2021年03月28日

礼拝説教「神の悲しみにより」マルコの福音書14:32〜36

礼拝説教「神の悲しみにより」マルコの福音書14:32〜36
今週は受難週、4月4日がイースターです。今日は棕櫚の日曜日と呼ばれ、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城された日です。今週の木曜の夜が最後の晩餐、そして金曜日が十字架の日です。十字架までの一週間はイエス様の地上でのご生涯の中でも一番多くのことが聖書に記されていて、全部を一度にお話しすることはできません。今日は十字架の意味について、マルコの福音書14章の、ゲツセマネの祈りという箇所から、ご一緒に考えてまいりたいと思います。それは、一言で言うなら、「神の悲しみ」ということです。
以前、北森嘉三という神学者が「神の痛みの神学」ということを唱えました。それは、欧米の神学者とはひと味違う、まさに日本的なキリスト教神学とも言えるもので、大変に注目を浴びました。私は神学者ではありませんので、詳しいことは説明できませんが、欧米で発展した神学は、どちらかというと理詰めというか、法律のようなきっちりした神学ですが、どうも日本人にはピンと来ない部分があります。北森先生は「神の痛み」ということを主軸に語りました。神様が痛みを感じておられる。それは情緒的というと言い過ぎかもしれませんが、やはり日本人は義理と人情と言った、情緒的なことが分かりやすいのかもしれません。私もどちらかというと理屈っぽい方ですが、でもイエス・キリストを信じたときは、心が揺さぶられ、涙と鼻水で悔い改めの祈りをしたことを思い出します。神の悲しみ、神様が私たちのために悲しんでいてくださり、その悲しみによって私たちは救われた。そのことを十字架は、そしてイエス様のゲツセマネでの祈りが告げているのだと思います。
前置きが長くなりましたが、三つのポイントで説教を進めてまいります。第一に「主イエスの悲しみ」、第二に「父なる神の悲しみ」、そして第三に「弟子たちに知らせる悲しみ」という順序で語らせていただきます。
1.主イエスの悲しみ
先ほど読んでいただいた34節でイエス様はこう言っておられます。
34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
死ぬほどに悲しいなんてオーバーに聞こえますが、でも、これが十字架の意味を示しているのです。何故、イエス様は悲しんでおられるのか。
以前、『パッション』という映画が上映されました。イエス様の十字架のシーンがあまりにリアルで、観ていて気を失った人がいるほどです。手に釘が打たれる。それだけで、どんな痛さだっただろうかと思います。でも、イエス様なら痛みでさえ耐えられるかもしれません。
私を含めて、男性は痛みに弱いと聞いたことがあります。女性の、特に出産という痛みは男性では耐えられずに失神するらしいです。それは女性が痛みに強いということだけではなく、新しい命を生み出すために、その痛みに耐えるということです。愛する人の命のため、その人を救うために、苦難を堪え忍ぶ。それが人間の愛の力だとするなら、神様は、そしてイエス様は人間を罪から救うために十字架の痛みでさえ堪え忍んでくださるお方だと思うのです。肉体的な痛みが十字架の本質ではありません。イエス様が、「もしできることなら」と言って十字架を避けたいと願ったのは、36節の中で、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と語られた、この「杯」という言葉です。
今、木曜夜の祈祷会では黙示録を一章ずつ開いていますが、そこには世の終わりに起こる出来事が描かれていて、七つの災いが三回にわたって地上を襲います。その最後のシリーズに「七つの杯」が登場しますが、これは旧約聖書の中でも預言されていることです。この場合の杯とは、人間の罪に対する神の怒りであり、神からの裁きです。イエス様が取りのけて欲しいと願ったのは、この杯です。父なる神様から怒りを受けなければならない。もちろんイエス様自身が悪いからでは無く、私たちの罪の身代わりです。この杯は、イエス様にとって最も辛いことでした。
誰でも人から悪口を言われたことがあると思います。どこの誰か知らない人に言われても、気にしなければ何の問題もありません。でも、それが自分の親しい人、自分が一番愛し信頼している人から酷い言葉を掛けられたら、誰でも心が痛みます。
三位一体のことは人間には難しいので、聖書は父なる神と子なる神と表現しているように父なる神様と、子なる神であるイエス様との関係は、人間に例えるなら親子ですが、それ以上の結び付きです。天地が造られるよりも前から愛によって結びついていた関係です。それが例え一時でも、しかし本気で怒りを受けなければならない。それが最も厳しい痛みであり、だからイエス様は「死ぬほどに悲しい」と言われたのです。
