2026年08月09日

8月9日礼拝「滅亡からの勝利」ホセア13章9〜14節 (13章)

8月9日礼拝「滅亡からの勝利」ホセア13章9〜14節 (13章)
 テレビでは夏の甲子園が始まっています。何点もの差を付けられ、もう逆転は無理だろうと思っても高校球児は最後まで諦めないで戦います。人生の戦いにおいても、小さな負けなら挽回できても、もう逆転は不可能に思えることもあります。人間にとって死の問題はその一つかもしれません。神様がイスラエルに下された判決によって、彼らは滅亡が決定する。そこからの逆転はできるのだろうか。ホセア書も後二回を残すのみとなりましたが、今朝は「滅亡からの勝利」ということを、13章を通してご一緒に考えて参りたいと思います。
 いつものように三つのポイントで、第一に「空しい偶像」、第二に「破滅する王国」、そして第三に「死の滅び」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.空しい偶像(1〜4節)
 前回の十二章でイスラエルの罪が告発され、神の裁きが示されていますが、この13章では、さらに彼らの罪が明らかにされていきます。1節。
1 エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。
この節の前半は、翻訳によって違いが出てくる箇所です。原文では、震えたのがエフライムなのか、人々なのか、どちらとも読むことが可能なので、新改訳第三版は、エフライムが震えていて、新しい協会共同訳では「エフライムが語ると、人々は恐れ」と訳しています。他にも謎な部分があるのですが、結論となる後半は明確です。「エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ」。死んだ、と過去形ですが、実際にはまだイスラエルは滅亡していない。でも神様の目には滅亡したも同然で、近い将来、必ずその通りになる。でも、どうしてバアルの偶像をおがんだ罪の結果、彼らは滅亡するのでしょうか。2節。
2 彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ」と。
イスラエルの民は、預言者たちによって罪を指摘されても、なおも罪を重ねていった。新改訳2017訳を見ますと、
13:2 今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。
彼らが偶像を作るのは、自分のため、すなわち自己中心が根っこにあり、また「自分の考えで」、つまり彼らが考えている神の姿を作ったのです。それは本当の神に対する冒涜だと言えます。その結果、3節では、
3 それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる。
朝もや、朝の露、風に散らされる籾殻、そして煙。どれも儚く消えていく、空しい存在です。人間が空しい存在になるとはどういうことでしょうか。2節の最後に
「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ」
と書かれていますが、これも新しい翻訳ですと、
『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』
となっていて、こちらの方が直訳に近い。人を献げるというのは、羊や牛ではなく、人間を生け贄として献げるということで、神様が忌み嫌う行為です。それと、「子牛に口づけする」とは、イスラエルにあった金の子牛という偶像があります。人々はこの子牛を礼拝し、足もとにひれ伏して、その足に口づけして忠誠を誓う。それは自らを自分の手で作ったものよりも下にする行為です。人間は礼拝する相手よりも下になる。でも、神様が人間を創造されたとき、神のかたちに作られたと創世記に書かれていて、それは神よりも少し低い存在だと詩篇に教えられています。神様と等しくはないけれど、神様の少し下であって、動物よりも、そして人間の手で作られたものよりもはるかに尊い存在なのに、偶像をおがむことで、自分をそれよりも低い存在にする。それは自分自身の人間性を犠牲として捨てることであって、だから人間は素晴らしい存在だったはずなのに、空しい存在に落ちてしまう。そのことを聖書は警告しているのです。
 しかし、その人間を救ってくださるお方こそ、本当の神様、礼拝を献げるべきお方です。4節。
4 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。
2.破滅する王国(4〜11節)
 二つ目のポイントに移ります。4節で、エジプトから、つまり歴史の最初からイスラエルを救って下さった神様です。さらに5節では
5 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。
6 しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。

出エジプトの後、荒野を旅した時も、神様は彼らを忘れて見放すことはせず、牧草を食べさせて養ってくださった。彼らを緑の野辺、素晴らしい約束の地にまで導いてくださった。この救いの神様を、しかしイスラエルは高慢になって忘れた。忘れたとは、彼らはこのお方が神であることは知っていましたが、このお方の言葉を無視して、まるでいないかのように扱った。こんな恩知らずであり、神様を侮辱するようなことをしていたら、神様がお怒りになっても当然です。その怒りを表す、7節。
7 わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。
8 わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く。

