちにも関わってくることなのです。
前置きが長くなりましたが、今日は、第一コリントの8章と9章を通して、「知恵よりも自由よりも権利よりも」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「知識よりも大切な愛」ということ。第二に「権利よりも大切な誇り」、そして第三に「自由よりも大切な福音」という順序で進めてまいります。
1.知識よりも大切な愛
もう一度、8章1節から少し読んでいきたいと思います。
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなけらばならないほどのことを知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

古代ギリシャの有名な哲学者ソクラテスが「無知の知」と言うことを語ったのを思い出しますが、人間にはプライドがあって、知らないというのが難しいようで、知らないのに知ったかぶりをして失敗することもあります。パウロも、知っているという人は知るべきことを知っていない、と、ソクラテスのようなことを言っています。では何を知るべきか、パウロは、「しかし、人が神を愛するなら」と言います。哲学、英語でフィロソフィと言いますが、フィロは愛するという意味で、ソフィは知恵、ですから知恵を愛するということでしょうか。パウロは知恵を愛する以上に大切なことは、神を愛することだと言います。なぜなら、人間には分かっていないことも神様がすべてご存じであり、このお方を愛し、信頼していれば、分からないことがっても恐れる必要はないからです。
コリント教会の人たちは、知恵があると自称する人が多かったのでしょう。「偶像にささげた肉」という問題に関しても、彼らは、自分たちは知っている、と主張します。その知識とは何か。4節。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
アテネ同様、コリントの町も学問が活発で、偶像の神殿も多かった。クリスチャンになって、偶像礼拝は罪だと聖書から学び、特にイザヤ書をはじめとする預言書には、偶像なる神は無に等しいのであって、天地を造られた神は唯一のお方だと教えられています。そのような知識を持っている人は、偶像にささげた肉と言っても、偶像なんてただの石や金属だから、ささげても意味がない。だから食べても良いと主張した。ところが、偶像礼拝の罪から救われた人の中には、二度と偶像礼拝には関わりたくない。でも偶像に捧げた肉を食べることで偶像礼拝に加担することにならないか、心配する人もいて、そのような人は市場で売っている肉はたいてい偶像に捧げた肉のおさがりであるので、肉は食べたくない、と考えた。考え方の違い、ということはよくある話です。教会で問題となるのは、どちらが正しいかということ以上に、肉を平気で食べている「知識人」が、食べない人をあいつらは無知だと見下す。食べない人は食べる人を、罪を犯していると言って裁く。ここに教会内での争いが生じていたのです。
パウロは双方の主張を知っていて、あえて「私たちは知っています」と知識派に話を合わせていますが、同調しているのではありません。10節。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神に捧げた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

神の愛を、彼らは知識としては知っていたでしょうが、その愛によって救われたことを心から感謝していないために、他のクリスチャンが躓いて心を痛めていることに気が付かない。神への愛と兄弟への愛は不可分です。知識があると高ぶっている人には、神の愛を知ることが必要です。そして、知らないと見下すのではなく、他者への配慮を忘れてないようにパウロは語っています。もちろん、反対の立場の人には、唯一の神、また唯一の主であるキリストについて教え、8節。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
と教えていて、両方の立場をふまえて語っているようです。ですからパウロの結論、13節。
8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。
これは、パウロが肉食を止めてベジタリアンになったということではなく、誰かを躓かせるような状況なら食べないということでしょう。食物の話だけではなく、私たちは神と人を愛するということを忘れてはならない。この原則に立って考えるなら、コリント教会のような争いを避けることが出来るのです。
2.権利よりも大切な誇り
二つ目のポイントに移ります。8章9節。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまづきとならないように、気をつけなさい。
ここでパウロは「権利」という言葉を使っています。続く9章では自由と権利について語っています。肉を食べる権利はある。でも、その権利を使うこと以上に大切なことがある、とパウロは主張しています。ここにもう一つの背景が見え隠れしています。9章3節から。
9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
9:5 私たちは、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。

飲み食いの権利は人間誰にでもあります。ないのでしょうか、という問いかけは、ありますよね、という意味です。では、6節の「生活のための働きをやめる権利」とは何のことでしょうか。
