2020年10月25日

礼拝説教「教会の原点」使徒の働き2:1〜4(使徒2章)

礼拝説教「教会の原点」使徒の働き2:1〜4(使徒2章)
今日お話しします「使徒の働き」の2章は教会がどのように始まったのかを描いている。いわゆる教会の誕生です。1節にあります五旬節は元来ユダヤ教の祭りですが、ギリシャ語ではペンテコステと言い、教会でも大切な日として記念されるようになった。このペンテコステは、普通は五月から六月くらいです。特別なお祝いはしませんが、教会の誕生日と言われます。今週は十月最後の週ですが、10月31日は宗教改革記念日で、ルターが宗教改革を始めたことを記念する日です。プロテスタント教会の中には今日、記念の礼拝をする教会もあります。これもプロテスタント教会の誕生日と言えるかも知れません。人間の誕生日でしたら、お祝いすることに意味がありますが、教会の誕生日は、ただ祝うのではなく、その意義を知ることが大切だと思います。今日は、「使徒の働き」2章から、「教会の原点」と題して、教会とはどういうものなのか、ご一緒に考えてみたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り継がせていただきます。第一に、「聖霊とことば」、第二に「聖霊と預言」、第三に「聖霊と救い」という順序で進めて参りたいと思います。
1.聖霊とことば
先程は、「使徒の働き」2章の1節から4節を読んでいただきました。そこには不思議な出来事が記されています。天から激しい風の音が響き、炎のような、また舌のような、不思議なものが集まっていた一人一人の上にとどまった。それが何であるかはわかりませんが、その結果、皆が聖霊に満たされた、とあります。聖霊自体は目に見えないので、本当にそうなのかは良く分からない。そこで聖霊が降られたことがはっきり分かるように、みなが他国の言葉で語り出した、と書かれています。
昔からこの記事を読むたびに、自分も聖霊によって外国語が自由に話せるようになれたら良いな、なんて考えていました。今でも聖霊は私たちにも臨んでおられますが、教会に来たら外国語が堪能になると言うことではありません。この時の不思議な出来事は、最初の時だから特別なことをしてくださり、弟子たちがはっきりと聖霊が降ってくださったことが分かるようにしてくださった。以降は、もう聖霊がおられることは分かるようになったので、毎回特別な奇跡は必要ではなくなって行きます。
この、最初のペンテコステの日、確かに他国の言葉で語った事は目立ちますが、もっと大切なことは、その語られた内容です。近所の人々が、何事かと集まって来て、外国語で語っているのを聞いた。この時期、エルサレムには世界各地に住んでいたユダヤ人が祭りのために帰国していた。彼らは普段、自分が住んでいる土地の言葉で生活していましたから、それぞれが各地の言葉を弟子たちが話しているのを聞いて、最初は驚いた。でも聞いていると、その話している内容です。11節の後半にこう書かれています。「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」。聖霊が外国語で話させたのは、人々が神の大きな御業、すなわち救いの御業を聞くためです。それは象徴的な出来事です。これからキリストの福音が全世界に広められ、あらゆる民族の人々がその国の言葉で救いのメッセージを聞くようになる。これこそが教会が誕生した意義、教会の使命なのです。
聖霊は今も私たちに臨んでおられ、私たちを助けていてくださいます。でも聖霊に満たされるとは、必ずしも聖霊に意識を乗っ取られて訳の分からない状態になるということではありません。確かにそのような状態になった例が旧約聖書にいくつかありますが、多くの場合、聖霊は私たちに神の言葉を示してくださる。聖書の言葉が理解できるように助けてくださり、その御言葉が神様から自分への語りかけであることを実感させてくださる。聖霊の働きは言葉と関わることがよくあります。それは、今度は神様の御言葉を聞き、大きな御業、すなわち救いのメッセージを受け止めて御救いに与った私たちが、今度は周りの人たちに神の言葉を伝えるためです。もちろん聖書を手渡したり、簡単なパンフレットなどを手渡しても御言葉を伝えることはできます。でもすぐに受け入れてくれるかは簡単ではない。相手にしっかりと伝え、その人が信頼して聞いてくれて、福音を信じてくれるためには、私たち一人一人が自分の言葉で伝えることが大切です。でも自分は上手く説明できない。その時、聖霊が助けてくださるのです。聖霊は私たちが御言葉を神様から受け取り、その御言葉を伝えていくために降ってくださった。これが教会が誕生した目的なのです。