ここでは猛獣たちの姿に例えています。いま、日本では熊の恐ろしさがテレビで伝えられていますが、子を奪われた母熊がどれほと怒り狂うか。神様はイスラエルに怒り、彼らを引き裂くはずではないか。
 神様はイスラエルが自分の罪に気が付くように、様々な災いを送り、神様に心を向けて祈りように導かれるのですが、彼らは神様ではなく、人間に頼ろうとする。イスラエルの歴史を振り返ると、10節。
10 あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ」と言った者たちは。
イスラエルは隣国に侵略され苦しめられたとき、自分たちのために王が欲しいと言った。それは本当の王である神様をないがしろにすることだった、とサムエル記を読むと記されています。神様はイスラエルに怒りを覚えたかもしれない。でも彼らの求めに応じて、人間の王を立ててくださった。それがサウルであり、ダビデでした。でも、そのダビデ王朝も、北王国の王たちもまもなく滅ぼされる。11節。
11 わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。
そして、9節。
9 イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。
私たちを救ってくださるお方から離れて、自分勝手な救いを求めることは、昔も今も同じです。私たちの上に神様がおられ、私たちを正しい道に導いて下さることを認めようとしなければ、それは神様の救いを拒むことであって、そうなったら、もう人間の力、例え王様でも救うことは出来ない。こんな判決を下されたイスラエルは、ここから逆転できるのでしょうか。
3.死の滅び(12〜14節)
 イスラエルはここまで預言者たちに言われても、なおも罪を重ねます。12節は農業の譬えで、
12 エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。
しまい込むとは収穫したものを束ねる、という言葉で、それを蓄えるとは倉の中に隠す。神様に叱られるような罪を、彼らは隠れて増やしていく。その結果を、13節は、少し難解なのですが、当時の難産のイメージを使って語ります。
13 子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない。
母の胎から生まれ出て生きることが出来る、という神様が示してくださる最後の救いのチャンスさえ、彼らは神の言葉を理解する知恵もなく、苦しみを増している。こんな状態の結果は、死しか無いのです。イスラエルは、もう神の罰を受けて滅亡する。国としては死んでしまう。もう助からない。これが神様がくだされた刑罰です。
 ところが、ここで不思議なことが起きます。やはり、これも翻訳によって違いが出てくる、難しい箇所です。新改訳第三版で、14節前半。
14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。
この箇所を、古い口語訳では
口語訳13:14 わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。
新改訳は、彼らを死から贖う、という未来のこととして書いています。ところが、口語訳や共同訳では疑問文で、死から贖うことがあるだろうか、つまり、そんなことはない、という反語として訳されている。いったい、死から贖ってくださるのか、くださらないのか。実は、どちらの読み方も可能です。どちらを選んだら良いか迷うときは、その文脈を見ますと、ここは神様はイスラエルを罪の故に罰する、国を滅ぼす、ということを語っている箇所ですから、口語訳のように、「死から贖うだろうか、いいや、贖わない」と訳すのが良いのです。でも、新改訳は、新約聖書でパウロがホセア書を信用して、「死から贖おう」と書いていますので、それに合わせた。では、パウロは文脈を読まずに訳したのか。いいえ、そうではありません。パウロが、神は死から贖い救ってくださると訳せたのか。その秘密は、旧約聖書の時代には無かったけれど、新約の時代に生きるパウロにはあったこと。イエス・キリストです。イエス様が十字架で罪の贖いを成し遂げてくださり、本当なら私たちも滅ぼされなければならない罪人なのに、その罪をイエス様の十字架によって赦していただいた。それだけでない。イエス様は復活され、十字架による救いが本当であることを証しされ、私たちに新しい命を与えてくださった。この復活のイエス様と、パウロは出会ったのです。ですから、パウロにとっては、死んだらお終いではない。キリストの救いを受け入れたとき、復活の命にも与ることができる。だから、ホセア書の理解を大胆に新しくしたのです。
 イスラエルはまもなく敵に滅ぼされ、国は死んでしまう。これは定まった裁きです。でも、神様はそのイスラエルももう一度生かしてくださるときが来る。いいえ、イエス様が復活され、死をも滅ぼしてくださった。私たちは死によって滅ぼされるのではありません。キリストの復活を信じる時、イエス様は死さえも滅ぼして、わたしたちを贖って、救ってくださる。この信仰を、私たちは持たせていただけるのです。
もう一度、14節、
14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。
本来の意味では、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか」、これはイスラエルを刺して苦しめるためのとげをどこにしまったのか、早く持ってきてイスラエルを滅ぼせ、という意味でした。でもイエス様が死を滅ぼされたとき、「おまえのとげはどこにあるのか、もう無いではないか」と死の武器が失われたとの宣言に変えてくださったのです。
 今、私たちは死を恐れ、その武器である苦しみによって、倒れそうになり、ですから死ぬことを恐れるのが人間です。でも復活のイエス様を信じ、私たちも、古い自分は十字架でイエス様と死んで、イエス様と一緒に新しい命をいただき、天国の約束をいただいた。そのとき、死は恐怖ではなく、与えられた人生を全うしたとき、天国に入れていただける希望をもって生きることが出来るのです。
まとめ.
 もしイエス様が来てくださらなかったら、今も私たちは死のとげに刺されて苦しみ恐れるしかできない。でもイエス様の十字架と復活こそが私たちを罪から救い、死の恐れから解き放ってくださり、永遠の命に生きる者としていただける。この恵みを信じて生きましょう。
タグ:ホセア書
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2026年08月02日

