2021年01月31日

礼拝説教「天国の勝利者たち」ヨハネ16:32〜33

礼拝説教「天国の勝利者たち」ヨハネ16:32〜33
[今年の召天者記念礼拝は、コロナ禍ということもあって、いつもですと来て下さる方々の中には、今日は欠席しておられる方々もいらっしゃいます。また、そのような状況の中で出席してくださった方々に感謝をいたします。昨年の春から、ご葬儀のためであっても多くの方が集まることが困難になってしまい、親しかった方とのお別れも難しいという、とても残念なことが続いています。一日も早く、この状態を乗り越える時が来ることを願っています。]
召された方々を、天国にお送りする私たちの側も、十分なお別れができない難しさはあります。コロナ禍だからということだけではなく、多くの場合は、死というのは突然にやってきます。例え、長い間病床に伏しておられたとしても、出来るならば、お元気になって欲しいと願っていますから、お別れということを考えるのは、しにくい。しかし、送る側以上に、召される方も、自分がやがてこの世の人生が終わるときが来るということを真正面から受け止めて、周りの方々にお別れをしておくというのは、簡単にできることではありません。本当に、この世でのお別れは難しい課題です。私たちは天国の希望を持っておりますので、決してこの世のお別れが最後では無いと信じています。それでも、別れの時は確実に来ることは変えることが出来ない真理です。どうしたら、その備えをすることができるでしょうか。
先ほどお読みしました聖書の言葉は、イエス様が最後の晩餐で語られた、いわば遺言です。イエス様ご自身は、まもなく捕らえられて十字架につけらえることはご存じでした。弟子たちは、何度かイエス様から十字架の予告を聞いてはいましたが、受け入れられない。まさか先生が十字架で死ぬなんて考えたくもない。でも、イエス様がたびたびご自身の死の予告をされるのを聞いて不安を感じていたのです。32節で、こうおっしゃっています。
32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
すでに来ている、とは、裏切り者のユダはもうすでにイエス様を殺そうとしている者たちのところに行き、兵士たちを連れてイエス様を捕らえる準備をしている。他の弟子たちも、イエス様を守るのではなく、見捨てて逃げてしまう。誰一人、自分と一緒にいてくれない。孤独です。
確かに死ぬときはひとりです。それを思うと孤独を感じるかもしれません。でもイエス様は言われます。
しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
父とは、天の父なる神様です。神様が共におられる。それが信仰です。だから孤独な思いで天国に行くのではありません。先に召された方々は、神様が共にいてくださって、天国まで連れて行ってくださる。だから安心して、平安な心で召されて行かれたのだということを憶えてください。ですから33節。
33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
イエス様を信頼し、イエス様の言葉、聖書の言葉を信じて受け入れるなら、平安を持つことができる。そのためにイエス様は弟子たちに語られ、その言葉が聖書に記されて、私たちにも語りかけておられるのです。
そして、最後に父なる神様に祈りを捧げて、イエス様は最後の晩餐の家から出て、ゲツセマネの園に向かい、そこでユダたちが来るのを待つ。その最後の言葉が、33節の後半です。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
これから十字架につけられてしまうのに、どうしてイエス様は「世に勝った」とおっしゃるのでしょうか。それは、その十字架こそ、私たちを罪から救う切り札だからです。悪魔はユダをそそのかして、イエス様を亡き者としようとした。でも、その十字架が罪と悪魔に対する勝利となることをイエス様は信じていた。だから、もう勝利は確定している。すでに世に勝ったと言われるのです。そして、このイエス様を信じるときに、私たちにも勝利を与えてくださるのです。
今朝は「天国の勝利者たち」という説教題をつけさせていただきました。それは、すでに天国に行かれた方々です。クリスチャンが召されることを凱旋と言うことがあります。悪魔に打ち勝って、いいえ、勝利者なるイエス様が一緒に勝利してくださって、天国では天使たちが大歓声を挙げて迎え入れる。それが凱旋です。