2.聖霊と預言
二つ目のことをお話ししたいと思います。弟子たちが外国語で福音を語るのを聞いて、素直に聞いた人はその内容が分かった。でも、心がねじ曲がっていると、素晴らしいメッセージを聞いても受け入れたくない。そこで、あれは酔っ払っているのだと、不思議な出来事を否定して嘲った、と13節にあります。それを知った弟子たちは、ペテロが代表となって、大声で語りかけます。15節から読みます。
15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
17 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

旧約聖書のヨエル書からの引用です。酔っていると言われてヨエル書を開くのはダジャレかしらと思うのは日本人だけです。ヨエル書を始め、預言者たちは終わりの日、すなわち救い主が来られて神様の救いの御業が成就することを告げています。特に、このヨエル書の言葉は、神からの霊、聖霊によって預言、つまり神の言葉が語られること、宣教が始まって行くことを預言しているのです。そして、21節。
21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。
聖霊が、語る人にも聞く人にも、あらゆる人に注がれて、神からのメッセージを語らせ、理解させ、聞いた人たちが主の名、すなわちイエス・キリストこそ救い主だと信じて祈るときに、誰であっても救われるのです。
ヨエル書から始まったペテロの説教が、36節まで続きますが、長いので読みません。何が語られているかと言いますと、十字架につけられて死んだイエス様が復活されたこと、この復活が、イエス様が救い主であることの証明だということです。それをただそうだと言うのではなく、旧約聖書の言葉、詩篇からの引用に基づいて語っているのです。このペテロの説教は、聖書の言葉に基づいたメッセージです。まだ神学的には不十分な面もありますが、聖書の権威に基づき、力強く語り、そして一番大切なことは、キリストを証していることです。
聖書に基づいて、自分の好き勝手なことを主張するのは説教ではありません。イエス・キリストが証されること、それが聖書の目的です。旧約聖書はやがて来られる救い主を予告している。それが預言です。新約聖書はナザレのイエスこそが救い主キリストだと報告している。ですから聖書全体がキリストを証言し、この御言葉に基づいて説教は語られる。預言とは神のことばを預かって、それを伝えることです。説教も神の御言葉に基づいてキリストを証する点で、預言と同様に聖霊の働きなのです。聖霊は私たちにキリストを示してくださるからです。
3.聖霊と救い
ペテロの説教を聞いた人たちはどうしたか。37節。
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

この人々は、イエス様を十字架につけたのはあなたたちです、とペテロに言われたとき、中には十字架の日に「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人もいたでしょう。反対に、イエス様がエルサレムに来られたときに「ホサナ」と叫んでイエス様を歓迎した人もいる。でも、十字架につけたのは自分ではない、あいつらが悪い、と人に責任をなすりつけなかった。自分の罪だと分かった。それが心が刺されたということです。
聖霊についてイエス様が最後の晩餐の席で教えられたことがヨハネの福音書に書かれています。聖霊は私たちに罪を示すお方です。人間はなかなか自分の罪を認められない。自分は正しいと主張したい。言い訳をして罪を罪だと考えない。そんな私たちが、罪を認めることができるのは聖霊の助けがあるからです。聖霊に満たされてペテロが語ったとき、聞く人々の中にも聖霊が働いてくださり、彼らはペテロの説教、いいえ、神様からの御言葉がわかり、罪をみとめ、悔い改めたのです。洗礼は悔い改めてキリストを受け入れたしるしとして受けます。聖霊はそのことを私たちに分からせてくださり、確証を与えてくださる。彼らは確かな救いに与ることができたのです。