8月2日礼拝「変わらないのは」ホセア12章1〜4節(12章)

8月2日礼拝「変わらないのは」ホセア12章1〜4節(12章)
先週、旧約聖書の預言書の多くは、前半が裁き、後半が救いの言葉だとお話ししました。ホセア書も10章まで厳しい裁きの言葉が続き、11章で神の愛による救いが語られて、やっと厳しい言葉が終わるかと思ったら、この12章から、また裁きの言葉が始まります。ある人は、ホセア書は旅を三周回っている、と語っています。最初の三つの章で、ホセア自身のことが語られていますが、これは個人的な話ではなく、ホセアとゴメルの夫婦の姿を通して、神とイスラエルの関係を語っています。そこにも妻であるゴメル、すなわちイスラエルの罪が指摘され、でも罪のために破滅したゴメルを救うホセアが描かれ、それは神様のイスラエルにする救いでもあります。4章から11章までが二周目で、今度はホセアの家族のことではなく、直接的にイスラエルの罪が告発され有罪判決が下されますが、11章で救いが預言される。そして、12章から再び罪の告発と裁きが語られ、最後の14章が救いを告げる。これが三周目です。大事なことは二回、とても大事なことは三回言う。ですからホセア書は、裁きと救いということを、特別に大切なメッセージとして書かれているのです。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「神と出会うヤコブ」、第二に「神の天幕に住む」、そして第三に「神からの羊飼い」という順序で御言葉を取り次がせていただきます。
1.神と出会うヤコブ(11:12〜12:6)
11章12節にも「エフライムの偽り」と書かれていて、エフライムとは北王国イスラエルの代表ですから、イスラエルが偽りで満ちていることが記されています。それに続くのが12章1節。
1 エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている。
風を食べるとは、空しい言葉を使う、偽りの生き方を表しています。「まやかしと暴虐」とあるように、偽りだけでなく、暴力。言葉の暴力も人を苦しめます。アッシリヤなどの外国に頼ることは、何度もお話ししてきましたが、神様に頼らず、偶像や外交に頼る不信仰の罪です。それがイスラエルが滅びる原因ですが。2節。
2 主は、ヤコブを罰するためにユダと言い争う。ヤコブの行いと、そのなすことに応じて、主は彼に報いる。
3 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。
4 彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた。