当時の教師たち、教会を教えて回る巡回教師たちは、その働きをするために生活費は教会が支えていました。ところが訳あって、パウロはコリント教会からは金銭的な援助は受けてこなかった。そのことから、パウロを批判する人は、金銭を受け取らないのはパウロが使徒ではないからだと裁いたのです。パウロは14節で
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音のための働きから生活のささえを得るように定めておられます。
パウロは、これは当然のことだと言いながら、15節。
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りを誰かに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
後半は過激な言い方をしていますが、パウロの言いたいことは、権利を主張したいと誤解を与えたくない。
理由ははっきりとは書かれていませんが、パウロはコリント伝道の中で彼らから金銭を受け取ることが彼らとパウロとの関係にとって良くないと感じて、コリント伝道の間は、彼らからの援助を受けなかったようです。コリントに到着したとき、パウロは天幕作りという副業をしながら伝道していた、と『使徒の働き』に書かれています。それでは伝道のために時間を使えない。そこで途中からは他の教会からの援助が届いて、フルタイムで伝道ができるようになったと記されています。
パウロは福音を伝える者が援助を受けることを否定しているのではない。パウロのコリント教会に対する個人的な思いがあったようです。ですから、彼らからの援助を受けないことが「誇り」だと言っているのです。援助を受ける権利はパウロにもある。でも、その権利を使用しない権利もある。時には自分の誇りにかけてでも権利には頼らない、という姿勢もあることをパウロは示しています。
私たちはクリスチャンとして、権利を使ってはいけない、ということではありません。社会の中で当然主張すべき権利は大切です。でも、権利を主張しすぎることが、周りの人からはあさましく見えるかもしれない。いいえ、他人の目に左右されるのではなく、神様がどう見ておられるか、を忘れてはならない。神様と共に生きる、これは失ってはならない、パウロにとっては誇りだったのです。
3.自由よりも大切な福音
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。権利と似ていますが、自由という問題です。現代人は権利や自由を重要視します。特に欧米ではかつて自由と権利を得るための闘いがあったからです。その自由を否定するのではありませんが、自由が神様よりも上になるなら、クリスチャンとしては、何か違うのではないでしょうか。
自由の反対は、強制、でしょうか。教会では、献金も礼拝出席も奉仕も交わりも、それは強制ではありません。自由です。ただ、それが大切なことだと聖書は教えています。どうして大切なのか。それは、私たちはキリストの十字架によって救われ、聖書の言葉を用いるなら、贖われて、キリストのものとされた。キリストのものとされたのだから強制されているのではありません。救われた私たちは自由があり、権利がある。でも、その自由よりもキリストと共に生きることがはるかに価値があると知ったのです。もし自分の自由や権利の主張が、一番大切なものを失わせるなら、その自由を行使しないことが益となるのです。礼拝のために時間をささげることは強制ではない。でも、そうして神様に時間や労力や金銭や、さまざまなものをささげて、それはすでにいただいた大きな恵みへの感謝です。神様に感謝するとき、神様はそれ以上の恵みを注いでくださることを私たちは知っているのではないでしょうか。
クリスチャンにも権利と自由があります。でも、永遠のいのちよりも大切なのでしょうか。自分の自由のために、神様との関係を手放して、永遠のいのちの豊かな祝福が半減するなら、それは大きな損失です。でも、それも正解ではありません。自分の益だけを考えているなら、自由に生きても、捧げる生き方をしても、結局は自分のための生き方になってしまいます。そこに神への愛があるなら、強制されていると感じるよりも、神様との交わりが喜びとなります。また、兄弟姉妹への愛があるなら、聖徒の交わりが楽しみとなります。
パウロは、特に迫害者であった自分がキリストと出会い、その愛により救われた経験から、誰よりもキリストの救い、すなわち福音を宣べ伝えることに情熱があります。19節から、有名な言葉です。
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

とんで、22節。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

イエス・キリストによる救い、すなわち福音によってパウロは救われ、人生が変えられた。その絶大な価値を知ったパウロにとっては、自分の権利や自由よりも福音に生きることがはるかに素晴らしいと知ったのです。福音と言う自分の考え方を主張するためではありません。それが誰かを救い、新しい人生、キリストにある生き方がそんなに素晴らしいかを知って欲しい、受け取って欲しい。だからパウロは敢えて損となっても良いから、福音のために全てのことをしているのです。
私たちも同じ福音によって救われたはずです。誰もがパウロと同じことはできませんが、私たちも喜んで福音のために生きるものでありたいと思います。自分だけが救われるのではなく、一人でも多くの人に福音を伝える。それが教会の使命であり、それが私たちの誇りであり恵みなのです。
まとめ.
