2020年12月27日

礼拝説教「反対されても前進する」使徒11:18〜26(使徒11章)

礼拝説教「反対されても前進する」使徒11:18〜26(使徒11章)
今年、最後の礼拝説教は、『使徒の働き』からです。来年にも続きます。宣教の働き、教会の働きは一年で終わるのでは無く、ずっと続いていくものです。前進し続けるとき、その前進が妨げられることがあります。しかし、その妨げを乗り越えてさらに前進する。それが聖霊の働きです。この年、コロナ禍のために教会も、いえ世界中が前進を妨げられているように思えますが、でも聖霊の働きは必ず前進し続ける。そのことをおぼえていきたいと思います。
今日も三つのポイントに分けて取り次がせていただきます。第一に「妨げるものたち」ということ、第二に「予想もしなかった働き」、そして第三に「聖霊と共に働く」という順序で進めてまいります。
1.妨げるものたち
前々回、10章から異邦人の救いということをお話ししました。コルネリオという異邦人の家族が救われた。もちろん、彼が第一号では無く、8章ではエチオピア人の宦官が救われた。でも、それはたった一人の例外であり、しかも使徒ではない、ピリポという信徒の働きだから、ということで無視されていたのかも知れません。しかし、コルネリオの救いは十二使徒のリーダーであるペテロがしたことです。すぐにニュースはエルサレム教会に伝わりました。異邦人が救われた。それは私たちから見れば素晴らしい事ですが、ユダヤ人至上主義が常識であった人たちからは、とんでもない、と非難されてしまったのです。1節、2節を見ますと、批判した人たちは、「使徒たちやユダヤにいる兄弟たち」と書かれていますから、キリストを信じた人たち、クリスチャンであるユダヤ人たちでした。それが異邦人の救いに文句を言った。しかも使徒たちも一緒なのです。2節で「割礼を受けた者たち」と言っているのは、ユダヤ人の印である割礼にプライドを持っていたからです。3節。
3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。
この非難の言葉を読むと、ちょっと変に感じます。異邦人が救われたことに文句をつけるのではなく、異邦人と一緒に食事をしたことを批判しています。救われたことを批判するのは、し辛い。食事というユダヤ人の習慣に関することなら言いやすい。批判というのは、大抵、些細なことで言いがかりをつけるものです。
非難されたペテロは、自分の体験を証しします。これは10章の出来事をペテロの視点からもう一度語っていますので、今日は読みません。彼が語ったのは、ペテロ自身も最初は異邦人への偏見を持っていた。それを神様から幻を通して正された。そして15節。
15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
16 私はそのとき、主が、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる」と言われたみことばを思い起こしました。
17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

イエス様が語られたことであり、神様がなさったことですから、人間である自分たちがそれを妨げてはならない。見事な言葉に、批判者たちは沈黙した。そして、18節の最後には神様をほめたたえた、と書かれています。
これで一件落着でしょうか。後のほうを読むと、この批判がまた出てくる。つまり、彼らは本当に異邦人伝道に賛成したのではない。黙認したにすぎない。なぜか。18節の批判者たちの言葉です。
それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ
確かに神様は異邦人をも救ってくださる恵み深いお方です。でも、彼ら自身はどうか。批判者たちは、神様の御心を理解したにも関わらず、では自分も御心を行おう、異邦人に救いを伝えよう、とはならなかった。神様をほめたたえたなら、神様の御心に従うはずではないでしょうか。異邦人が悔い改めると言いながら、自分たちが神様の御心に逆らっていたことを悔い改めていないのです。
神様の素晴らしさを知り、神様の御心を学んだなら、自分の間違いを悔い改めて、御心に従う生き方に変わる。それをしないとき、私たちも神様の働きを妨げることになってしまいます。御言葉を聞いて、賛美をしてお終い、ではなくて、御言葉に従う献身こそが求められているのです。
2.予想もしなかった働き
二つ目のことに移ります。残念ながら、このときのエルサレム教会は頑なでした。でも、神様はそれでも御心を行われ、聖霊は宣教の働きをさらに前進させる。それは、誰も予想していなかったところから始まります。19節。
19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンテオケまでも進んでいったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
20 ところが、その中にキプロス人[これは異邦人ではなく、キプロス出身のユダヤ人のことです]とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて、主に立ち返った。