ここでヤコブという名前が出て来ます。ヤコブとはイスラエルの先祖であり、ヤコブの別名がイスラエルです。ヤコブの生涯については創世記に書かれています。3節の「兄弟を押しのけた」とは、ヤコブが双子の兄であるエサウと争ったことです。ヤコブは偽りの言葉で兄を騙し、父を騙して、長子の特権を奪った。彼は周囲の人と争い、その結果、憎まれて、逃げだし、最後には神の使いとも争った。4節で、勝ったが泣いたとは不思議な表現ですが、本当はヤコブは負けていたのですが、泣くように縋り付いて祝福を願ったので、神様はヤコブに「あなたの勝ちだ」と言ってくださった。最後のベテルというのは、ヤコブの生涯の前半のことですが、大切なのは「神に出会い、神は彼に語り掛けた」。
先祖であるヤコブの人生は争いと偽りだらけです。でも神様は彼と出会い、語り掛けてくださった。ホセアがイスラエルに告げたいのはそこです。イスラエルの民は偽りだらけだったかもしれない。でも、神様は彼らに語り掛けてくださるのです。そして、6節。
6 あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。
神に背を向け、遠ざかっていた人々に、立ち返りなさい。偽りではなく誠実を、また争いではなく公義つまり正義を行いなさい、と神様は彼らを、いえ私たちをも、正しい生き方へと招いておられるのです。
2.神の天幕に住む(7〜10節)
神の招きの言葉は、救いにつながるメッセージなのですが、実際のイスラエルはどうだったか。現実の姿が7節から描かれています。7節。
7 商人は手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む。
8 エフライムは言った。「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。」

商売人は偽りの量りを使って誤魔化して暴利を貪っている。その結果、一部のものは裕福になります。「私は富む者となった」。確かにホセアが預言した時代、北王国は繁栄を味わっていました。それは不正の富でしたが、彼らにとっては富んでいることが正義なのです。旧約時代には神様の祝福は分かりやすい、目に見えるものだと人々は考えていました。長生きや財産が祝福のバロメータです。「私の全ての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない」。自分で働いていた財産です。神様にだって文句を言わせない。富んでいるのは祝福の証拠だから、と言って自分の悪を認めようとしない。でも神様は彼らの富が不正によるものと見抜いて、彼らの不義を告発しているのです。
神様が彼らになさることが9節。
9 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。わたしは例祭の日のように、再びあなたを天幕に住ませよう。
10 わたしは預言者たちに語り、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示そう。

9節の「例祭」とは、おそらく仮庵の祭りと呼ばれる祭りです。この祭りではみな、空き地に仮庵と呼ばれる粗末な住みかを作り、かつてイスラエルが荒野を彷徨っていた時代を偲び、神様が先祖を救って、豊かな地へと導いてくださったことを感謝する祭りです。神様は、富める者となって贅沢な家に住んでいる彼らを、もう一度、仮庵のような場所に戻す。素晴らしい約束の地から離れ、荒野のような場所で、彼らに、預言者を通して語る、と言われるのです。民数記を読むと、荒野での放浪生活は、仮庵に住む不自由な生活でしたが、彼らの真ん中に神様がおられ、神の幕屋と呼ばれる天幕に行って神様を礼拝し、神の言葉を聞き、神に祈ることが出来た。見せかけの財産はいつか失われます。でも、神様の言葉は決して無くならない。いえ、語ってくださる神様がいつも共におられること、これが最も素晴らしい祝福です。神と共に生きること、これを新約聖書では永遠の命と読んでいます。イエス様は教えられました。「人は例え全世界の富を手に入れたとしても、命を失ったら何の得になろうか」。私たちは永遠の命を失うような生き方になってはいけない。偽りの言葉ではなく、神様の真理の言葉に耳を傾けましょう。
3.神からの羊飼い(11〜14節)
ホセアはイスラエルの罪を、歴史を振り返って語ります。11節。
11 まことに、ギルアデは不法そのもの、ただ、むなしい者にすぎなかった。彼らはギルガルで牛にいけにえをささげた。彼らの祭壇も、畑のうねの石くれの山のようになる。
ギルアデやギルガルは地名です。イスラエルのどの場所でも、彼らは偶像礼拝の罪を重ねました。「牛に生け贄をささげた」。普通なら牛を生け贄として神に捧げますが、彼らは金の子牛を拝んで生け贄を献げた。だからイスラエルは滅亡し、祭壇は壊され、畑も町も石くれの山となる、という預言です。ところが、彼らが行こうとしている荒野は、かつて彼らの先祖であるヤコブも行った場所です。12節。
12 ヤコブはアラムの野に逃げて行き、イスラエルは妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした。
13 主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。