私たちは何のために生きるのでしょうか。自分の知恵を誇るため、自分の権利を主張するため、自分の自由を楽しむため、ではありません。それも大切なものであることを認めつつ、それ以上に価値のある、大切なものをしっかりと握りしめて行きましょう。
タグ:ローマ書
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2022年05月08日

5月8日礼拝説教「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)

5月8日「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)
先ほど読んでいただきました第一コリントの7章ですが、内容としては主に結婚について書かれているようです。ただ、初めて読む人は戸惑うかもしれません。例えば8節にはこう書かれています。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。

パウロは独身であったと言われますが、この章では結婚をしても良いが、しない方がもっと良いとは、罪を犯すよりは結婚するほうがましだ、という感じで、この章が結婚に関する教え、あるいは決まりだとすると、結婚に関して否定的な考えになります。でも、聖書のほかの箇所を読むと、結婚が大切なことであり、神の祝福であることも分かります。一体、どう考えたら良いのか。さらに、7章では、ある部分では、パウロはこれは自分の個人的意見だ、違う部分では、これは主の命令だと言い、またほかの箇所では、これは命令ではない、と言います。
このことを整理するために、1節を見ますと、こう書かれています。
1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
「あなたがたの手紙に書いてあったことについて」と言っています。つまり、コリント人への第一の手紙が書かれる前に、コリント教会の人たちからパウロに手紙が書かれ、そこに彼らからパウロへの質問があったのだと分かります。その質問への答えとしてこの章は書かれています。ただ、その質問が具体的にどうだったのかは、7章から推測するしかありませんし、ましてや、その質問が出された背景となる出来事や教会の状況に関しては分からないわけです。相手のことを詳しく知らないのに、表面的なことだけを見て批判や意見をするなら、見当違いのことを言ってしまうことになりかねませんが、私もこの7章に関しては様々な解釈があるのですが、あまり断定的なことは言わない方が良いと思います。もちろん、だからと言って、この章は学ぶべき価値がないはずはありませんし、御言葉として従う必要はない、と言うのは言い過ぎです。読んだ人が、それぞれ聖霊に示されることを受け止めていくのだと思います。
いきなりややこしい話から始めてしまいましたが、この7章を理解するのは単純ではない。そこで、結婚と言う主題から少し離れて、17節からの部分、そこには割礼という問題と、奴隷に関して書かれていますが、このことをきっかけとして、7章全体から御言葉を考えてまいりたいと思います。長い前置きとなってしまいましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「割礼と奴隷」、第二に「律法と御言葉」、そして第三に「今は危急の時」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.割礼と奴隷
今日の説教題は、「あなたは奴隷ですか」と、変な質問です。昔の欧米にあったような奴隷制度は、今の日本にはありませんが、国によってはそのような制度があったり、また制度としては認められていなくても、奴隷のように扱われてしまっている人たちもいます。もちろん、社会問題としての奴隷制度についてお話しするのは、もっと時間を必要としますので、今日はしません。ですから「あなたは奴隷ですか」という質問を、恐らく違う意味で受け止めた方もおられるでしょう。例えば、罪の奴隷、という言い方を時々します。自分でもコントロールできず、したくないのに罪を犯してしまう。その意味で人間は罪の奴隷となることがあります。それはいつもお話ししていますので、罪の奴隷のことでもありません。
17節から、特に21節から23節でパウロが奴隷と言っているのは、当然、当時のローマ社会における奴隷のことです。奴隷と言っても自由に動けるときもあったので、教会には奴隷の身分の人もクリスチャンになって教会員としていたわけです。また、例えば借金のために奴隷となった者はその借金を返済すると言った条件を満たせば奴隷が解放されて自由人となることもできました。ではクリスチャンとなった奴隷はどうすべきか。21節。
21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