地名が気になる方は、後で地図を見てください。最初はユダヤ人だけに福音が伝えられていった。でもキプロスやクレネ出身のユダヤ人は、もともと異邦人に慣れていたのでしょう。ギリシャ人というのはギリシャ語を話すユダヤ人というよりも、もう完全な異邦人です。エルサレムから遠く離れたアンテオケで異邦人伝道が進められるようになったのです。しかし、主の手がともにあって、大勢の人が信じたのです。
エルサレムの、しかもユダヤ人主義者たちから見るなら、クレネ人なんて、蔑まれていた。大したことが無いと思っていた。その彼らが宣教の最先端だったのです。伝道は必ずしも大伝道者がするのではなく、むしろ名も無いクリスチャン、自分には力が無いと思っていた、あるいは周りから見下されていた人たちに、神様は大切な働きを委ねられるのです。私がどこかに出て行って、イエス様を信じなさい、と語っても、おそらくヒゲの生えたオジサンが変なことを語っていると言われるだけで、宣教は進まない。でも、皆さんが、遣わされている場所で、皆さんとの信頼関係にある人に語るなら、そこに主がともにいて下さり、用いてくださるのです。誰かが、ではなく、たとえ自分では思ってもみなかったかもしれませんが、神様はあなたを用いたいと願っておられ、聖霊が一緒に働いてくださるのです。
3.聖霊と共に働く
最後に、神様がもちいてくださった人たちを何人か見てまいります。まず、22節にバルナバが出てきます。彼は、エルサレムでもみんなから信頼されていた。そこで遠いアンテオケ教会を視察するのに選ばれた。バルナバが選ばれて良かったです。彼は批判者ではなく、「慰めの子」と呼ばれる、暖かい人でした。異邦人がぞくぞくと救われているのを見て、重箱の隅をつつくように非難するのではなく、神の恵みを見て喜んだと書かれています。良い部分、特に神様の恵みに目を留めることができる人です。また、みなを励ましたと書かれています。ただ単に優しいだけでなく、「常に主にとどまっているようにと励ました」、イエス様に繋がることが大切です。彼はさらに多くの人を導きました。
ところがバルナバは、一つの問題に気がついた。ただ優しいだけとか、良いところしか見ない、ということとは違う。でも彼は批判するのではなく、解決を見いだします。25節。
25 バルナバはサウロを探しにタルソへ行き、
26 彼に会って、アンテオケに連れてきた。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。

なぜサウロか。彼は伝道者としては未熟で、挫折をして郷里に戻っていた。でもサウロには短所だけでなく大きな長所があった。それは旧約聖書の学者であったということです。おそらくバルナバは異邦人が救われるのを見て、それが素晴らしい恵みである。しかし、ユダヤ人と違って異邦人は旧約聖書の知識が全く無い。それが彼らの信仰の弱さ、福音理解の浅さになっていると感じた。その欠けを補う人材として、パウロは最も適していたのです。パウロは、今度は論争をするのではなく、すでに信じている人たちに教え、彼らの信仰は強められていった。その結果、26節の後半。
弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
キリスト者、それはクリスチャンという、呼び名で、実は、このときが最初だったのです。このあだ名は、彼らがいつもキリストのことを証ししたから。それは彼らの信仰、そしてキリスト理解がしっかりとしたからです。パウロとバルナバの働きの結果です。
聖霊の働きの一つは、御言葉を分からせてくださることです。サウロが学者として知識があったから、だけですと、上手くはいかない。そこに聖霊が働いてくださったからです。さらに27節からはアガボという人が聖霊によって大飢饉を預言しています。「御霊によって」と書かれているように、ここにも聖霊の働きがあり、その結果、各地に出来た教会からエルサレム教会に義援金が送られるようになる。異邦人を見下していたエルサレムの弟子たちに、神様は異邦人教会からも愛の援助を送らせている。こうして、聖霊は教会を少しずつ成長させ、前進させ、正しい姿へと導いておられる。それは今も同じです。
前進し続ける教会、そして、前進するとき妨げる力もあります。でも神様は、聖霊を遣わして、教会を導いていてくださる。ですから私たちも主の御心を行うものとなりましょう。
まとめ.
今年は、困難の年でした。でも、神様は祈ることを教えてくださり、祈る時に聖霊が私たちを教え、導いてくださることを示しておられます。新しい年を迎える前に、もういちど御心に従う姿勢を正していただき、これからも前進する教会、またキリスト者とならせていただきましょう。
タグ:使徒の働き
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2020年12月20日