「あなたがたは、世にあっては患難があります」。この世には様々な苦難があります。昨年来のコロナ禍で、社会も経済も、そして、そこに住む多くの人たちが、程度の違いはあれ、困難を味わっています。中には知り合いが感染した人、亡くなった人もいるかもしれません。コロナだけではありません。病気や怪我、人間関係。苦難は尽きません。でも、イエス様を信頼し、そのお言葉を信じるなら、私たちは勝利者となることができます。いいえ、イエス様がすでに勝利しておられる。そのイエス様が一緒にいてくださると信じるなら、私たちも一緒に勝利者としていただけるのです。団体スポーツで、チームには補欠で試合に出ない人もいます。でも、チームが勝ったなら、その人も勝利者です。イエス様が勝利されたのなら、私たちも勝利をいただけるのです。
自分だけでは小さな敗北もあります。でもイエス様を信じて新しい力で立ち上がり、今度は勝利できる。でも勝ったり負けたりしながら、最後は、人間だれでも死ぬときが来る。でも、死んでお終い、それで負けてしまうのではありません。死ぬときに、それは天国への凱旋であり、先に勝利者となられた方々と一緒に喜ぶ日が来るのです。この信仰と希望をしっかりと握りしめるとき、愛する方の死、自分自身の人生の終わりについても、恐れたり嫌ったりせずに、落ち着いて取り組むことができるのではないでしょうか。
今、私たちは困難の中で、負けそうになっているかもしれません。死ぬことへの恐れや不安もあります。お別れする寂しさもあります。でも、それで終わるのではなくて、世に勝ったと言われるお方を信じて、天国で勝利者として待っていてくださる方々との再会を待ち望みましょう。
タグ:召天者記念
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2021年01月24日

礼拝説教「異邦人の使徒」使徒14:8〜15(使徒14章)

礼拝説教「異邦人の使徒」使徒14:8〜15(使徒14章)
「使徒」というと十二使徒のことを連想する人が多いと思います。イエス様には多くの弟子がいましたが、その中で特別に選んだ12人を使徒と呼びます。12なのは、旧約時代の神の民がイスラエル12部族であったように、新約時代の神の民である教会も12人の使徒から始まると考えられています。でも12人以外は劣っているということではなく、たくさんの弟子たちがキリストを証しし、神様に従いました。その中でパウロは「異邦人の使徒」と呼ばれています。彼の反対者たちはパウロは後から救われたのだから使徒ではない、とパウロを批判しますが、でもパウロもダマスコ途上でイエス様と出会い、また教会が誕生したのは弟子たちに聖霊が下られたからですが、パウロやバルナバも聖霊によって遣わされてキリストを伝えた点で使徒と呼ぶことができます。14章の4節で初めて二人のことを使徒と呼んでいます。
今朝の説教題は、この二人にちなんで「異邦人の使徒」としました。でも、使徒は12人だけ、あるはこの二人だけなのではなく、私たちもキリストに出会って救われ、聖霊が注がれているのですから、キリストを証しして宣べ伝えるなら、私たちも使徒と同じように用いていただけるのです。いつものように三つに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「ユダヤ人の拒否」、第二に「異邦人の誤解」、そして第三に「恵みの報告」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.ユダヤ人の拒否(1〜6節)
パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるために召された異邦人の使徒だと言われます。実際、パウロ自身もそのように語っています。でも同時に同胞であるユダヤ人が救われることを願って、「彼らが救われるためならば自分が神様に呪われても構わない」ということまで、ローマ人への手紙の中で書いています。彼は異邦人に遣わされたからと言ってユダヤ人を見捨てたわけではない。ですから伝道旅行の時も、一つの町に着いたら最初はユダヤ人たちに福音を伝えようとします。1節を読みます。
