2021年02月28日

礼拝説教「腰を据えて」使徒の働き18:9〜11(18章)

礼拝説教「腰を据えて」使徒の働き18:9〜11(18章)
今日は教会総会です。昨年の総会前後から新型コロナウイルスの感染者数が増え始め、学校が休校になり、教会の子供たちも家にとどまらなければならなくなった。それから間もなく一年です。最初はどのように対処するか、分からないことが多く手探りでした。一年かけて段々と対応できる体制が整ってきて、様々な方法で教会の働きも少しずつ前進しています。礼拝でも、前半は『詩篇』から祈りについて学び、困難の中で神に祈り、また互いに祈り合う一年でした。後半は『使徒の働き』から初代教会の宣教の歩み、そこにも多くの困難がありましたが、聖霊なる神様が確かに教会を導いておられることを教えられ励まされました。
今日は使徒の働き18章から教会の使命である宣教についてご一緒に学びたいと思います。いつものように三つのポイントで、第一に「失望と妨げの中で」ということを、第二に「御言葉の約束に立つ」、そして第三に「人ではなく神の計画」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.失望と妨げの中で
先程読んでいただきました9節で神様がパウロに言われた、「恐れないで」という言葉は、旧約聖書で何度も使われています。恐るな、私はあなたと共にいる。旧約の時代も新約の時代も、そして今も神様は御言葉を通して私たちに「恐れるな」と語ってくださる。なぜならば私たちは恐れるからです。
今日は全部を説明はしませんが、18章はパウロがコリントという町で伝道したときのことが書かれています。1節に「パウロはアテネを去って、コリントへ行った」とあります。この時の心情をパウロは後に「コリント人への第一の手紙」の中で、あの時の私は、弱く、恐れおののいていました、と語っています。その原因は直前の出来事、すなわちアテネでの宣教です。お世辞にも成功とはいえない。パウロには自信もあって力を込めて語ったのに、信じた人は僅かだった。だから気落ちしていたし、今後の働きがまた失敗するかと、恐れていたのです。
さらに経済的にも苦しかった。一人で生活するための蓄えもなく、パウロはアルバイトで生活費を稼ぎながら。これでは十分な伝道は出来きません。やがて後から来た仲間たちが合流して、おそらくピリピ教会からの援助が届いて、いよいよパウロが伝道に専念できるようになると、今度はユダヤ人たちからの暴言です。このままでは、他の町でもそうだったように、迫害のため町を出ていかなければならなくなるのも時間の問題です。もうコリントでの宣教もお終いなのだろうか。それがパウロの恐れでした。
誰でも、一所懸命に頑張っていても、なお行き詰まることがあります。問題がいくつも重なってやってくることもある。そんな時、もうお終いかな、と諦めそうになってもおかしくない。そのような恐れや不安を持つ私たちです。もう一年間、コロナ禍で厳しい状況が続いています。そんな時に、さらに難しい問題が襲ってくることもある。人によっては二重三重の困難が重なって、もう自分の力では無理だと考えてしまう。その時、神様は私たちにも「恐れるな」と語ってくださるのです。
2.御言葉の約束
二つ目のことをお話ししたいと思います。神様はパウロに、恐るなという感情レベルのことを言われただけでなく、語り続けよ、と具体的な命令をしています。この命令はパウロにとっては福音を語るという彼の使命に関することです。異邦人宣教という自分の使命を、少なくともコリントの町では諦めようとしていた。もちろん異邦人の使徒を辞めるのではない。また次の町で伝道を続けたら良いじゃないか、そんな言い訳を自分にして、町を出て行こうと思っていたのかもしれない。そんなパウロに神様は、10節。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
パウロは自分が投獄されたり鞭打たれたりすることは覚悟していた。でもその次にキリストを信じて間もないコリント教会の人たちが害を受けたり、怖がってキリストから離れてしまうことを心配したでしょう。でも神様はパウロに危害を加える者は無いと保証してくださり、まだまだ救われる人が沢山いると約束して下さった。ですから恐れと不安があっても、パウロは腰を据えた伝道し続けたのです。
厳しい状況だけれどもう少し頑張れば良くなる、だから続けて見よう、ということですと、これは単なる精神論です。無理をして続けて、さらに悪化したら、元も子もありません。神様の約束を信じるからこそ、パウロはコリント伝道を続けたのです。これまでは一つの町に数週間、長くても数ヶ月の滞在でしたが、コリントでは少なくとも一年半、それまでの期間も加えると二年近く宣教した。そしてキリストを信じる者が多く起こされ、コリント教会が出来ていったのです。
私たちも困難があっても神様を信頼し、そして御言葉の約束を信じるのです。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」。まだコロナ禍の苦難は続くかもしれません。でも神様が新しい力を与えてくださると信じて行くのです。教会も腰を据えて働きを続けていくのです。
3.人ではなく神の計画
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。この後、パウロのコリント宣教はどうなったか。確かに救われる人は増えていきます。でも反対者がいなくなるのではない。パウロは無理矢理に法廷に引きずり出されます。でも裁判官の公正な判断でパウロは無罪となります。ユダヤ人たちが腹いせで他の者を打ち叩く事件は起きますが、パウロの宣教を止めることはできませんでした。神様の約束の御言葉の通りです。
でもパウロの使命はコリントだけでなく世界宣教ですから、出発する時が来ます。一度スタート地点のアンテオケに帰るために船に乗り、途中、エペソに寄ります。コリントも大きな町でしたが、エペソも小アジアでは大きな町で、伝道の拠点となる場所です。パウロはエペソでも本格的な伝道を続けたい気持ちもあったでしょう。エペソでキリストを信じた人たちも、もっとパウロに教えて欲しい。20節から少し読みます。
20 人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、
21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