礼拝説教「新しい芽が生える」イザヤ書11章1〜2節

礼拝説教「新しい芽が生える」イザヤ書11章1〜2節
今日はクリスマス礼拝です。例年ですと大人も子供も一緒に礼拝をして、その後、祝会ですが、今年は華々しいことはできませんが、一番大切なことは、私たちを救うためにイエス様を送ってくださったことを心から感謝することです。今日のメッセージは、イザヤ書からクリスマスの意味を、ご一緒に考えてまいりたいと思います。いつものように三つポイントで、第一に「根株から生まれた芽」ということ、第二に「主の霊が与えられる」、そして第三に「主を知る知識、主を畏れる霊」という順序で進めてまいります。
1.根株から生まれた芽
もう一度、11章1節を見ましょう。エッサイとはダビデ王様の父です。エッサイの根とはエッサイの、そしてダビデの子孫のことです。イエス様がダビデ王の子孫として生まれたことで、この預言は成就した、のは確かです。しかしダビデ王家は、バビロンによってユダ王国が滅ぼされ、以降はダビデの子孫が王となることは無かった。終わってしまった王朝です。でも、その枯れてしまった木の根株から芽が出て新しいことが始まったのです。「その根から若枝が出て実を結ぶ」、根から枝が出るなんてあり得ないことです。神様はそんな不思議なこと、不可能と思われることをしてくださった。それがクリスマスの意味だというのです。
今年、2020年は歴史に残るような大変な年です。教会は三月からコロナの影響を受けて、多くの教会が働きを制限せざるを得なかった。コンサートやランチョン、特伝も行うことができない。人が集まるところを避ける風潮では、新しい人を招くのも難しい。キリストが命じられた教会の使命、宣教の働きは出来なくなったのでしょうか。いいえ、不思議なように救われる人が起こされ、受洗者が与えられ、教会に加わる方がいる一年でした。宣教は人間の働き以上に聖霊の働きだということを、今、私たちは「使徒の働き」から学んでいますが、それは確かにこの教会にも起きていることを、信仰の目を持って見るなら分かる。イエス様が来てくださった時から始まった不思議な御業は今日もここに続いているのです。昔生まれた偉い人の誕生日を祝うのがクリスマスではありません。今も生きて働いておられるイエス・キリストを崇める。クリスマスとはキリストを礼拝することです。
2.主の霊が与えられる
二節を見ますと、「その上に、主の霊がとどまる」と書かれています。旧約時代にはまだ三位一体ということは隠されていましたが、新約時代からは、私たちは主の霊が聖霊のことだと理解しています。クリスマスのストーリーは、救い主がマリヤの胎に宿ったのは聖霊の働きだというところから始まります。成長されたイエス様が救い主としての公の働きを始める時に聖霊が鳩のように降ったと書かれています。この主の霊に支えられて、人間となられたお方が神の御子としての働きをすることができた。
この聖霊の働きは復活されたイエス様が天にお帰りになった後も続きます。イエス様の弟子たちの群れに聖霊が降られたのがペンテコステ、それはキリストの体と呼ばれる教会の誕生です。救い主の働きが聖霊無しには出来なかったように、教会も主の霊が支えていてくださるのです。聖霊なる神様が導いておられるのが教会です。聖霊は自由に働かれるお方です。風は思いのままに吹く、とイエス様がおっしゃった通りです。人間の思いや制限に妨げられるお方ではない。最初の教会がユダヤ人の救いにこだわっていた考えを聖霊が打ち破って、異邦人伝道へと導き、迫害の中でも世界中に福音を広めさせたように、今は教会に集まることができない人にも御言葉を届けて、その人の心に恵みを注いでくださる。主の霊は今も妨げられずに豊かに働いておられるのです。
3.主を知る知識、主を畏れる霊
この聖霊の働きは、さらに信じる私たちの心にも住んでくださり、私たちをも作り変えてくださるのです。クリスマスは目に見える行事以上に、目に見えない心の中には起きる奇跡です。イザヤ書に戻ります。この主の霊がどんなものであるかが二節に書かれていますが、これはイエス様に当てはまると同時に、私たちにも成就していくことです。2節後半。
2 それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
聖霊によって知恵や力が与えられる、というのも素晴らしい恵みですが、聖霊ご自身が内に住んでくださる。そして知識、特に神様のこと、イエス様のことを知る知識です。この知識は、主を恐れることにつながります。旧約聖書の箴言で、主を恐れることは知恵の始まりだと言われています。
単なる知識とか物事を上手くできる知恵程度のことではなく、神様のご臨在を知ることです。教会に神様が生きて働いておられることを知り、祈りに答えていただく体験をすると、こんなすごいお方がここにおられることに恐れを覚える。いいえ、こんな私でさえも救っていただいた、それが何よりの体験です。そのことに気がつかされた時、自分はこんな姿のままで良いのだろうか、聖なる神様のものとされたのだから、私も神様の御心にかなうものとしていただきたい。背筋が正される気がする。それが主を恐れるということです。
まとめ.
この年、嵐のような時代、暗闇の世界に、でもキリストが来てくださり、聖霊が今も生きて働き、私の心にも語りかけておられることを受け止めるクリスマスとさせていただきましょう。これが最高のクリスマスプレゼントだからです。
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2020年12月06日