ヤコブが逃げていったのは、家族を騙した自分の罪の結果です。彼は家族を失って荒野に逃げた。でも、ヤコブの別名はイスラエルですが、彼は妻を娶るため、すなわち彼の家族を得るために、羊飼いとなって14年も働いたことが創世記に描かれています。羊の番をして羊の群れの世話をすることで彼は家族を導く者となっていきます。同じように挫折して、王家の一員から羊飼いになった人がいます。それはモーセです。13節の前半で、「ひとりの預言者」とはモーセのことです。モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ上って、神様の救いを実現しました。後半の「ひとりの預言者」は誰か。これ、すなわちイスラエルの民を守り救ったのは、モーセもそうですが、ヨシュアも、そして数々の預言者たちも羊飼いのようにイスラエルを正しい道に導いた。神様は旧約時代、何人もの預言者を神の僕としてイスラエルに送り、救いの道を教えましたが、残念ながらイスラエルは神の言葉を拒んで滅びの道を進みます。それが14節です。
14 エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。主は、その血の報いを彼に下し、彼のそしりに仕返しをする。
エフライム、すなわちイスラエルは主の激しい怒りを引き起こして、裁かれます。彼らの犯してきた罪に対する、特に貧しい者を虐げて血を流してきた、その血の報いを彼らは受けなければならない。神の怒りを受けるのです。このままでは、イスラエルは滅びるだけです。
さきほどの13節で、「ひとりの預言者」と二回書かれて、前半は明らかにモーセです。後半は誰か。モーセと並ぶほどの預言者とは誰でしょう。モーセと同格、いいえ、モーセ以上の預言者と言えるのはイエス・キリストです。イエス様は、主の激しい怒りをその身に受けてくださった。このお方を信じるなら、イスラエルは神の怒りを受けずに救われるのです。イエス様こそ、「わたしは良い羊飼い」とおっしゃったお方。そして神の怒りの杯である十字架を受けてくださった。このお方によって、イスラエルだけでない、私たちも救っていただけるのです。
まとめ.
今日の説教題は「変わらないのは」と付けました。イスラエルの罪はなかなか良くならない、変わりません。今も人間の罪は変わらない。時代は変わっても、国が違っても、神様の目には人間は罪人です。でも神の救いも変わりません。いいえ、旧約時代には隠されていたことが、イエス様によって明らかにされ、預言が成就し、本当の救いがもたらされたのです。この救いの神は、とこしえに変わることがありません。今日も、私たちを救ってくださる。そのことを示しているのが、十字架です。預言者以上のお方、神の御子であるイエス・キリストが、偽りの言葉ではなく、真理を伝えてくださり、信じる者のために神に怒りをあますところなく受けてくださった。この救いの恵みをいただきましょう。
タグ:ホセア書
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2026年07月26日

7月26日礼拝「愛は痛み」ホセア11章1〜4節(11章)

7月26日礼拝「愛は痛み」ホセア11章1〜4節(11章)
旧約聖書の預言書というのは、大抵、厳しいさばきの言葉が書かれているのですが、多くの場合、前半は裁きで、後半は救いについて書かれています。ホセア書も、先週までお話ししてきました10章までは厳しい裁きの言葉が続き、イスラエルの罪とそれに対する神様の裁きと罰が書かれていて、毎週のように厳しいメッセージでした。この11章は、一転して、救いの言葉、特に神様の愛について語られています。裁判になぞらえるなら、裁判で判決がくだされた後、裁判官である神様が本音で、ご自身の思いを語っているかのようです。でも、神の愛とは、何か。それは男女の愛の関係のような甘ったるいものでも無ければ、孫に対する甘やかしの愛でもありません。ホセア書の最初の部分は預言者自身が体験した愛、それは裏切りの痛みを描いていました。ホセアの妻ゴメルは夫を裏切り、子どもたちは愛してもらえない。愛が破綻している。でも神様の愛はそうではありません。どれほど強い愛なのか、今朝は「愛は痛み」、神の痛みの愛についてお話ししたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「神の愛の歴史」、第二に「背信者への愛」、そして第三に「震えながら」という順番でメッセージを取り次がせていただきます。
1.神の愛の歴史(1〜4節)
1節から読みたいと思います。
1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
この言葉は、イスラエルを一人の人間に例えて、その幼いころ、すなわち歴史の始まった時について語ります。神様は彼、すなわちイスラエルを愛し、私の子と呼び、エジプトから呼び出した。これは出エジプトのことを話しているのは明らかです。神は民族の歴史の最初からイスラエルを愛してくださった。その具体的な愛の表れが、3節。
3 それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。
4 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。