どうしてそんなことになってしまうのか。でも、それが私たちの罪の結果なのです。人間は自分の罪を軽視して、大したことがないと考えたい。でも、私たちの罪はイエス様と父なる神様の愛の関係を切り離すほどに恐ろしいものなのです。イエス様は、そこまでして、私たちを救うために犠牲を払ってくださったのです。
2.父なる神の悲しみ
二つ目に「父なる神の悲しみ」ということです。36節に「アバ、父よ」という言葉があります。ヘブル語では父のことをアブと言います。アバは、いわば「お父ちゃん」というような、幼子が父に呼びかける言い方だと説明されます。呼び方は何であれ、我が子が苦しんでいるときに、「お父さん、助けて」と求めたら、親は何をしてでも助けたいと思う。でも、父なる神様は十字架に掛けられたイエス様を助けなかった。イエス様が十字架につけられたのが金曜日の朝9時頃だと言われ、12時頃に全地が暗くなったと書かれています。それは、まるで父なる神様が、もうこれ以上独り子の苦しみを見たくない、目を背けたかのようでした。イエス様からは見捨てられたかのように感じます。だから3時ころに「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という詩篇の言葉を語られた。その声を聞いたときに、父なる神はどれほどの悲しみをおぼえたことでしょうか。
人間は関係性の存在です。一人では生きられない。周囲の人との関係性の中に生きています。コロナ禍がこれほど難しいのは、その関係性が原因で人から人へと感染してしまい、それを防ぐために関係性を制限しなければならない。人間にとって大変に厳しい病気です。でも、罪はそれ以上です。罪によって自分自身の人格が歪んでいくだけでなく、人との関係も歪んでしまい、お互いに不信感をいだき、相手を裏切り、さらに傷つけ合うようになってしまう。そして、自分の罪の影響が他の人にも及んでしまう。いじめられた人が、やがて自分も人をいじめるようになってしまうことがある。このような関係性に生きている人間を、その罪から救うために、父なる神様と子なる神であるキリストとの関係を犠牲にすることが必要だったのです。
父なる神様の悲しみ、それは御子なるキリストの悲しみとは違うかもしれないけれども、決してどちらが劣っているというようなことではありません。私の罪が御父も御子も悲しませてしまう。それほどに罪は深刻な問題であることを忘れてはいけないのです。
3.弟子たちに知らせる悲しみ
最後に、どうしてイエス様は「悲しみのあまり死ぬほど」だと言われたのか。それは、ある意味では弟子たちに聞かせるためです。弟子たちは夜中で疲れていたのか、居眠りをしてしまいますが、それでもイエス様が三回祈った祈りは彼らの耳に届きました。イエス様は弟子たちにもご自身の悲しみを知って欲しかったのです。
主イエスの悲しみ、父なる神の悲しみ、と言ったら、順番で言うと、次は聖霊の悲しみというふうになるかもしれません。確かに三位一体の神様ですから、父と子が悲しんでおられるときに、聖霊なる神様も悲しんでおられる。でも、聖霊は私たちの心のうちに来てくださり、語りかけてくださるお方です。それは神様の御心を私たちに知らせるためです。ですから聖霊の悲しみは、その悲しみを私たちにも分からせてくださるものなのです。
この時の弟子たちはイエス様の悲しみが分からず、信仰も眠っているような状態でした。心が鈍くなっていたのです。でも、やがて彼らも悲しむ時が来ます。ペテロがそうでした。この後、捕らえられたイエス様を後ろからそっと着いていった。そして、ペテロは三回もイエスを知らないと言ってしまい、それに気がついたときに、彼は激しく泣いた、と書かれています。自分が失敗をした。イエス様を裏切った。私たちも、失敗があります。他の人を裏切ったり、知らずに傷つけることもあります。相手に良かれと思って行ったことが相手を苦しめていたことに気がついたとき、私たちは愕然とします。激しく泣くかは分かりませんが、深い悲しみを感じます。
罪のため、とくに他の誰かでは無く自分自身の罪深さに気がつかされたとき、私たちは悲しみます。それは聖霊が私たちに気がつかせてくださった悲しみです。でも、この悲しみを体験するとき、そんな裏切り者の私、失格者である私でさえも救うために、イエス様が十字架にかかってくださったという恵みが、自分のこととして理解出来るのです。罪の故の悲しみを体験することが必要なのです。イエス様が私たちを救うために十字架の痛みと悲しみを味わってくださったように、私たちも悲しみを経験したときに、イエス様の近くに、いいえ、イエス様が私のすぐ側にいてくださることを知るのです。
まとめ.