神の御心なら。これが大切です。コリントで長く滞在して成功した。だからエペソでも、と同じことを期待したくなるのが人間です。でも神様の計画があり、神の時がある。ですからこの時はパウロは腰を据えなかった。長く続けるか、早く終えるか、ではなくて、自分の思いではなく神様の御心に従うことが重要です。エペソ伝道は、次の第3回伝道旅行で実現して、二年以上エペソに滞在することになります。でもそれは今直ぐでは無い。今回は腰を据えずに、種蒔きだけ。それも御心なのです。
少し成功すると自分の実績や成功体験に胡座を描きやすい。自分の考えでこれからも上手く行くと思い込みたい。それが人間です。だからいつも御言葉に聞く必要があります。最初に一度だけ御言葉を聞いて、その後は神様にも人にも耳を閉ざしてひたすら自分の思いで突っ走ったりしないよう、いつでもみ声を聞く姿勢を忘れないようにしましょう。
まとめ
腰を据えて伝道することも、開かれた門を通って新しい働きをすることも、神様はその時その時に最善の道をご存知です。いつも神様の御言葉に従う、この姿勢にとどまり続ける。腰を据えて神様に従いましょう。
タグ:使徒の働き
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2021年02月21日

礼拝説教「福音を聞いた人たち」使徒の働き17:1〜4(17章)