パウロは、奴隷のままでいることも、自由の身となることを目指すのも、どちらも良しとしています。旧約の律法でも、条件を満たして奴隷から自由人になる方法も書かれていると同時に、条件を満たしても今の主人のもとにとどまって僕として仕える方法も書かれています。奴隷でも自由人でも、神様の前には問題ではない。22節。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

クリスチャンとはキリストのものとされた存在です。ですから主によって罪から解放された自由人であり、主に従う僕、つまり奴隷でもある。人間の奴隷となってはいけない、というのは、パウロが当時の社会に遭って奴隷制度を否定しているということではなく、むしろそれを超越しているのであって、奴隷であるか否かという表面的な状態は本質的な問題ではない。奴隷でも自由人でも、キリストを信じて救われ、キリストを主として従うのです。
同じことを、割礼に当てはめたのが、18節です。
18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

パウロ自身はユダヤ人ですから割礼と言う儀式を受けていましたし、ユダヤ人が割礼を受けることを否定したりはしません。しかし異邦人クリスチャンが割礼を受けなければ救われないとする意見には断じて反対であったことは、『使徒の働き』や他の手紙に書かれています。重要なのは、それぞれが神の言葉に従うことだと言っています。
コリント教会における結婚問題についても同じなのだと思います。どんな事情があったのかは分かりませんが、結婚しようとする人、結婚しないと決意をする人、結婚に関わる問題で悩む人、それぞれが神様に従うという原則をしっかりと保って、自分や人の意見だけで決めてしまわない。でも、どんな結果になっても主はその人をすでに受け止めておられるのですから、これからも御言葉によって歩むなら、間違いは正されるでしょう、御心に従うように導かれていくことでしょう。この原則は、割礼や奴隷、結婚だけでなく、あらゆることにも当てはまると思います。例えば学生ならば、どの学校に進学するか、どんな仕事につくか。それ自体は自分で決める自由があるのですが、その中でいつも神様は自分に何を求めておられるか、聖書を通して御心に従う。この原則に立つなら、どの道を進んでも、主に従って一歩ずつ進んでいけるのです。
2.律法と御言葉
少し長くなりそうですので、二つ目のことは簡単にお話ししようかと思います。19節で、
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
ここで神の命令を守るとはどういう意味なのでしょうか。ユダヤ人は旧約聖書の律法を守って、割礼を受けていました。それはクリスチャンになっても彼らは自分の息子たちに割礼を施したことでしょう。では、異邦人クリスチャンはどうなのでしょう。旧約聖書は古いから守る必要はない、ということではありません。ユダヤ人は神様がイスラエルと結んだ契約の故に、割礼を受けることが祝福への手段と受け止めていましたが、異邦人クリスチャンはイスラエルの契約ではなく、イエス様による新しい契約によって救われたので、救いの条件として旧約聖書の律法を守る、ということはしない。でも、神様の言葉であることは確かですから、私たちも旧約聖書を通して御心を教えられて、それに従うことは大切です。少しややこしいので、このことを分かりやすく語っているのが、35節。
35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
この前後を読むと、パウロは結婚問題に関して語っているのですが、それは「あなたがたを束縛しようとしているのではありません」と言っています。ユダヤ人がある意味ではモーセの律法に束縛されていたと同じように、パウロの教えによって束縛されて、がんじがらめの信仰生活になることは、パウロの本意ではありません。「むしろあなたがたが秩序ある生活を送って」と書いていることから分かるように、どうやらコリント教会からの質問の背景には、これらの問題が混乱を引き起こしていた。ですからパウロは彼らには秩序が必要だと考えて7章を書いた。でも、その教えによって束縛しようとしているのではない。秩序ある生活の目的は、「ひたすら主に奉仕できるためなのです」。私たちにはそれぞれ自由があるでしょう。守るべきだと考える秩序もあるでしょう。それは割礼、奴隷、結婚、どの問題でも言えることです。でも、それが一番大切なことではなく、主に仕えること。それも、強制されるなら束縛となるかもしれませんが、自ら進んで、ひたすらに主に仕える。それが一番大切なことであり、祝福に満ちた道だからです。