今週は受難週です。毎日の生活の中で、聖書と祈りの中でイエス様の十字架に心を向けると共に、私の苦しみや悲しみから救ってくださるイエス様のお心を知る機会としていただきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年03月21日

礼拝説教「教会へのラストメッセージ」使徒の働き20:17〜21(20章)

礼拝説教「教会へのラストメッセージ」使徒の働き20:17〜21(20章)
先週はインターン生が礼拝説教を取り次ぎました。二年間、池の上教会で奉仕をし、その総まとめとしての説教です。また先週、聖書学院を卒業して、4月からはホーリネス教団の任命で新しい任地へと向かいます。その意味では、池の上でのラストメッセージでした。今日の説教題は「教会へのラストメッセージ」です。このタイトルですと、千代崎の最後のメッセージみたいですが、そういうことではありません。ただ人間、いつ人生の終わりが来るか、誰にも分かりません。ですから牧師は、ある意味では、いつも最後のメッセージのつもりで精魂を込めて語らせていただきます。今日お話しします、『使徒の働き』20章でパウロがエペソ教会の人たちに最後のメッセージを語っています。
ラストメッセージは、説教者にとっても様々な思いを持ちながら語るりますが、聞く者にとってもそうです。彼らはパウロと別れなければならない寂しさを憶えながら、でも最後の言葉をしっかりと受け止めたい。それが分かっている説教者も、彼らの悲しみへの慰めとなり、これからの励ましとなる言葉を語りたい。そして説教者を通して教会に御言葉を与えられる神様も、そのような思いなのでは無いでしょうか。
今日は17節からお話しするのですが、その前に、20章1節から16節までには、パウロの第三回伝道旅行の一部が記されています。コリントを出発し、マケドニヤの諸教会を教えながら、小アジアのトロアス。後で聖書の後ろの地図を見てください。7節からはトロアスを出発する前夜、真夜中まで集会が続き、パウロの説教が長かった。聞いていたユテコという青年が窓辺に座っていて、居眠りをして、三階の窓から落ちてしまい、死んでしまった、と書かれています。伝道旅行に同行していた医者のルカが診て「もう死んでいた」と書かれています。ところがパウロはユテコを抱きかかえ、彼は息を吹き返した。12節に「人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた」と書かれています。
突然に若者が死んでしまった悲しみ、それが生き返ったことで慰められたということもあったでしょう。でも、この人たちはまたパウロと会えるかは分からない。最後の別れかもしれないという悲しみもあった。でも、この奇跡を見て、クリスチャンは死んでも永遠の命が与えられていて、終わりの日に再会できるという確信が与えられた。だから、これは彼らにとって大きな慰めのメッセージとなったのです。同じ慰めの思いが、エペソ教会へのラストメッセージにも込められているのです。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つに分けてお話しします。第一に「悔いの無い過去」、第二に「迫り来る困難」、そして第三に「委ねる御言葉」という順序で語らせていただきます。
1.悔いの無い過去
18節からパウロは、これまでの働きを振り返っています。19節には「謙遜の限りを尽くし」と書かれ、最初は聞く耳を持たずに拒んでいたような彼らに対して謙って語り続けました。また「涙をもって」と、辛く厳しい中でも主に仕え、キリストの教会に仕えてきました。20節では「益になることは、少しもためらわずに、あなたがたに知らせました」とあるように、大切なことは全て語ってきた。「ためらわずに」とは思いついたらすぐに語るというのではなく、当然、配慮があり、知恵を用いて語るのですが、遠慮して語るのを控えるというのではなくて、しっかりと伝えるべきことは伝えるのです。教えたことの内容は、21節で、「神に対する悔い改め」と、「主イエスに対する信仰」と書かれています。これは福音の中心メッセージです。飛んで26節。