礼拝説教「福音を聞いた人たち」使徒の働き17:1〜4(17章)
今、礼拝で開いております『使徒の働き』という書は初期の教会の歴史を描いていますが、伝道者にとってはたいへんに教えられる教科書だとも言われます。パウロの説教は説教者にとってはお手本のようなものかもしれません。伝道や宣教の方法を学んだり、教会とは何かを考えることもできる。もちろん福音とは何か、というキリスト教の中心が示されている。でも牧師や伝道者だけでなく、全てのクリスチャンにとって大事なことが教えられているのは言うまでもありません。今日の説教題は「福音を聞いた人たち」としましたが、牧師ではなく、福音を聞いた普通の人たちがどのように信じるようになったかを、ご一緒に見て参りたいと思います。
いつものように3つのポイントで、第一に「理解して信じる」ということ。第二に「熱心に学ぶ」、そして第三に「復活を受け入れる」という順序で進めてまいります。
1.理解して信じる
今日は17章全体からお話ししてまいりたいと思っていますが、簡単に流れを説明しますと、15章でエルサレム会議が開かれて異邦人伝道が正式に認められ、パウロは第二回伝道旅行に出発します。続く16章では、聖霊に導かれてトルコ、当時は小アジアと呼ばれていた地域からヨーロッパへと宣教が広められていき、ヨーロッパ最初の教会がピリピにできました。17章は、ギリシヤ、現代のギリシャとは少し違いますが、北部がマケドニア地方、南部がアカヤ地方で、まずマケドニアの幾つかの町を通って行きます。全部の町での出来事を書いていたら沢山のことがあって書き切れません。重要な出来事に絞って書いていますが、テサロニケという町に着きます。どこの町でも、最初はユダヤ教の会堂に入って福音を伝え、やがてユダヤ人が反発して異邦人に宣教するようになっていきます。2節。
2 パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。

ここで使われている表現は、以前のような論争とは少し違います。論じた、と訳されている言葉は、「説教する」という意味もあり、聖書に基づく説教です。さらに説明したり、論証したり、とにかく彼らが納得するまで聖書から話し、また一方通行ではなくて話し合った。イエス様がキリスト、すなわち救い主だと語ったとき、聞いた人たちはそれを理解した、と書かれています。
キリスト教は、訳のわからないことを無理矢理に信じるように命令しているのではありません。できるだけ分かりやすく説明し、質問があればわかる範囲で答え、理解できるようにします。新しい翻訳、新改訳2017では、「納得して」と訳しています。パウロたちは少なくとも3週間、あるいは暴動が起きるまで、もう少し時間があったと思われますので、数週間は彼らを教えて、聞いた彼らもとことん納得した。ですから、5節以降でパウロを妬んだユダヤ人たちが暴動を起こして、パウロたちは次の町へと出発しなければなりませんでしたが、短期間でも素晴らしい教会ができた。それが、後にパウロの書いたテサロニケ人への手紙、これはテサロニケのクリスチャンたちに書き送ったものですが、そこにこう書いています。「あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となったのです」。彼らの信仰がどれだけしっかりとしていたことが分かります。
キリスト教は学問ではありませんし、教会は「教える会」と書きますが学校ではありません。信仰が大切です。でも聖書を学んで理解を正しくするなら、信仰もしっかりとするようになります。牧師は信徒の方たちにそうなって欲しいと願って、御言葉を取りつぎます。パウロがしたように、聖書に基づいて論じ、説明し、論証する。そうして、聖書を通して神様が伝えようとしておられる御言葉を理解していただけるなら感謝なのです。
2.熱心に学ぶ
テサロニケで迫害が大きくなり、パウロたちは次の町ベレヤに行きます。10節から読みます。
10 兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤに送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。
11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