聖霊は聞く人たちを救いに導いてくださるお方です。それを拒むのではなく、素直に受け入れ、自分の頑なさを悔い改めるとき、確かな救いが与えられるのです。救いは聖霊の働き無しには起こり得ない。聖霊は私たちが救いを受けることができるように来てくださった。ですから、聖霊が教会に降られたのは、救いの働きが教会を通して進められるため。救いを伝えることが教会の使命なのです。
数字の話をします。このペンテコステの出来事が起こった頃、およそ120名ほどの弟子たち、十二使徒だけでなく、他の弟子たち、イエス様の兄弟も集まっていた。その120名の群れが、聖霊が降って教会となり、そのメッセージを聞いた人たちが救われて3000人が加わったと、あります。すごいですね。今、池の上教会はコロナのために教会に来ることができない方たちもいますので、以前よりも少し少ない礼拝出席者数です。もちろんインターネットでの礼拝者も含めたらもっといるのですが。以前は大人だけで120名前後だった。それが300名になることを祈っていますが、300なんて無理だと思うでしょうか。このペンテコステの時は120名が3000人以上になった。聖霊が豊かに臨んでくださるなら、決して無理ではないはずです。では、何が違うのか。42節。
42 そして彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
パンを裂き、とは、やがて聖餐式となっていきます。そして祈っていた。ペンテコステの前にも120名の弟子たちが心を一つにして祈っていた。ペンテコステの後も祈りによって心を一つにしていた。3000人もいたら考え方も、好みも、様々です。でも彼らは心を一つにして祈った。ここに秘訣がある。私たちも一人一人が自分の願いではなく、一つとなって祈る。そこに聖霊が働いてくださるのです。
まとめ.
この時の出来事は大昔の話ではありません。今も聖霊は働いておられます。教会を建て上げ、救いに導き、御言葉を分からせて信仰を成長させてくださっています。イエス様を信じて従う者の心に臨んでおられる。ですから、これからもキリストを信じ、御言葉に聞き従い、証と宣教の使命に立ち、心を合わせて祈りましょう。
今、木曜日夜の祈祷会はズームを使ってインターネットでの祈祷会です。遠くて今まで祈祷会には来れなかった人も参加できる。体調が良くない時も一緒に祈ることができます。インターネットだけではありません。電話で、また家庭で、小さなグループでも良いのです。心を一つにして御言葉に聞き、祈るなら、そこに聖霊が働いていてくださる。その時、人間的には今は伝道が難しい時代です。でも神様には不可能ではない。そのために神の霊を一人一人に注いでくださっているのです。それが生けるキリストの教会なのです。
タグ:使徒の働き
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2020年10月18日

礼拝説教「教会を生み出すもの」使徒の働き1:3〜8(使徒1章)

礼拝説教「教会を生み出すもの」使徒の働き1:3〜8(使徒1章)
今日から新約聖書を開いて参ります。皆様には新約だけとか旧約ばかりというのではなく、聖書全体を知っていただきたい。ですので一年に旧約と新約から一書ずつお話ししたい。詩篇は先週で第一巻が終わって、区切りが良いところなので、ひとまず終わりにして、続きは使徒の働きが終わってからにいたします。
そこで今週から使徒の働き。この書は、教会の歴史、どのように始まり、どのように発展していったか、初代教会の歴史が記されています。主題は教会です。しかし、どうして今、教会について学ぶのか。