1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大勢の人々が信仰に入った。
2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人をそそのかして、兄弟たちに悪意を抱かせた。

最初は素直に信じる人たちも多くいた。ユダヤ人も、それからギリシヤ人というのは聖書の教える天地万物を造られた神様を礼拝するようになった人たちです。ユダヤ人もギリシヤ人も信じて救われた。でも信じたくないユダヤ人は他の異邦人たちをそそのかして信仰から遠ざけたのです。こうしてどこの町でも頑固なユダヤ人たちによりパウロは拒まれ、だんだんと異邦人への伝道へとシフトしていくようになります。
では異邦人はみんなパウロの伝える福音を信じるかと言うと、信じる人たちもいるいるけれど、信じないで拒む人たちもいる。福音の前ではユダヤ人も異邦人も同じなのです。神様は全ての人に福音、すなわち救いのメッセージを伝えようとしておられます。3節にこう書かれています。
3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。
反対者がいても神様が大胆に語らせてくださり、また奇跡を行わせることによって彼らの正しさを証明してくださった。こうしてたくさんの人が福音を受け入れ、また同時にたくさんの反対者もいて、ついには町が二分するほどになってしまいます。パウロたちを殺そうとする過激な者たち、これもユダヤ人と異邦人が手を組む。普段は互いに相手を見下していたのに、悪いことのために手を結ぶのです。町の中で争い合うことはパウロの思いに反する。そこでパウロは次の町に移動します。
どこの町でも同じです。ユダヤ人もギリシヤ人も同じ。昔も今も。いいえ、他の人がどうこうではありません。神様はあなたに問いかけておられる、あなたは信じますか。復活されたイエス様がガリラヤ湖畔でペテロに会った。近くにいたヨハネを気にするペテロに言います。「あなたは私に従いなさい」。同じように神様はあなたにおっしゃるのです。「あなたは私を信じるか」。
2.異邦人の誤解(7〜23節)
次の町ルステラで起こった出来事が8節からです。歩けなかった人が立ち上がって歩き出した。同じような出来事が「使徒の働き」の3章にあります。ペテロとヨハネによって神殿の入り口で起きた奇跡も、生まれつき歩けない男が歩けるようになり、驚いた人たちがペテロのメッセージを聞いて五千人のユダヤ人が信じたと書かれていました。この箇所でも同じようにたくさんの異邦人が信じたかと言うと。11節。
11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニア語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

奇跡を見た人たちは二人を神々と考えたのです。ゼウスはギリシヤ神話の神々の一人で有名ですね。当時の伝説で、二人の神々が人間の町にお忍びで来て、人々が悪かったので災いをもたらしたという言い伝えがあったということを聞いたことがあります。奇跡を行った二人が神様ならば歓迎をしないと大変だと思ったのでしょうか。二人の前に動物を持ってきて、いけにえを捧げようとした。しかしパウロたちユダヤ人にとって自分を神とすることは大変な罪です。ふたりは必死でいけにえをやめさせました。
奇跡を見ても、御言葉を聞いても、ユダヤ人と異邦人では受け止め方が違います。旧約聖書を知らない異邦人には福音のメッセージも間違えて理解してしまうかもしれない。私たちも同じです。聖書の言葉を自分の知識に基づいて間違った解釈をしてしまうこともあり得ます。また誤解や偏見も起こる。クリスチャンになっても同じです。異邦人に福音を伝えたパウロは苦労したと思います。ても、そのおかげで福音のメッセージを正しく伝えるために聖書の解釈や神学が深められ、やがて文化や言葉の違いを乗り越えて宣教が広まっていったのです。
ルステラでも反対するユダヤ人たちに殺されそうになったパウロは、次の、デルベという町で伝道して、多くの人が救いにあずかります。それからパウロは、来た道を引き返します。迫害の心配があっても、できたばかりの教会のために、21節。
21 彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケ(これは出発点のアンテオケではなく、ピシデヤ地方のアンテオケです)とに引き返して、