「良い人」というのは他の訳では「素直」としています。それは何でもすぐに信じてしまうというのではなくて、聞いたことが正しいか、自分たちでも調べて確認して信じる。理解して、さらに詳しく調べる。そのように学ぶことに熱心な人たちでした。
ある教会に招かれて月に一度、旧約聖書を教えていた時、牧師になるために学んでいる神学生たち十人ほどが対象でしたが、そこに自分たちも学びたいという信徒の方たちが三十人ほど聴講に来ていて、熱心に学んでおられました。東京聖書学院でも以前、信徒コースに三十名くらいの方が、中には毎月遠くから学びに来る方もいました。この教会でも、熱心に聖書通読に励んでいる方たちがいます。熱心に聖書を学ぶなら、必ず祝福されます。
今、コロナ禍にあって、多くの教会でインターネットで礼拝を配信しています。池の上教会でもインターネットだけでなく、信徒の方には説教の原稿をあらかじめお渡ししています。中には教会での礼拝に出席し、さらにインターネットでも説教を聞いたり、原稿を読んで確認する方や、予習してから礼拝する人もいます。牧師として本当に感謝です。
このベレヤにできた教会がその後どうなったかは、残念ながら聖書には記されていません。でもきっと素晴らしい教会として成長していっただろうと思います。もし何か難しい問題が起きたら、きっとパウロは手紙を書いて指導したでしょう。手紙が無いのが良い知らせと言いますが、ベレヤ人への手紙という書が聖書に無いのは、きっとそういうことではないかと思います。
3.復活を受け入れる
ベレヤでも迫害があってパウロは三つ目の町、アテネに行きます。アテネは説明がいらないほど有名な町です。一方、同行者であるシラスとパウロの弟子となったテモテはベレヤに残って人々をもう少し教えて、それからパウロと合流する計画で、パウロは二人が来るのを、最初はただ待っていた。初めは一人で待っているつもりでしたが、そのうち、居ても立ってもいられないようになり、パウロは伝道を始めます。そのうち、さすがアテネですね、哲学者たちと議論を始め、ついに多くの人が集まる場所に立って演説をする機会が与えられたのです。良いチャンスだとパウロは思ったのでしょう。パウロの長い説教が22節から31節まで記されています。
聖書のせの字も知らないだろうアテネの群衆に理解してもらおうと、パウロは一度も旧約聖書から引用しない、どころかギリシャの有名な詩人の言葉を用いて語っている、大変珍しい説教です。これまで学んだ学問を積極的に用いて、アテネの人にも理解してもらえると思う、パウロ渾身のスピーチです。でも結果はどうだったか。
パウロが死者の復活ということを語った途端、復活なんかありえない、とあざ笑う人たちもいて、ほんの数人が信じたのみでした。失敗とは言わないけど、残念な思いだったのでしょう。後にパウロはこの時の事を回想して、あの後は、弱く、恐れおののいていた、と言っています。そしてパウロはこう考えた。人間は知恵によって救われるのではない。この世の知恵があるために神様の言葉を頭から否定して信じようとしない。それでは救われない。人間を救うことができるのは、十字架の言葉だけだ、とパウロは確信し、これからは十字架についた救い主だけを伝えようと覚悟を決めたのでした。
もしかするとアテネでのパウロは少しだけ高慢になっていたかもしれません。自分の知恵や学問の知識に酔っていたのかもしれない。でも結果が良くなかったのはパウロだけの責任ではない。そこで聞いている人々の姿勢も問われるのです。彼らこそプライドが高かった。政治についてはローマが支配している。文化的には後から来たエジプトのアレキサンドリアが盛んになってきていた。だからこそ自分たちが哲学者だというプライドがあったのだと思うのです。だから哲学ではありえない、肉体の復活なんて信じることはないのです。
聞く姿勢が大切です。絶対に信じないという頑なな心。自分はなんでも分かっているという高慢。それでは御言葉の種は心に入らないのです。
相手に受け入れて欲しいが故に、ストレートに語るのではなく、福音を薄めてしまったことが失敗だったと反省したパウロは、これからは十字架と復活の言葉だけを語ると決めました。でも、十字架と復活、特に復活は、日本人には躓きです。中々最初は信じられないでしょう。これがなければ伝道しやすい。でもこれが無かったならキリスト教は命を失ってしまいます。
信仰は、信じ難いことがあっても、自分の今の理解力では分からないと思っても、それでも神様を信頼するが故に神様からの御言葉を受け入れる一面があることを忘れてはいけないのです。神様は全知全能なお方ですが人間はそうではありません。理解できないこともある。分からない部分は神様に委ねる、それが信頼です。分からないけれども信じることができる、それも信仰です。十字架と復活のキリストを信じ受け入れる者となりましょう。
まとめ
聖書の御言葉を、理解することも、熱心に学ぶことも、時には神様を信頼して受け入れることも、どの面も大切です。そうして、信仰は豊かに成長します。聖霊が心に語りかけてくださる御言葉を聞き続けていきましょう。
タグ:使徒の働き
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2021年02月14日