今年は三月からずっとコロナに振り回されて来ました。教会の活動はストップではありませんが、ブレーキがかかって、どの教会でも伝道が思ったように出来ず、苦労しています。先日も福音派の集まりである日本福音連盟主催で、宣教フォーラムが開催され、コロナの時代にどうやって宣教を、教会の働きを進めていけるか議論が交わされました。確かに今は教会はペースダウンです。でもいつかはコロナが収束して、再び活発に動き始める。その時になってから、どうしようか、ではなくて、今から備えたい。そこで、教会とは何か、教会は何をなすべきか、ということを考え始める。いいや、まだまだコロナは続くかも知れない。では教会は何も出来ないのか。確かに池の上教会は行事の多い教会です。でも行事を行うことが教会の本質ではない。行事に追われて忙しくしている中で本質を見失うのではなく、行事がなかなかできない今こそ、教会について考えるチャンスです。
また、教会員の方々の中には、三鷹の教会堂に来ることができない。来ても交わりが十分に出来ないのが現状です。でもたとえ離れていてもキリストにあって結びついているのが教会です。使徒の働きを学ぶことが一人一人にとっても励ましになればと思っています。
前置きが長くなりましたが、今日は「教会を生み出すもの」というタイトルで、いつものように三つのポイントで、第一に「御言葉による誕生」、第二に「祈りによる誕生」、第三に「弟子たちによる誕生」、という順序でお話ししたいと思います。
1.御言葉による誕生
一節に、前の書、と書かれているのは、ルカの福音書のことです。ルカ1章の始めを見ると、同じテオピロに敬語で語りかけています。古い翻訳ではテオピロ閣下と訳してます。おそらくテオピロは身分の高い人で、彼は異邦人の求道者でした。ルカの書いた福音書を読んでキリストを信じクリスチャンとなった。ですから使徒の働きを書いた時には、同じクリスチャン、兄弟姉妹ですので敬語ではなくなった。クリスチャンになったテオピロに、さらに教会について教えるのが、使徒の働き、です。
1章8節を読みます。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
全世界に出て行って福音を伝える。マタイの福音書の最後にも出てきます、キリストが使徒たちにした命令が教会を生み出しました。私たちもキリストの証人として証する。それが教会の、そしてクリスチャン一人一人の使命です。
教会はイエス様の言葉、神の御言葉から生まれました。ちょうど旧約聖書の最初の創世記で、世界は神の言葉によって造られたように、またアブラハムへの神の約束の言葉からイスラエル民族の歴史が生み出されたように、教会も御言葉により生み出されたのです。それは過去の話、二千年前のことではありません。今も御言葉が教会を育て上げ、一人一人のクリスチャンを生み出して成長させるのです。
8節でキリストは言われた。エルサレムから始まって、ユダヤ地方とサマリヤ地方、さらに地の果てにまで。この御言葉はその通りに成就していきます。エルサレムで教会は産声を上げ、ユダヤ、サマリヤに広まり、地中海世界の隅々に福音が伝えられていく様子が書かれています。御言葉が実現するのです。私たちも聖書の御言葉を受け入れて信じ従う時、御言葉が実現する生涯とならせていただけるのです。
教会はイエス様の言葉により誕生し、今も主は私たち一人一人に語りかけてくださいます。それが教会の命です。今は離れたところにいても同じ御言葉により繋がっていて、聞いた御言葉がその人のうちに実現していくとき、それが教会なのです。教会堂という建物には教会員だけでなく、例えば業者の人が仕事で訪れる。でも御言葉を聞くのではない。しかし、御言葉を聞いて、それに応答するなら、その人のうちに聖霊が豊かに働いてくださる。それが教会なのです。
2.祈りによる誕生
主イエスの命令はキリストの証人となること。でもそれは自分の力で出来るのではない。聖霊が臨む時、神様が助け主である聖霊を遣わしてくださるから証しすることが出来るのです。
『使徒の働き』、口語訳聖書では『使徒行伝』、聖書協会共同訳では『使徒言行録』。どれも使徒という言葉が入っているように、『使徒の働き』は使徒たちの働きを描いている。でも、使徒が活躍できたのは聖霊の力です。ですから本当の主役は聖霊であって、ある人は、使徒行伝ではなくて聖霊行伝だ、と言います。