今年の教会の標語、「キリストのからだを建て上げるために」も、制度とか自由とか自分の考えに縛られているのではなく、誰もが、どんな立場でも、喜んで主に仕え、奉仕をささげ、それぞれの賜物を用いて、自分のために生きるのではなく、キリストのからだである教会で奉仕をし、からだが成長していく。そのために御言葉に聞き従っていくのです。
3.今は危急の時
最後に、この7章において、もう一つの大切な面について触れて終わりたいと思います。17節。
17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
また20節と24節。
20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
パウロは、そのままの状態でいなさい、と繰り返している。ですから、奴隷は、自由人となっても良いけど、奴隷のままで良いし、結婚していない人はしないでも良い、ということになるのです。どうして「そのままの状態に留まれ」、と言うのか。それは26節。
26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
今は危急のとき、という意識です。緊急事態というような危機的状況あっては、他の様々なことは一旦脇に置いて、一番大切なことを優先します。例えば、災害のときのように生命の危険が迫っているときもそうです。先月は札幌に行ってきましたが、飛行機に乗ると「安全について」というアナウンスがあり、避難する方法が教えられます。避難のときは荷物は持たない。それが避難の妨げとなるからです。自分の荷物は自分の自由ですが、緊急時には命の方が優先です。パウロは、この危急の時だから、奴隷が自由となるための努力や、結婚するための心配りを第一とするではなく、救いにとどまることを最優先する。それが7章全体について背後にあるのだと思います。
パウロが危急の時と言っているのは何か。それは再臨です。1世紀のクリスチャンはキリストがすぐにでも帰ってこられると信じていた。その再臨のときに他のことに心がいっぱいになっていて、キリストのことが疎かになっていたら、花婿なる主をお迎えすることができない。ですから危急のときに何を優先するかは重要だったのです。しかし、反対に危急の時だからと言って、日常生活の秩序を失っていたのがテサロニケ教会で、テサロニケ教会への手紙ではそのことを指摘しています。
私たちにとって、今は危急の時でしょうか。キリストの再臨は、それがいつかは誰も知りませんが、イエス様は、いつ来ても良いように備えなさいと教えておられます。ですから、直ぐにでもおいでになるという危機感をもたなければなりませんが、同時に、再臨がずっと後でも良いように秩序正しく歩むことも大切です。正反対のようですが、危急の時であるという意識と、平常の時として正しい歩みを保つこと、その両面を見据えつつ、バランスのとれた信仰生活を送っていただきたいと思います。
まとめ.
現在は、コロナ禍という状況で、時には間違った情報や多すぎる情報に振り回されて、それの奴隷になってしまっては大変ですが、私たちは主の僕として、どんな時でもキリストを第一として、仕えていく。あなたは何の奴隷でしょうか。喜んで主に仕え、従う者となりましょう。
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2022年05月01日

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)
今日は久しぶりでコリント書に戻ります。先ほど司会者に読んでいただいた中で、8節の後半に「純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」と書かれていますので、今日の説教題として「純粋で真実なパンの祭り」とつけようかと最初は思いついたのですが、もっと有名なパン祭りもありますので、「真実なパンのために」というタイトルにしました。もちろん、実際のパンの話ではありません。純粋なパンをどのように作るかは、専門家の方々がおられます。でも聖書の中でパンは大切な意味をもって語られることがありますので、このコリント書を通して、私たちのなすべきパンの祭りということを考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて進めて参ります。第一に「罪を取り除く」ということ、第二に「裁くべきこと」、そして最後に「神の栄光のため」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.罪を取り除く