礼拝説教「門は開かれる」使徒の働き16:5〜10(16章)

礼拝説教「門は開かれる」使徒の働き16:5〜10(16章)
「狭き門」という言葉があります。日本では大学受験で倍率が高い学校のことを狭き門ということもあります。イエス様の言われた「狭い門から入りなさい」という言葉を聞いて、キリスト教は狭い門だから入りにくいと言う人もいます。でも閉じているのではなく開かれている門です。入りたいと思う人は必ず入ることができる。反対に人間の側で門を閉ざしてしまうこともあります。キリスト教に対して門を閉ざして国もある。でも神様が不思議なように門を開いて福音を伝えさせておられるのです。
今日はパウロたちの宣教によって福音が広められていった様子を、『使徒の働き』の16章を通して、神様がどのように門を開いてくださったかを見て行きたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次いでまいります。第一に「世界へ開かれる」、第二に「心が開かれる」、そして第三に「獄屋が開かれる」という順序で進めてまいります。
1.新しい世界へ開かれる
16章と言いましたが、実際は15章の最後の数節から始まっています。15章でエルサレム会議から戻ったパウロたちは、しばらくしてから、もう一度伝道旅行に行こうと計画します。仲違いのようなことがあって、パウロとバルナバは違う場所に向かいますが、その結果、宣教に派遣されるのが1チームから2チームに増えたとも言えます。
パウロはシラスという人をパートナーとして出発して、途中でテモテという青年と出会い、テモテはパウロの弟子となって同行します。かつて訪れた町々で、出来て間もない教会を励まし、5節では
5 こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。
宣教は順調に進んでいった。それが突然に妨げられます。しかも反対者がいたからではない。それだったらパウロは負けずに伝道したでしょう。人間ではなく神様が止めたというのです。6節。
6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

アジアとは小アジアと呼ばれるトルコ地方です。御言葉を語ることを聖霊が禁じるというのは、いったいどういうことか、具体的なところは分かりません。御言葉を語らせてくださるはずの聖霊が、それを止めた。違う方向に行くと、そちらでもイエスの御霊、これも聖霊のことです、御霊がそちらに行くことを許さない。とうとう、パウロたちはトルコの西の果てであるトロアスまで来て、途方にくれたことでしょう。9節。
9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
夢かどうかは分かりませんが、一人のマケドニヤ人、誰かは書かれていません。でも、私たちを助けてください、と言うのです。これは聖霊が導いておられるんだと気がついて、トロアスから船で地中海を渡ってマケドニヤ地方へ行った。これが小アジアと呼ばれるトルコからヨーロッパへと福音が広められる一歩となったのです。
キリスト教は、西洋の宗教だと言われますが、アジアの片隅から始まって、そしてヨーロッパに広まって行った。それは聖霊の導きだったのだと、この記事は示しています。しかも、それはパウロの計画では無かった。イエス様は全世界に福音を広めるように命じられましたが、最初の教会はエルサレムに留まろうとして、迫害のために散らされ、それがユダヤとサマリヤに福音が広まる結果となった。これも聖霊の働きです。それでもユダヤ人は異邦人に福音を伝えることをためらっていた。でも聖霊が彼らを導いて、異邦人にも福音を広めさせた。そのために選ばれたパウロも、小アジアでの働きに目が向いていた。それを聖霊はヨーロッパ宣教へと導かれたのです。
しかし、それは、パウロにとっては最初は道が閉ざされたかのようでした。こちらに行っても禁じられ、こちらに行っても上手くいかない。まるで門が閉ざされたかのようです。でも神様はパウロの考えを越えて、もっと大きな働きへと彼を導こうとしておられたのです。今、私たちは閉ざされているかのような思いをしています。個人個人も、好きな所に行けない、みんなで楽しく交わることが難しい、教会に行けない人もいます。教会の働きも、出来ない事がある。でも神様は決して私たちの働きをやめさせようとしているのではなく、神様のご計画があって、新しく門を開いてくださる時が来るのです。ですから神様を信頼して、希望を持って祈りましょう。
2.心が開かれる
二つ目のポイントに移ります。『使徒の働き』の中には何カ所か「私たち部分」とも呼ぶことができる箇所があります。10節で、
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
これまでは、パウロは、彼らは、と三人称で書かれてきたのが、ここから「私たちは」と主語が一人称になります。これは著者であるルカがパウロたち一行に加わったためです。医者であったルカがパウロの主治医となったとも言われます。一緒に伝道する仲間が増えました。そして、パウロたちは先に進んでいき、ピリピに到着します。12節。
12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。
13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