26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

パウロは、もう全部語り尽くしたと、余すところなく語ったと宣言しています。2年半近くのエペソ伝道は、長いとも短いとも言えますが、余すところなく語ろうとするならもっと時間が欲しかったのではないかとも思います。聖書全体からお話ししようとするなら20年以上かかります。小林和夫先生が聖書学院教会でキリスト教信仰のエッセンスを礼拝説教で二年あまりかけて語られたのが『栄光の富』という4巻の説教集となっています。詳しく分かりやすく語ろうとしたら、どれだけの時間が必要でしょうか。でも、自分が語るのではなく、聖霊が語らせてくださると信じるなら、必要なことは神様が語らせてくださる。22節に「いま私は、心をしばられて」と書かれていますが、新しい翻訳では「聖霊にしばられて」とあります。パウロはいつも聖霊の導きに従ってきましたが、一度、自分の考えで行おうとして失敗して、だから、必ず聖霊に従います、という思いとなっていたのでしょう。聖霊に従い、そして24節には「自分が走るべき行程を走り尽くし」という言葉がありますが、パウロが殉教する直前に書いたと言われる『テモテへの第二の手紙』にも「私は走るべき道のりを走り終え」と書いています。
これはパウロだから言えた言葉であって、私たちは無理だということではありません。自分の力で走り尽くすことなど、パウロにも出来ません。神様の導きに日々従っていくことが、走るべき道です。悔いのない生き方なんて簡単にできることではない。でも、失敗した過去を何度も振り返っては後悔し続けるのではなく、悔い改めることは悔い改めて、今日から新たな信仰で神様に従う。日々導いてくださる聖霊の御声に聞きつつ歩むのです。そう決心してもまた失敗するでしょう。それでも、その時に示された御心に従うことが、走るべき道。その道を歩むなら天国に行ったときに後悔ではなく、感謝と満足があるのです。
2.迫り来る困難
二つ目のことをお話しします。22節と23節でパウロは自分自身の将来について、「なわめと苦しみが私を待っている」と予告しています。こんなことを言われたら、余計、エペソ教会の人たちは心配するのですが、さらに29節。
29 私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
羊の群れを襲う狼です。間違った教えで惑わす人々かもしれないし、迫害する人たちかも知れません。こんな恐ろしい敵が来たときこそパウロ先生にいて欲しいのに、それがパウロがいなくなった後に、すぐにでも来る。しかし、それが現実です。
教会での幸いなひと時が終わり、家に帰ったら、仕事に戻ったら、また困難があるかもしれない。いえ、教会にいるときでも悪魔は私たちをそそのかして疑いや迷いを心に吹き込もうとします。困難は迫ってくるのです。脅かそうとしているのではありません。むしろ、そのことを忘れていたために、悪魔の策略に引っかかって、信仰が弱まったり、交わりが壊れてしまうことが起きるのです。31節に「目を覚ましていなさい」と書かれています。イエス様も何度も「目を覚ましていなさい」と語られました。二十四時間起きていろということではありません。何が大切なことかを忘れず、神様への信頼をしっかりと握っていくことを忘れてはならない。最初にお話しした、青年ユテコのことは、もしかしたら、一つの教訓なのかもしれません。例え迫害が来ても、誘惑が来ても、どんな困難が迫ってきても、目を覚まして信仰を堅く持ちましょう。
3.委ねる御言葉
最後に32節を読ませていただきます。