さて、コリント書のことを少しお話しします。使徒パウロがコリントの町にできた教会のクリスチャンたちに書き送った手紙ですが、このコリント教会は問題に満ちた教会でした。問題の第一に挙げられていたのは、分派・分裂です。パウロ派、アポロ派といった派閥に分かれて争いあっている。キリストのからだである教会が内部分裂し争い合っている状態はあるべき姿ではありません。そして二つ目に大きな問題としてあげられているのが、性的な罪ということで、5章から始まって6章の終わりの方にも同じ問題が取り上げられていますので、今日は5章と6章からお話しさせていただきたいと思います。
性的な罪と言いましたが、姦淫や不品行と聖書に書かれている罪です。コリントの町は交通の要所で、商業が発達し、大変に豊かな町でしたが、同時に性的には大変に乱れた町でした。「コリント人のようだ」とは不品行な人を指す言い方だったそうです。そんな町の雰囲気に影響を受けたのか、もともとコリントで生活していた人たちだったから、クリスチャンになってからも多少は性的な罪に陥りやすかったのか。いいえ、パウロは、クリスチャンでは無いコリントの人たちが見ても、眉をひそめるような。「異邦人の中にもないほどの不品行」だと告げています。しかも、その罪を隠そうとするのではなく、自分はこんなこともできるんだと誇っている。周りの人も、それを肯定して、やめさせようともしない。神様のお名前が汚されるような状態だったのです。パウロは、そのような罪は教会から取り除かなければならない、と厳しく語っています。
真実で純粋なパンとは、罪を取り除いた状態を意味します。元々は、旧約聖書の律法で、過越の祭のときは「種入れぬパン」と言いますが、パン種、酵母のようなものでしょうか、それを入れないパンを使うことになっていた。発酵させてふっくらとさせる時間もないほどに急いでエジプトから出なければならないことを表すためです。この祭りの時期は家中を探して古いパン種を取り除くのです。このパン種を、人間の罪を象徴するものとして教えることがありました。(もちろん、パン種が悪いのではなく、時には律法でパン種を入れたパンを使う儀式もありましたので、あくまで象徴としての話です。)パン種を小麦粉の塊に混ぜてこねると、やがて発酵して膨らむように、人間の罪を放っておくと、やがて大きくなっていく。だから不品行の罪を誇るようになり、それは教会全体にも広まって、他のクリスチャンもおぞましい罪を平気でするようになってしまう。そうなったら、キリストのからだを汚すことになって、神様に滅ぼされてもおかしくないのです。
純粋なパンとは、私たちの心から罪を取り除くことから始まります。誰でも罪はある。でもそれを認めずに隠して、思い上がるのでは無く、へりくだって悔い改めることです。そうして、過越の祭のように、キリストの救いを感謝して礼拝を捧げるのです。礼拝前のひとときは、一週間の忙しさや悩み、日常の心乱すことから解放されて、心を静めるときですが、そのとき、一週間の生活を振り返り、自分の心の中を顧みて、見つけた罪を悔い改めて、純真な思いで神様の前に進み出るなら、豊かな祝福を味わうことができるのではないでしょうか。
2.裁くべきこと
二つ目のことに移ります。パン種を取り除く、自分の内側にある罪を悔い改めて取り除くことも簡単なことではありません。しかしコリント教会の状態は、さらに悪かったのです。その罪を犯している人たちが悔い改めるどころか、悪い影響を与え始め、このままだと教会全体が裁かれるような姿になってしまう。そのとき、パウロは、その人を取り除くように命じています。13節。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
これは、一歩間違えると、教会にとって都合の悪い人を排除する、阻害することになります。教会は愛によって結びついていますから、誰かを排除することは心情的にもできない。しかし、それが教会全体が神に背くようになることを止めるためには、悔い改めない者を排除せよ、とパウロは言うのです。特に、5章の終わりから6章にかけて、パウロは何度も「さばく」という言葉を使っています。12節。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
言い方は複雑ですが、単純に言うなら、内部の人をさばきなさい、と語っているのです。私たちは「裁き会ってはいけない」と教えられています。自分を正しいと考え、他の人を非難して攻撃することは、教会にあってはいけないことです。しかし、さばかなければならない場合もあるのです。
神の愛ということを誤解して、神様は愛だから何をしてもゆるしてくれる。この「ゆるす」という言葉も日本語の漢字では二通りあって、聖書が教えているのは恩赦の赦の字で、「罪を赦す」ということですが、もう一つは許可の許の字で、「罪を許す」、つまり罪を犯すことを許可する。これは聖書の教えではありません。神様の愛が罪を許可する愛なら人間はますます悪くなっていき、それは御心のはずがない。神様は十字架の贖いによって罪を赦してくださいますが、私たちが罪から離れることを願っておられます。神は愛だからこそ、罪を犯し続け悔い改めようとしない者を放っておいて悪化させるのではなく、その人を裁くことで間違いに気がつかせ、悔い改めの機会を与える。この意味において、神様は教会にさばく権威を与えているのです。