しかし聖霊は私たちが祈ることを待っておられ、それもキリストの言葉によります。4節で、父の約束を待ちなさい、と言われた。約束とは聖霊が与えられることです。そこで弟子たちは集まって待ち続ける。集まって何をしたか。彼らは祈ったのです。12節から読みます。
12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、

心を一つにして祈り続けた。そこに聖霊は降られた。もちろん聖霊は自由なお方ですから祈りがないところにも働かれる。でも私たちが祈ることを喜んでくださるのです。
120人が心を一つにして祈った。すると、2章は来週ですが、聖霊が降り、三千人が救われたと書かれています。今、、日本の教会で120の祈祷会をしている教会はわずかです。そういう教会も最初は少人数からスタートしている。
池の上教会は、今は120名が集まって祈るのは「密」になるのでできない。四月に教会堂に集まって集会を行うことを中止しました。祈祷会もそうです。でも、どうにか祈れないか。そこでズームというインターネットの道具を使って祈祷会が再開して、今もズーム祈祷会は続けています。今までですと、体調や天候によっては無理せず自宅で祈ります、という方が、自宅からでもズーム祈祷会に参加できる。遠方の方も参加できます。参加したことのない方もぜひどうぞ。おすすめです。
120名で三千人なら、真剣に祈り、意見の違いは横に置いて心を一つにして祈るならば、12名で300人が救われるのは決して不可能ではない。皆さん、祈ってください。弟子たちは十日間ひたすら祈った。私たちもこれから十ヶ月、真剣に心を合わせて祈るなら、神様はどんなスゴいことをしてくださるだろうか。幻を見ようではありませんか。
3.弟子たちによる誕生
教会は御言葉が中心であり、聖霊が主役です。では人間はどうでも良いのか。そうではない。聖霊は御言葉を私たちに分らせてくださり、御言葉に従う人を用いてくださる。この時は弟子たちです。ですから聖霊行伝であると同時に使徒行伝、使徒の働きなのです。
集まった人たちは祈っていた。でも祈りだけではない。イエス様が、旧約聖書には救い主について書かれていると教えてくださったので、彼らはもう一度聖書を読み直し、沢山のキリスト預言を見出したでしょう。ある人は悔い改めがあっただろうと指摘します。主であるイエス様を見捨てて逃げたのです。一人一人が自分の罪を示されて悔い改め、これまでの仲違いを詫びた。
15節からの箇所には、一つの出来事が記されています。ペテロが中心となって、十二使徒の補充選挙です。イスカリオテのユダがいなくなったので、キリストの復活の証人としてマッテヤという人が選ばれたことが書かれている。ただ、この後、マッテヤという名前は二度と登場しない。だったら選んだ意味は無かったのではないか。後にパウロが異邦人の使徒となりますから、それまで待てば良かったんじゃないか。いろいろ言われます。確かにペテロはこれまでおっちょこちょいの勇み足で叱られたこともある。ではこの選出は人間の勝手な失敗だったのでしょうか。
ルカはこの出来事を記すにあたって、二つのことを示しています。一つは20節に詩篇の御言葉を引用している。御言葉が背後にあり、またこれを教えたのも聖霊の密かな働きです。もう一つは26節でくじを引いたこと。当時の人にとって、くじを決めるのは神様です。これも神の導きがあった、ということを伝えているのです。
人間のすることが完全で失敗が無いなどということではありません。でもいつも御言葉に教えられ聖霊に導かれるなら、間違いを示していただき、悔い改めることができる。これが人間の働きです。教会は人間の力ではない。神と人との協力関係でもない。御言葉に従い聖霊に導かれる弟子たちの働きを神様が用いてくださるから、人間の働きがあるのです。
私たちも、御言葉に聴くこと、祈ること、そして今自分に出来ることを精一杯させていただき、教会を共に建て上げていきましょう。失敗も不足もあるでしょう。何より、文句を言うどころか、こんな私でさえも神様は用いてくださることも恵みです。水を汲んだ僕たちは知っていた、と書かれているように、実際に祈り、奉仕した人ほど、神様の御業を身近で見ることが出来ます。教会の働きに関わるとき、恵みが豊かに感じるようになるのです。一緒に教会を生み出し育てる弟子となりましょう。
まとめ.