22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
23 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

まだこれからも迫害は続くでしょう。多くの苦しみがある。でもパウロは彼らに、信仰にしっかりととどまるように勧めた。誤解されることもあれば、自分も間違えることもある。それでも主を信じる信仰に固く立ち続け、また神様に信頼して委ねる。そして、福音を聞いた私たちも次の人たちに証を伝えて行くのです。パウロの異邦人伝道はさらに大変になって行きます。でも異邦人の救いのため、彼は働き続けるのです。
3.恵みの報告(24〜28節)
パウロたちはその後、キプロス島は通らずに船でシリアのアンテオケに帰ってきます。26節。
26 そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。
アンテオケにある教会に戻ってきた。そこは、神の恵みにゆだねられて送り出された所、と書かれています。出発は恵みによって、です。それは楽しいことばかりではありません。同労者との別れがあります。当時の旅は命懸けです。送り出した教会も有能な働き手を失い、大変でした。でも、聖霊の導きに従うことができました。宣教の働きが前進しました。バルナバは長年の故郷伝道が実現でき、パウロは召された時にイエス様から命じられた異邦人への宣教に取り組めた。伝道旅行がスタートできたのは恵みによってです。そして、今はそれを成し遂げた感謝です。
この恵みはパウロたちと送り出したアンテオケ教会だけのものではありません。少し戻りますが、15節にはパウロの短い説教が記されています。これは切羽詰まった時の、とっさの言葉ですから充分な説教ではありませんが、旧約聖書の予備知識がない異邦人に理解できるように配慮した言葉です。17節の後半にこう書かれています。
すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。
天地を造られた神様を知らず、神様が送ってくださった救い主も知らない異邦人にも、神様は恵みを注いでいてくださった。全ての人に神様は恵みを与えてくださるのです。私たちも救われてクリスチャンになる以前から恵みをいただいていた。そして恵みに導かれて今日がある。そのことを覚えて感謝するのです。
まとめ.
この恵みを私たちは忘れていたり、気がつかずに感謝していないことがあります。今はコロナのために一緒に食事の交わりが出来なくなってはじめて、これが神様からの恵みであり、当たり前の事ではなかったと気がつくのです。健康が支えられ教会に来ることができることも恵みであり、教会に行けない中でも御言葉が与えられることも恵みです。どんな困難の中でも恵みが注がれていることを、聖霊の導きによって知り、感謝して、この恵みを自分だけで終わらせずに証する。それが私たちに今できる伝道です。理解してもらうのは難しいかもしれない。誤解されるかもしれない。それでも、受けた恵みを伝える、私たちも異邦人に福音を宣べ伝える使徒なのです。
タグ:使徒の働き
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2021年01月17日

礼拝説教「遣わされた二人」使徒13:1〜5(使徒13章)

礼拝説教「遣わされた二人」使徒13:1〜5(使徒13章)
礼拝では昨年に続いて『使徒の働き』を開いていますが、この13章からは後半部分に入ります。ここまでは教会の誕生、それはペンテコステに聖霊が下ってエルサレム教会が誕生し、迫害によってユダヤとサマリヤ地方に広がっていったことが描かれていて、中心的な働きをしたのは十二弟子のペテロでした。13章からは、さらに現在のトルコやギリシャ、最後はローマまで福音が広められ、ユダヤ人だけでなく異邦人が多く救われ、パウロが中心的な役割を担います。パウロは三回の伝道旅行をしました。今日、開かれています13章は、その第一回伝道旅行の発端となったことから始まります。