コリント教会は、排除の前には何度もこの人を戒めたり、忍耐して諭したり、できる限りは立ち直られようとしたでしょう。でも、ますます高慢になっていくのです。だからパウロは最後通告をしているのです。このコリント人への手紙第一を丁寧に読んで行きますと、不思議な言葉に気がつきます。明確なのは、5章の9節です。
5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
パウロは「前の手紙」と言っています。実は第一の手紙よりも前に、違う手紙を書き送っていたのです。その時点でも彼の罪が伝えられていて、パウロがこうしなさいと前の手紙で書いたときに、それを誤解した人もいたので、この「第一の手紙」という二番目の手紙を書いているのです。当時の手紙は往復するのに数ヶ月もかかったでしょう。その間、コリントのクリスチャンたちは彼をどうにか説得しようとして、どうすることもできず、パウロに相談した。そこでパウロも最終手段として、彼を教会から追い出すように指示したのです。
これは現代でも、教会には「教会戒規」と呼ばれる規則があります。罪を犯し続け、誰の忠告も受けず、ついには教会全体にも悪影響を及ぼすようになったとき、最終手段として、その人を罰するという規則があります。とうぜん、愛し合う教会にとっては痛みです。でもそれを痛みを避けて罰を与えず罪を許可しているなら、教会が純粋なパンではいられなくなって、キリストの栄光を汚してしまいます。ですから愛を持って罰しなければならないこともあるのです。
裁き会うことは確かにあるべき姿では無い。でも罪に対して曖昧であることは神の教会を破壊することにもなります。もちろん、パウロは見捨てたのではなく、5節では
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
これはちょっと難しい内容ですが、この人が終わりの日に救われることを願っているのです。また、次の6章では、裁きについての教えが続いた後で、6章11節。
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
こうして罪が洗われ、聖なる者とされる道を示している。教会のなすべき裁きとは裁き会うことではなく、その人が救われるために避けられない痛みであり、これも愛の現れなのです。
3.神の栄光のため
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。6章12節。
6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。
罪を赦されて救われたということは、何をしても良いということではない。何が教会にとって益となるか。13節後半。
からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
救われた私たちのからだは、罪を犯すためにあるのではなく、キリストのために存在するのです。このことを明らかに語っている有名な御言葉が6章19節と20節です。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

私たちが救われたのも、聖霊が心の内に宿っていてくださるのも、それは自分のからだで神の栄光をあらわすためです。一人一人のからだもそうですし、教会全体もキリストのからだとして、それは神の栄光を表すためのからだなのです。
純粋なパンのためには、罪を取り除く必要があるでしょう。時には犠牲を払い、時には痛みを感じることもありますが、でも私たちを救うためにキリストが受けてくださった痛み、父なる神の心の痛みも、私たちへの愛です。でも罪を除くことばかりを考えているなら、律法主義と言われるように、他者を裁くようになってしまいます。罪を取り除くにしても、でもその人のために祈り、その人が悔い改めにいたって、神様に感謝を献げるようになるにしても、全ては神の栄光が表されるためです。
まとめ.
教会の目的は神の栄光です。自分の満足や自分の栄光では無い。罪を赦された私たちが自分自身を主におささげし、御心に喜んで従うとき、神様が栄光を、教会を通し、私たち一人一人を通して、証しさせてくださるのです。今は教会は厳しい時を通っています。困難の中におられる方々も少なくない。でも、それら全てを通して、ついには神様の御業がなされて栄光を拝する時が来る。そのことを信じて、御声に従ってまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教