コロナの収束がいつかは誰も分かりません。でも、その時までただじっと我慢するだけでなく、今から伝道再開に備えましょう。それが、自分自身にも力を与えます。教会の働きにどんな形でも良いから加わってください。共に恵みに与りましょう。
タグ:使徒の働き
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2020年10月11日

礼拝説教「裏切りさえも恵みに」詩篇41:9〜13(詩篇41篇)

礼拝説教「裏切りさえも恵みに」詩篇41:9〜13(詩篇41篇)
礼拝では今日まで詩篇を続けて開いてまいりましたが、この41篇で一度区切りをつけて、来週からは新約聖書の『使徒の働き』に入り、その後、また詩篇に戻ってまいります。どうして41篇なんて中途半端な数で区切るのかと不思議に思われるかもしれませんが、41篇の次の42篇の前に「第二巻」と書かれていますように、実は41篇で第一巻が終わりとなっています。詩篇は、全部で150の詩が五つに分けられていて、41篇で一つの区切りとなっています。
さて、今日は「裏切り」ということが出てまいります。人間関係は信頼で成り立ちます。信頼していた、親しい友人に裏切られるというのは、どれほど心を痛めることでしょう。詩篇には多くの「嘆きの歌」と呼ばれる祈りが出てきます。嘆きの理由は様々です。しかしこの詩篇の嘆きも大変に大きかったのではないか。そこには病があり、敵がいて、さらに親しいはずの友が自分を裏切る。そんな辛い詩篇です。しかし、この詩篇が第一巻を締めくくるに相応しい祈りなのです。神様は裏切られる苦しみさえも恵みに変えることがお出来になるからです。いつものように三つに分けて説教を進めてまいります。第一に「生かす神」、第二に「憐れみの神」、そして第三に「立ち上がらせる神」という順序でお話しさせていただきます。
1.生かす神(1〜3節)
いきなりですが、新約聖書の中でイエス・キリストが言われた言葉で、「あわれみ深い者は幸いです」という、山上の垂訓の言葉がありますね。どうして「あわれみ深い者は幸い」なのでしょうか。聖書が教えている幸いとは、単なる幸福とか幸運ではありません。神様との関係における幸いです。神様抜きに自分の力だけで幸いを手に入れるということではないのです。では、どうして「あわれみ深い者は幸い」なのか。それは神様が憐れみにとんだお方であり、神様のご性格に沿った人、あわれみに富んだ人に神様は必ず共にいてくださるから幸いなのです。詩篇41篇は1節で「幸いなことよ」と始まっています。第1篇も幸いなことよ、とまったく同じ言葉で始まっている。1篇では、御言葉を昼も夜も口ずさむ人、だから悪を離れ、したがって神様の御心に沿った正しい生き方をする。それが幸いな人です。41篇の1節は、「弱っている者に心を配る人は」幸いだと語っています。心を配る、他の翻訳では、思いやる、と訳されています。旧約聖書の律法の中でも社会的な弱者を思いやることが神様の御心であることが教えられています。そのような人が、今度は自分がわざわいに陥ったなら、神様がその人を助け出してくださるのです。
コロナの問題が始まったころ、感染した人への偏見やいじめが社会問題化したことがあります。やがて感染者が増えていくと、批判していた人が感染することも起きてくる。そのとき、今度は自分が周囲から非難されるかもしれない、ということが分からないのです。1節の弱っている者という言葉には詳しい説明がありませんから分かりませんが、2節や3節で病気のことが語られていますから、病気で弱っているのかもしれません。教会でも、何人もの方が病気のため辛い思いをしておられます。シロアムの会の方々を中心として、お見舞いのハガキを出したり、それから今は出来なくなっていますが、病院を訪問してくださる方々もおられる。そのような奉仕を、牧師としても心から感謝しているのですが、誰よりも神様がそのような愛の働きを喜んでおられるのです。2節で、そのような人を神様が見守り、「生きながらえさせ」と書いている。最近の翻訳では単純に、主は彼を生かす、としています。弱い人に心を配ったから生かしてくださるのでしょうか。違います。神様は私たちに命を与えるお方です。今、生きているのは、神様に生かされている。それを忘れると自分の力で生きていると思い、高慢になる。本当は、神様が生かしてくださっている。神様がくださった命なのですから、神様の御心に沿った生き方をするのです。それが憐れみなのです。