礼拝説教「人生を変える出会い」9:1〜5(使徒9章)

礼拝説教「人生を変える出会い」9:1〜5(使徒9章)
序.「人生は出会いで決まる」、といった言葉は様々なものがあります。それくらいに重要な出会いを経験することは人生にとって大きな出来事です。恐らく多くの方が、あの人と出会ったことが私の人生にとって大切だ、という思い出があることでしょう。今日は『使徒の働き』の中でも重要な人物、パウロについて9章からお話ししたいと思います。9章ではまだサウロという名前で呼ばれています。いつものように三つに分けてお話しします。第一に「イエスとの出会い」、第二に「アナニヤとの出会い」、そして第三に「バルナバとの出会い」ということを話してまいります。
1.イエスとの出会い(1〜5節)
サウロにとってイエス様との出会いが彼の人生をすっかり変えてしまったことは本人も含めて誰もが認めることです。天からの光に照らされる中でイエス様を見た。こんなドラマチックなイエス様との出会いを、自分もしてみたいと私も思います。でも、この出会いは偶然の出会いということではなく、その伏線があります。パリサイ派の学者であったサウロは、ナザレのイエスという人物のことは噂で聞いていたでしょう。サウロがはっきりとイエスの名前を聞いたのは、7章に出てくるステパノの説教です。先々週は、この説教は長いので読まなくても結構です、と言いましたが、ステパノは旧約聖書からメッセージを語った。サウロは旧約聖書の専門家でしたから、ステパノの語ることが間違っていたらすぐに指摘できる。ところがステパノの説教は間違っていない。サウロにとっては衝撃的な説教で、彼の頭に焼き付いていた。後で著者のルカはパウロから当時の話を聞いて『使徒の働き』を書いた。ですから長い長いステパノの説教が、7章に記録されたのです。
話を戻しまして、サウロはステパノの説教を聴き、受け入れたくないけれど認めざるを得ない。最後にステパノは祈った。「主イエスよ。私の霊をお受けください」、そして「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。十字架で死んだイエスが天で生きている。そんなはずはない。でもステパノの説教と、彼の死に様はサウロの頭から心から離れない。信じたくないサウロは、イエスを信じる者たちを迫害します。次々に牢屋に入れ殺していく。1節で、「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」と書かれている姿は尋常ではない。それほど彼は必死でイエスを否定したかったのです。
そんな彼がダマスコという町でイエスの弟子たちを捕縛するために出かけて行った道で、彼は光に照らされ、天からの声を聞いた。4節。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