この伝道旅行から世界中へと福音が伝えられ、ついに地の果て、海の果てである日本にまでキリストの救いが伝えられてきたことを憶えるとき、私たちが救われたこと、この池の上教会が出来たことも、その発端がこの章に記されている、と考えますと、神様の働き、聖霊の働きが今も続いていることに感動をおぼえます。去年から今年は、新型コロナウイルスという嬉しくないものが世界中に広まってしまっています。でも、福音の働きは、どんな患難にも、どんな迫害にも負けることなく今日まで続いてきたし、これからも、この教会を、また私たち一人一人を神様が遣わしておられることを、ご一緒に考えてまいりましょう。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「教会による派遣」、第二に「キリストのメッセージ」、そして第三に「御言葉を受け入れる人々」、という順序で進めてまいります。
1.教会による派遣
もう一度、1節を見ていただきますと、そこには何人かの名前が書かれています。バルナバと、最後のサウロは何度か登場してきました。他にもそれに匹敵するような人たちがいたということです。預言者や教師はどちらも神様の言葉を伝えたり教えたりする、現代でいうならば牧師のような働きです。アンテオケ教会は、一つの大きな建物ではなく、たくさんの家の教会、家庭集会のようなものがあちこちにあって、この人たちが巡回して教えていた。どんどんと救われる人が加えられていき、何人教師がいても足らないくらいだった。ところが2節。
2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
断食とは食事の時間も捧げて祈り続けることです。礼拝と祈り、教会にとって大切な働きです。その中で聖霊が二人を遣わすように導かれた。彼らは、さらなる断食と祈りを重ねて、二人を派遣しました。これが伝道旅行、世界宣教のスタートです。それは同時に、アンテオケ教会の人たちにとっては犠牲でもありました。大切な働き手であったバルナバとサウロが欠けることは教会にとって損失です。でも、もし彼らが自分のため、を優先したら、神様の命令に背くことになります。主のために犠牲を払って送り出し、その後も彼らは二人のために祈り援助しました。
教会は何のために建てられたのでしょうか。信徒のためでしょうか。クリスチャンにはキリストから命じられた使命があります。それはキリストの救いを世界中に伝えること。でも、それは簡単ではないし、一人では出来ません。そこで神様は助け主である聖霊を遣わされ、その聖霊が教会を建てた。教会の使命は宣教です。もちろん一人一人の信仰の成長のためには交わりも大切です。礼拝と祈りの重要性は言うまでもない。でも、それが自分のため、ではなくて、神様のため、そしてキリストの救いが伝えられるためだということを忘れてはなりません。
4節からは、伝道旅行の始まりです。最初はキプロス島です。そこで地方総督が二人から御言葉を聞こうとしたのを邪魔した魔術師がサウロの言葉によって一時的に目が見えなくなるという奇跡が起きて、総督は、主の教えの素晴らしさと権威に驚嘆して信仰に入ります。このエピソードは印象的ですが、良く見ると、遣わされた二人にも変化があったことに気がつきます。バルナバについては、最初は二人の名前は「バルナバとサウロ」と書かれ、バルナバがリーダーでした。サウロにとっては信仰の先輩です。キプロス島もバルナバの故郷であったので、彼の願いがあってキプロス伝道が始まった。でも、やがてサウロの異邦人伝道の働きが中心となっていき、順番も「サウロとバルナバ」に変わります。もしここでバルナバが変なプライドを持ったなら上手くいかなかったでしょう。彼は自分の名声は神様に捧げて、ただ聖霊の導きに従ったのです。サウロは、この章で名前をパウロに変えます。サウロとは旧約聖書ではサウルと発音されるイスラエルの最初の王で、ベニヤミン族であった彼には名誉ある名前でした。でも異邦人に福音を伝えるために、彼はギリシャ風の名前、パウロとは「小さい者」という意味です。彼も自分のプライドにはこだわらず、むしろ謙って福音を伝えていった。
今、私たちはキリストの教会から各家庭、職場や学校へと派遣されています。そこで自分のために生きるのではなく、主のしもべとなって生きるとき、宣教が始まるのです。
2.キリストのメッセージ