神様はただ生かしているだけではない。3節を新共同訳で読むときに、病の床にいる人を立ち直らせる、と書いています。病気からの癒やしという意味もありますが、また単に肉体的な病気だけではない。心が疲れて病んでいる。失敗して倒れてしまっている。そこからも立ち上がらせてくださる。そして罪から救ってくださり、立ち上がらせてくださった。3節で「病むときに彼を全く癒やす」と訳されているのは、直訳をすると、彼の寝床を全てひっくり返してください、という、珍しい表現です。おそらく寝床を畳んで起き上がるということだと思います。一人の寝たきりの人を四人の友人がイエス様の所につれて来た。その友人たちの信仰を見て、イエス様は、その人の罪を赦し、そして癒やしてくださった。寝床を畳んで立ち上がりなさい。罪にしろ病にしろ、どんな悩み苦しみでも、その寝床に留まるのでは無く、立ち上がらせてくださる、その神様が一緒にいてくださる。それが幸いなのです。このお方を信頼して祈り続けましょう。
2.憐れみの神(4〜10節)
この信仰による祈りから、4節は切実な祈りにかわります。
4 私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」
この人は、祈る中で、自分の罪に気がつかされた。こんな罪人を神様は助けてくださるだろうか。ですから「憐れんでください」と祈るのです。様々な困難があります。病気や仕事や人間関係。でも、最も危機的な状況は、神様との関係が切れてしまう。その危機をもたらすのが罪です。罪があると神様を信頼して祈ることができなくなる。神様から見放されたのではないか、と不信仰に陥ってしまう。祈れなくなったら、ただ悩みの中に埋没するだけです。
さらに自分の罪の結果なのか、この人は悲惨な状況に陥る。それが裏切りということです。敵が悪口を言うのは、良くあることです。でも、見舞いに来てくれた人が、陰では悪口を言っていると知ったらどうでしょう。人間不信に陥ります。それでも、あの人、あの人だけは信頼できる。そう思っていた友達が裏切る。それが9節です。
9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
同じ釜の飯を食った親しい友人が裏切る。どれほど心が傷つくことでしょう。そんなヤツ自身にも罪があるでしょう。でも、そのような人間関係になってしまった原因の一部は自分の罪にもあり、人間関係は壊れていってしまう。
さて、9節の言葉を読んで気がついた方もおられるでしょう。これは福音書の中で、弟子たちがイエス様を裏切ったときに引用された、キリストを預言する言葉です。ユダは裏切りで有名ですが、他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げた点で五十歩百歩です。この詩篇の作者は、自分の罪に心当たりがある。でもイエス様は何の罪も犯していない。弟子たちを最後まで愛し抜かれたとヨハネの福音書は告げています。それなのに裏切られ、民衆にも裏切られ、十字架につけられた。ところが、神様は、その十字架に私たちの罪を置き、イエス様を身代わりとして、私たちを救ってくださった。なぜか。私たちには救っていただけるような良いものは何もない。ただ、神様の憐れみの故です。この詩人は、4節で「あわれんでください」と祈り、10節は、「あなたは私を憐れんでください」と、ただ神様だけが憐れんで下さることを信じて祈るです。私たちも、神様に祈り願えるような人間ではない。だから神様の憐れみを信じて、憐れみにすがるように祈るとき、神様は私を立ち上がらせてくださるのです。
3.立ち上がらせる神(10〜13節)