このイエス様の答えを聞いたとき、サウロはもう認めざるを得なくなった。それは、まず第一に、イエスは天で生きておられ、ステパノの言ったことは間違っていなかったということ。第二に、旧約聖書の学者であるサウロは、ステパノの語ったことが正しいなら、イエスこそ預言された救い主だということ。第三に、サウロは出来たばかりの教会を迫害していた。でも、それは神から遣わされたイエスを迫害することであり、神に背く罪であったこと。サウロは、それだけのことを一瞬で理解してしまったのです。
始めて教会に来て、最初の説教は、恐らく何が何だか分からない、というのが正直な感想かも知れません。それが最初の一言だけで全てが分かるなんて、普通はありません。サウロは何年も旧約聖書を研究した学者だったから、すぐに理解できた。サウロほどの人はいないでしょうが、でも、私たちもそれぞれがイエス様を救い主として信じるまでには、準備期間がありました。今は、洗礼を受けるときには洗礼準備会といって学びの時が用意されています。何年も教会に通ううちに段々と理解が整えられて行く人もいます。かかる時間や経緯は違いますが、いつかはイエス様が私の救い主だと認めるときが来る。それがイエスとの出会いです。もともとイエスを知っていた。それは昔の偉人としてでしょう。クリスチャン・ホームの子供たちは、親が信じている人として。でも、それが私のために十字架についてくださった、私の救い主だと知る時が、本当の意味でのイエスとの出会いです。この出会いは、誰の人生をも造り変える出会いです。イエス様を私の救い主と信じたときから新しい人生が始まります。
2.アナニヤとの出会い(6〜19節)
二つ目の出会いは、10節からのアナニヤとの出会いです。光の中でイエス様を見たサウロは、目が見えなくなっていた。三日間、飲み食いもしなかったと書かれています。見えなくなったショックもあるでしょうが、サウロはきっと考えていて食事を取る気にもならなかったのだと思います。イエスが救い主、メシヤだとすると、旧約聖書の預言はどう当てはまるのか。イエス様自身のことはあまり知りませんから、深く考え込んでいたでしょう。もちろん目が見えなくなった不便もある。そんな彼を助けるために神様が遣わされたのがアナニヤです。
アナニヤという名前は、5章にアナニヤとサッピラという夫婦がいました。23章では大祭司の名前もアナニヤで、当時は良くある名前です。当然、5章で死んだアナニヤとは別人です。アナニヤはダマスコに住んでいたクリスチャンで、後にパウロが彼を「敬虔で評判の良い人だった」と紹介しています。そのアナニヤが幻の中でイエス様の声を聞き、サウロに手を置いて、癒やしのために祈るように命じられる。でもサウロは教会を迫害し、ダマスコにも迫害のために来た人です。アナニヤは最初は反論しますが、さらにイエス様の言葉を聞いて、それに従いました。17節。
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