まるで幼い子にするように、歩き方を教えた。つまり神の子、神の民として相応しい生き方、人生の歩き方を教えた。それが律法です。そして、病んだときには癒した。また4節の「引いた」とは今度は家畜に例えていますが、彼らを導いてくださった。旧約聖書のイスラエルの歴史は、神の愛による歴史であったと言えるのです。
残念ながら、イスラエルの方は、2節。
2 それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
彼らは神様の呼び声に従わないで、バアル、すなわちカナンの偶像を拝んだのです。また神様が癒してくださっても、彼らは誰が癒したのかを知らない。人々は空腹を癒すために神様が作物をお与えになると、自分たちが拝んだバアルが豊作をもたらしたと思ったのです。イスラエルは神の愛に背き続けた。
赤ちゃんのことを考えると、親から愛されているということを最初は分からない。理由も理屈も理解できない。でも、具体的に親が関わってくれる。3節に「腕に抱いた」と書かれていますが、抱っこされて安心して、そうやって親の愛を体験します。神様はイスラエルに様々なことをしてくださり、それによって愛を知るようにしてくださいました。2節には「それなのに」、3節にも「それでも」、また「しかし」と何度も逆転があります。神様は愛してくださる。それなのにイスラエルは神様に背く。それでも神様は愛される。しかしイスラエルは理解しない。これも神様の忍耐の愛の現れです。
小さな子どもは、理解力が不十分ですから、時には間違ったほうに行ってしまうかもしれない。そこで神様は、4節。
4 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。
ここでは家畜に例えて、綱やひもで引っ張る。ただ、動物ではなく人間ですから、痛くないように人間用の綱です。直訳ではアダムのロープという言葉ですが、アダムとは固有名詞でもありますが、人間という意味です。面白いか分かりませんが、アダムの同音異義語で「皮」という意味があって、ごつい縄ですと肌に触るとチクチクする。木や鎖では肌が傷ついてしまう。そこで皮でできた柔らかいひも、という意味かも知れません。「愛の絆」というのはただひもで縛るのでは無く、愛による人間関係でもある。そのような愛によって神様はイスラエルを導き育ててくださった。どれほどイスラエルが神に反抗する子どもであっても、神は愛し続けておられる。それがイスラエルの歴史を通して示された神の愛です。
この神の愛は、私たちにも注がれています。私たちが生まれる前から神様は私たちを選んで下さったと聖書は教えています。赤ちゃんのように神様のことが理解できなくても、愛を注ぎ続けてくださり、私たちの人生を導いておられる。この神の愛を理解できないで反発するのは、もったいないことでは無いでしょうか。
2.背信者への愛(5〜9節)
二つ目のポイントに移ります。すでに触れましたが、イスラエルは神の愛を裏切り続けてきました。エジプトから呼び出して早々に、彼らは金の子牛を作って偶像礼拝をしました。神様が呼んでも、立ち返ろうとしないで、ですから滅びに向かっているのです。5節。
5 彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。
これが、10章までで神様の裁判で宣告されたことです。ところが裁きを告げた神様は、その結果滅びようとしているイスラエルを見て、もう耐えられなくなったかのように叫びます。8節。
8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
神様はこんなイスラエルを、それでも見捨てないのです。本当は怒りによって心が沸き返るのですが、同時に憐れみの愛で胸が熱くなっている。
8節の「エフライム」はイスラエルのことですが、アデマやツェボイムというのはあまり聞いたことが無いと思います。でもソドムとゴモラでしたら、多くの方が知っていると思います。あまりの罪深さのために神様の裁きがくだされ、火によって滅ぼされた町です。創世記を読むと、ソドム、ゴモラと一緒に滅ぼされたのがアデマとツェボイムです。あのソドムやゴモラ、アデマやツェボイムのようになって欲しくない、とイスラエルに叫んでいるのです。イスラエルはソドム並みに悪くなっている。それでも愛そうとされる神様は、彼らの罪に対する怒りを覚えながら、でも見捨てずに愛そうとされるのです。この神の愛を示しているのが、9節。
9 わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。
「わたしは神であって、人ではない」とは、神の愛は人間の愛とは違うのです。人間の理屈や感情でしたら、自分を裏切った相手を愛せない。ホセアもゴメルに対して、そう思ったでしょう。でも神様の愛は、人の理屈を遙かに超えて、罪に対する怒りを覚えつつも、裏切った反逆者を愛そうとする。そこには痛みを覚えつつ愛する神様の姿があります。9節の「あなたがたのうちにいる聖なる者」と神様はご自身のことを語っておられます。「聖」とは超越しているという意味がある。私たちの理屈を超えた愛なのです。
私たちを愛してくださる神の愛も同じです。心を痛めながらも愛してくださる。神様に背を向けていた私を愛してくださる。それが十字架の愛です。罪を赦すために御子であるイエス様が身代わりとなってくださった。それを見ていた父なる神様も心を痛めつつ、私たちを救ってくださった。
ヨハネの手紙第一4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
3.震えながら(10〜12節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。神の痛みの愛に対するイスラエルの応答が、10節、11節。
10 彼らは主のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。
11 彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。──主の御告げ──