ピリピの町にはユダヤ人が少なくて、会堂が建っていませんでした。そういう場合は、静かな場所、例えば川岸に集まって祈っていたのです。パウロたちはそこでルデヤという商人に出会い、神様が彼女の心を開いて、パウロの話を聞いて、信じるようにされた。ピリピ最初のクリスチャンです。
ヨーロッパ宣教の門が開かれ、地方第一の都市に導かれた。でも福音が伝わるためには、心が開かれなければなりません。どれほど言葉を尽くしても、奇跡を行っても、心を閉ざしていたら信じることはできません。「主は彼女の心を開いて」と書かれているように、人の心を開くことができるのは神様の働きです。「誰も聖霊によらなければイエスは主であると言うことはできない」との御言葉があります。聖霊が助けてくださり、心を開いてパウロの説教が分かるようにしてくださった。信じる決断をするのは自分自身ですが、聖霊の助けがなければ人間はなかなか信じられない頑なさがあります。誤解もあります。でも、どれほど難しい人でも、この人は救われないんじゃないか、と思われるような人でも、聖霊が働いてくださるとき、心の門が開かれるのです。
昨年は、コロナ禍にあって、でも受洗者が起こされた。それは聖霊の働きです。長年信じなかった人が信じるようになる。それは神様の恵みです。その背後には誰かの祈りがあった。私たちも誰かのために祈り続け、やがて時が来て神様が心を開いてくださると信じましょう。いいえ、自分自身も神様に対して頑なな心ではなく、お従いできるように、心の門を開いていただきましょう。
3.獄屋が開かれる
最後のポイントに移ります。ピリピでの伝道が進む中で、パウロとシラスは捕らえられて投獄されます。24節。
24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

とんで30節。
30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

不思議な奇跡が起きて、牢屋の扉が開いて、看守が救われる。有名な出来事です。奥の牢に入れられ、足かせと鎖で逃げることができない。でも神様はそれらを開いてくださった。そして普通ならパウロの説教を聴くことなどなかった看守が救われ、家族一同がクリスチャンになった。神様の御業はなんと素晴らしいことでしょうか。不可能だと思われ、固く閉ざされていた門を開き、遠く届かないと思っていた人にまで福音を伝えさせてくださる。パウロたちが投獄されなかったなら看守一家は救われなかったでしょう。神様はどこまでも門を開き、導いてくださるお方です。行き詰まっているときも、閉じ込められているときも、主を信頼して行こうではありませんか。
まとめ.
コロナ禍のために出来なかったこともあります。反対に、コロナ禍だったから出来たこともあります。遠方に引っ越された方が祈祷会に出席して共に祈っておられます。教会に来ることができない人にまで御言葉が届けられています。神様が門を開いてくださるなら、さらに多くの人に、そして人間的には難しいと思うところにまで届くことができるのです。
タグ:使徒の働き
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