これが「目から鱗」という諺の起源である、と千代崎秀雄が書いていますが、それはさておき、アナニヤの働きでサウロは目が見えるようになった。だけでなく、バプテスマ、洗礼を受けた。聖霊に満たされるため、とも書かれています。もっと大切なことはアナニヤの言葉です。「あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました」。自分がイエス様と出会ったことを知っている。幻のようにして見たイエスが、自分を助けるためにアナニヤを遣わしてくださった。生きて働いておられる救い主だということを、改めて確信することができたのです。
エチオピアの宦官が救われるためにピリポの働きが必要だったように、サウロのためにアナニヤが必要だったのです。私たちも誰かの助けがあったから、今、こうしてイエス様を信じる者とされ、洗礼を受けることが出来た。また、今度は私がイエス様から遣わされて、誰かを救うための手助けをするのです。宣教の働きは聖霊の働きですが、神様は一人一人を用いてくださいます。このアナニヤは、ここだけにしか登場しませんが、サウロ、後のパウロを導くという大切な働きに用いられたのです。キリストとの出会いは、同時に誰かクリスチャンとの出会いがあります。遣わされたアナニヤが最初は躊躇したように、もしかしたら自分にとって嬉しくない人物のために、イエス様が用いられるかも知れません。苦手な人のためにも祈る。避けたい人にも手をさしのべる。自分もそうしてもらったかもしれません。私も誰かと出会うのです。
3.バルナバとの出会い(20〜31節)
最後にサウロのその後です。目が見えるようになったサウロはさっそく、宣教を始めます。ただし、後にパウロが書いたガラテヤ書によると、サウロはダマスコの東にあるアラビヤ地方に行って、しばらく過ごした。恐らく、イエスがメシヤであるという事実と、彼が学んできた旧約聖書の言葉とを結びつけて整理したのだと思います。優秀な旧約学者であったサウロが、その知識を全てキリストの福音に結びつけたなら、その知識においては誰の追従も許さないほどです。ダマスコに戻ったサウロは、さっそく、まだキリストを信じていないユダヤ人たちと議論し、イエスが救い主だと論証し、誰も反論できない。そこで彼らはサウロを殺そうと計画し、その計画を知ったサウロの仲間たちがサウロをダマスコから逃がし、サウロはエルサレムに向かいます。でも、かつてエルサレム教会が壊滅状態になるまで迫害したサウロです。エルサレム教会の人たちはサウロを恐れて、誰も彼がクリスチャンになったことを信じません。
サウロは熱心な人でした。知識においても豊富で優秀な人物です。でも伝道すると議論に勝っても誰も信じてくれない。クリスチャンたちからも、自業自得ですが、恐れられてしまう。そんな彼を受け入れたのがバルナバ。これが第三の出会いです。26節。
26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。

バルナバというのは、4章の終わりにちょっとだけ登場しています。「慰めの子」というあだ名をもらうほどに、素晴らしい人でした。バルナバはサウロにとっても慰めの人となりました。使徒たちのところに連れて行って、サウロがイエス様に出会った様子を説明した。説明したというのは、サウロから話を聞いたからできるのです。初めて会ったバルナバが自分の証しを聞いて信じてくれたとき、サウロはどう思ったでしょう。これまで、ダマスコではユダヤ人たちに拒絶され、エルサレムでは使徒たちに拒絶された。でもバルナバは自分を信頼してくれて、自分の話を聞いてくれた。これが慰めの子です。愛をもって耳を傾ける人が必要です。バルナバは、さらに13章ではサウロとペアを組んで伝道旅行に行きます。サウロにとって大切な仲間となる友人との出会いだったのです。
慰めを受けたサウロは、どうなったか。エルサレムでも彼は伝道しますが、議論をして殺されそうになり、また他の町に送り出される。まだまだ伝道者としては未熟です。サウロにはまだ出会いが必要です。もっと訓練を受けなければならない。でも、彼がイエス様と出会ったときからサウロの人生は新しくなった。それは確かです。また様々な人との出会いが彼を助け、これからも助けとなる人たちがいます。仲間となって一緒に奉仕する友人がいます。これが教会です。
まとめ.
人生は出会いで決まる。中でもキリストとの出会いは特別です。人生を変える出会いです。そのキリストとの出会いを助ける人との出会い、また自分も誰かと出会ってキリストに導く。自分だけではできなくても、パウロにとってはアナニヤやバルナバや、来月に話しますアンテオケ教会の人々との出会いがあったように、一人ではなくて教会の仲間たち、神の家族たちが助けてくれます。もし、まだイエス様と個人的な出会いが無いと感じた人は、ぜひ、この出会いをしてください。助けてくれる人がたくさんいます。またもうイエス様と出会って人生が変えられたという人は、その証しをしましょう。議論では、知識が足らないで勝てないかもしれない。議論で戦うのではなく、自分の体験、自分の思いを伝えることが大切です。この素晴らしい出会いを広げていきましょう。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教