二回、「震えながらやって来る」と書かれています。確かに彼らは神様の後についてくるようになる。でも、それはライオンの吠え声を聞いて震えながら着いていくかのようです。自分たちが神様に背いたことが分かったなら、どれほど神様がお怒りかを考えたなら、神様への恐怖があります。まだ神の愛を信じ切れていない。その不信感の故に、喜んで従うのではなく、震えながら従うのです。確かに国が滅んで捕囚に行ったことで、彼らは表だった偶像礼拝からは離れたようです。でも、こんど失敗したら見捨てられると思ったからでしょうか、彼らは律法を守ることに熱心になったのは良いのですが、律法の決まりを破ってはいけないと、細かい点に固執して、規則さえ守れば良い、というようになってしまった。イエス様が教えられたのは、形だけ律法の戒めを守るのでは無く、神様の御愛を知って、心から従うことです。ホセアは、イスラエルがまだ本当に悔い改めたのではないことを知っていました。それでも、例え恐怖心からでも、まずは神様のもとに戻ってきて、そして11節の最後、
11わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。──主の御告げ──
神の近くに来て住み、神の家に来るなら、いつでも神様の声を聞くことができます。神様から離れて間違ったほうに行かなくてすみます。確かに、裁きの神様への恐怖によっては救われませんし、強制的に従わされても、それは信仰では無い。でも、神の家に来るなら、そこで教えられ、養われ、導かれることができるのです。
12節の言葉は、イスラエルの現状を示しています。
12 わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている。しかし、ユダはなおさまよっているが、神とともにあり、聖徒たちとともに堅く立てられる。
ユダとは南王国のことで、エルサレムに神殿がありますから、彷徨いながらも神様と共にいる。でもエフライム、すなわち北王国は、偽りと欺きだらけです。イスラエルが頼ろうとしている周囲の国々や偶像は偽りです。ですから、まだまだ彼らには偽りでは無い、真理の言葉が必要です。11章の、神の愛で終わらずに、もう少しホセア書は続きます。
でも、ここに神様の御心は示されています。震えながらでも良いのです。神様の前に帰ってくるなら、たとえ自分の罪の深さに恐れおののいても、でも神の家にやってくるなら、いつでも神様は迎え入れてくださり、御言葉を語ってくださり、私たちが本当に神の愛を知ることができるように導いてくださるのです。
まとめ.
イスラエルは神の愛を知らずに間違った道を進んでいましたが、私たちを神の愛を知っているでしょうか。もちろん、イエス・キリストこそ、神の愛を表してくださったお方です。最後に、もう一度、最初の1節。
1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
この御言葉、どこかで聞いたことが無いでしょうか。実はマタイの福音書に引用されています。それはヘロデ王に殺されそうになったイエス様を守るため、天使がヨセフとマリヤに告げたのは、エジプトに逃げなさい、という言葉でした。そして時が来て、イエス様はエジプトからイスラエルの地に帰ってきて、ナザレの町に住んだ。それはホセアが預言したことです。神様は出エジプト記でイスラエルをエジプトから呼び出して救われたように、今度は御子であるイエス様をエジプトから呼び出して、救い主の務めをさせられた。神様の救いは旧約聖書の最初から計画され、そして預言者によって告げられた通りに、イエス様において成就した。イスラエルに対して語られた神の愛による救いは、イエス様によって私たちにも与えられているのです。この恵みを受け取ってください。

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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教