13節からは、キプロス島を離れ、現在のトルコ、当時は小アジアと呼ばれる地域に進んでいきます。地名について気になる方は聖書の最後にある地図を見てください。14節からピシデヤのアンテオケ、これは伝道旅行の出発点であるシリアのアンテオケとは名前が同じですが違う町です。その町で、安息日にユダヤ教の会堂で礼拝をします。15節を見ると、「律法と預言者の朗読があって後」と書かれています。当時のユダヤ教の礼拝、安息日に各地の会堂で行われていた集会は、現在の私たちの礼拝の元となったものです。彼らは毎日の聖書日課があって、私たちは旧約聖書と新約聖書から1章ずつですが、彼らは旧約だけですから、律法と預言書から一カ所づつ聖書朗読があり、その後、誰か、普通は巡回している教師が立って、御言葉に基づいた説教をするのですが、この日は旅行中だったパウロたちが頼まれた。パウロの説教が16節から41節まで書かれています。これを全部お話しするのは時間がありませんので、二つのことだけ。
まず、パウロの説教は聖書に基づいたものだった、ということです。朗読された箇所が書かれていませんが、千代崎のカンですと、申命記とハバクク書かなと思うのですが、自信はありません。それはさておき、パウロは何カ所も旧約聖書を引用したり、まとめたりしています。ちょうどステパノの説教が旧約聖書全体から語られたように、パウロも旧約聖書の全体から語っています。聞いているユダヤ人たちも旧約聖書は良く読んでいたので、聞いていてチンプンカンプンではなくて、とても惹きつけられたようです。
二つ目に、この聖書全体からの説教が目指すところはキリストです。旧約聖書に預言された救い主が、ダビデの子孫であるイエス様であることをパウロは御言葉に基づいて語っています。現代でも教会で説教が行われるとき、聖書の御言葉に基づくこと、それは一つの聖句が中心であっても、その背後には聖書全体の御言葉が土台となっています。そして、その時によって説教のテーマは様々ですが、目的はキリストです。その点で、このパウロの説教は大切なメッセージを伝えています。
この、聖書に基づいてキリストによる救いを伝える説教を聴いたとき、42節を見ると、聞いた人たちは、来週も同じ話、つまりキリストについて聞きたいと二人に頼み、熱心な人は集会の後も、さらに二人について行って話を聞いて、神様の恵みを受けたと書かれています。
私たちが礼拝を捧げるのは、もちろん自分のためではなく、むしろ時間を捧げて神様に仕えるのですが、そのとき、神様からは御言葉を通してキリストの恵みが注がれるのです。そしてさらに御言葉の恵み、キリストのことを知りたいと願うようになるならば幸いなのです。
3.御言葉を受け入れる人々
最後に44節からの部分を見て終わりたいと思います。
44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。
45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。
46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうに向かいます。

ユダヤ人たちも最初は喜んでパウロの話を聞いていた。ところがパウロに人気が出るのを見て、妬んだ。イエス様を十字架につけた直接の原因も嫉みでした。その妬みのために、パウロたちの働きは異邦人伝道へと大きく方向転換していきます。もちろん、ユダヤ人を見捨てたのではなく、これ以降も町に着いて最初はユダヤ人の会堂で福音を語り、でもユダヤ人がそれを拒んで、異邦人が福音を聞くようになるのは変わりません。
福音の言葉、聖書のメッセージは、全ての人に向けられています。でも、それを聞いて受け入れるか、拒むかは、その人の責任です。決して強制ではありません。でも、受け入れなければ恵みを受け損なうのです。パウロとバルナバという素晴らしい伝道者たちが命がけで福音を伝えた。でも、その大切なメッセージを受け止めて信じることは、聞いた一人一人なのです。私たちも、毎週、また毎日、聖書を読んで聖霊が心に語りかけてくださる御言葉を、謙って受け入れる者となりましょう。
まとめ.
私たちは、この福音宣教により救われました。そして、今度は私たちが遣わされます。一人ではありません。パウロでさえ二人一組です。教会の兄弟姉妹と一緒に祈り、離れていても支え合って、信仰を励まされ、証しを広めていきましょう。
タグ:使徒の働き
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