32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
いくら目を覚まして注意していても、自分の力で立ち続けることは出来ません。御言葉が力を与え、養い、成長させ、さらに信仰が強められていく。パウロは、神様とその御言葉に委ねると言いました。神様が共にいてくださるのです。そして、その神様が必要な言葉を語りかけてくださる。また聖書の言葉をいつも祈りつつ読むとき、そこに神様との生きた交わりが可能となるのです。どうぞ、聖書を読み続けてください。
35節に興味深いことが出てきます。
35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
ここにイエス様の言葉として「受けるより与えるほうが幸い」とありますが、これは福音書の中には出てこない言葉です。福音書に書かれているのはイエス様が3年間弟子たちに教えられたことの全てではありませんが、私たちに必要なことは余すところなく聖書に書かれています。「受けるより与えるほうが幸い」。エペソの人たちはこれまでパウロから、いえ神様からどれだけの恵みを受け取ってきたでしょう。パウロにもっといて欲しい、それはもっと与えて欲しいということです。でも、これからは受けた恵みを他の人たちに伝えることが求められます。人に恵みを伝えると祝福が倍増します。たくさん語って出し尽くすと、それ以上に神様が恵みを補充してくださいます。自分が受けることだけを考えるのではなく、与える幸いを知ることができるなら、より神様に喜んでいただけるのです。パウロはこのイエス様の言葉を伝えることでエペソ教会がもっと成長し、祝福されると信じていたのです。
今も神様は私たちに聖霊を遣わして御言葉を語りかけてくださってます。牧師はこの御言葉に教会を委ね、また信仰者はこの御言葉に人生を委ねることができる。生ける神の御言葉にはその力があるからです。
まとめ.
もしかしたら、もしかしたらですが、今日御言葉を聞くのがこれが最後になるかもしれない。でも今日受け取った神様からのラストメッセージをしっかりと受け止めて神様に信頼するなら、今度は天国で永遠に御言葉の恵みを受け続けるものとしていただけるのです。

タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年03月14日

アシュラム福音の時「嵐の中から呼ぶ神」(ヨブ19:25)21/2/11

アシュラム福音の時「嵐の中から呼ぶ神」(ヨブ19:25)21/2/11
昨年来、世界中がコロナ禍のために混乱しています。教会も難しい状況に置かれていますし、お一人お一人も健康的、経済的、あるいは人間関係で以前とは違う状況の中で苦悩されていることと思います。もちろん、これはコロナだから、ということではなく、クリスチャン人生には苦難はつきものです。クリスチャンでは無くても困難はありますが、キリストの御救いに与り、神様を信じていても、なお苦しみがある。そのとき、私たちの心の中には、何故、という思いがわき上がってきます。神様を信じているのに何故、こんな苦しみがあるのか。信じていても無駄じゃ無いのか。そんな風にはっきりと言うのは不信仰に思いますから言いませんが、でも心の奥底で何故、と考えたことは、誰でもあるでしょう。今回のアシュラムの聖句となったヨブ記でも、主人公のヨブは神様を信じながらも大きな苦難を味わいます。その苦難の中でヨブはどのように祈り、どのように神様からの言葉をいただいたのか。それを知ることは、私たちにも大きなヒントとなる、と思うのです。
ただ、ヨブ記は難解な書物だと言われます。私もそう思います。ですから、今日の御言葉を知るためには、ヨブ記全体についても理解が必要ですので、皆様にはあらかじめプリントを配っていただきましたが、参考にしてください。三つのことをお話しして参ります。第一に「ヨブ記のストーリー」ということをお話しします。第二に「ヨブ記の構造」、そして第三に「ヨブ記の福音」、これが今日のメッセージの中心です。