最後に10節の後半から見て参ります。神様が立ち上がらせてくださったなら、「わたしは彼らに仕返しができます」。ちょっと物騒な言葉です。テレビでも千倍返し、なんて台詞がありましたが、仕返しはクリスチャン的には良いのだろうか、と考えます。違う翻訳聖書では「報いる」と、言い方をマイルドにしていますが、報復するということだと、おんなじです。この言葉の正確な意味は「シャローム」という言葉に関連しています。平和という意味が使われることが多いですが、時には、したことへの報い、という意味もある。あわれみの神は、私たちが憐れみ深い行為をしたときに、そのままで放っておくのはいけない。その行いに報いることを考えるお方です。私たちが何かしてもらったらお礼をしたり、子供が良いことをしたら褒めてあげようと思うのと似ています。ですから悪を行ったり、憐れみの無いようなことをしたら、それに対しても報いるお方です。ただ、その報いを自分でしようとすると、個人的な復讐になってしまう。でも、立ち上がらせてくださった神様の御心を考慮して、たんなる自分の復讐心ではなく、神様の栄光が顕されるようにする。いいえ、神様が行ってくださるなら、神様のシャロームが実現するのです。
この詩人は10節、11節では、まだ敵に対する怒りや恨みが強かったのかもしれません。でも、最後の結論に至るとき、神様が本当に求めておられるのは、誠実だと気がつかされる。12節。
12 誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。
誠実という言葉にも様々な意味があり、完全という訳、口語訳や新しい聖書協会共同訳は「全き者」としています。違う文脈では、健康とか、あるいは成熟というニュアンスもある。感情のままに相手を憎むのではなく、神様の御心を知って、それに従う。それが成熟したキリスト者です。この人が成熟を目指して生きるとき、神様が支えてくださる。自分で自分を完全なものにすることは出来ません。成長しても、支えておられるのは神様だという信頼が大切です。そして、「御顔の前に立たせてください」。旧約聖書の中で「全き者」と言われた人、例えばヨブは全き人だったと言われた。それはいつも神様の前に生きたからです。アブラハムも神様から「全き者であれ」と、言われたけれど、それは「私の前を歩みなさい」と言われた後です。神様の前に立ち続け、神様の顔の前に歩み、神様と共に生きる。それが成熟したクリスチャンの目指すところであり、それが幸いな人なのです。
最後の13節は、ここまでと少し違って、第一巻の結びの言葉、神様を崇める頌栄と呼ばれる賛美で、最後はアーメンで終わっています。
13 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。
私たちを生かし、立ち上がらせてくださる、憐れみの神様こそが永遠にほむべきお方。そのお方に目を向け崇めて生きること、それが詩篇の祈りの第一の結論なのです。
まとめ.
詩篇を通して、苦難の中で祈っていった信仰者たちを何回も見てまいりました。どんな苦難の中を通っても、そこで神様を信頼するなら、神様はどんな問題でも、病でも悩みでも、そして裏切りでさえも、恵みに変えてくださる。なぜならイエス様がその悩みを一緒に体験してくださり、でも罪の無いお方が私の代わりに罪を背負ってくださって、私にはただ救いの恵みが与えられた。だから感謝と賛美が生まれてくるのです。
人生の中で、時には裏切られるような痛みを受けることもある。でも、そのとき、この痛みをイエス様も受けておられたんだと思ったとき、自分もイエス様と共におらせていただいていることを感じる。だから、決して無意味では無く、どんな苦難もイエス様を身近に知る機会とし、救いの恵みをもう一度味わう時としてくださるのです。お一人お一人が受けている困難、それはイエス様もご存じであり、だから私たちはイエス様のお名前で祈るのです。これからも困難の中でも祈り続ける信仰者とならせていただきましょう。
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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教