1.ヨブ記のメッセージ
ヨブ記を読んだことの無い方もいらっしゃるかも知れません。読んだことのある方も復習がてら、ヨブ記の大体の話をさせていただきます。
昔、ある所にヨブという人がいました。彼は、神様も認めるくらいに正しい生き方をしている人です。ところが突然の災害でヨブは財産を失い、子供たちを失います。どうしてそうなったのか。読者は裏話を知っています。悪魔と神様の遣り取りがあって、その結果、ヨブが苦しむ。とばっちりです。いったい何故、神様はそんなことを悪魔に許されたのか、分かりません。ただ、ヨブ自身は天上でのことは知らされていません。ですからヨブにとってのこの災いは、何故か理由は分からないけれども苦しむのです。しかし、ヨブはこの苦難の中でも信仰を失いません。有名な台詞ですが、「主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」。立派な信仰です。でも自分がもしこんな苦しみを受けたときに同じように言えるでしょうか。上辺では言えたとしても、心の底から言えるか。自分でも自信は無いのに、ましてや、人に押しつけてはいけません。愛する家族を失った人、生涯掛けて築いてきた働きを全て失った人に、「主は与え、主は取られるだよ、だから主を褒め称えよう」なんて、決して言ってはいけない。その人を傷つけるだけです。ヨブは確かに偉かった。この苦しみの中で信仰を貫いた。でもまだ続きます。今度は肉体的な苦しみを受け、さらに奥さんから「神を呪って死になさい」なって酷いことを言われる。でもヨブは信仰を貫きます。「主から幸いを受けたのだから、災いをも受けるべきである」。完璧な信仰者です。私たちにも、こういう人になれ、と神様は語っておられるのでしょうか。もしそうなら、ヨブ記はここで終わるはずです。
ヨブはこの後、あまりの苦しさで、嘆きます。ヨブを慰めるために来ていた友人は、最初はヨブと一緒に悲しむ。悲しんでいる人と共に悲しみなさい、です。でもヨブの嘆きの言葉があまりにも厳しかった。自分なんて生まれない方が良かった。その言葉を聞いたとき、友人たちは、ヨブを諫めるのです。お前、そんなことを言うもんじゃないよ。そこからヨブと三人の論争が始まり、長い長い議論が続きます。最後には神様までが登場して、ヨブと論争し、ヨブは神様の前に謙ります。神様はヨブに、三人の友人、売り言葉に買い言葉で、ヨブに対してずいぶん酷いことを言った。この三人を許して、彼らのために祈りなさい。ヨブが祈ると、神様はヨブを再び祝福し、ヨブの財産は以前の倍に増えた。これでヨブは前のように幸せになってハッピーエンド、でしょうか。
これがヨブ記を通して神様が私たちに言いたいことなのでしょうか。いわく、例え苦しみに遭っても、神様を信じ続けるなら、最後は以前の二倍の祝福を受けるのだから我慢しなさい、ということでしょうか。確かに天国では地上の祝福の何倍もの祝福がある。だから苦しみを受けても耐え忍べ、ということでしょうか。そんなことで今の苦難を忍耐するのが信仰者の生き方なのでしょうか。
あるいは、ヨブが言ったように。「主は与え、主は取りたもう」と優等生のような信仰の言葉を言うことが私たちの目指すところでしょうか。まるで悟ったかのような言葉です。でも、それでは納得は出来ない。本音では、神様、なぜこんな苦しみを受けなければならないのですか。私たちは神様の前に自分の苦しみを良い子ぶって我慢して、口先だけ信仰的な台詞を言うのでしょうか。それとも苦しみや悩みを正直に神様の前に述べることが真実な姿勢ではないのでしょうか。
アシュラムでニーズを持ってくる、最初はなかなか意味が分からなかったのですが、I兄から教えていただいて、少し分かってきたように感じます。一人一人ニードは違うでしょう。でも、心の奥底にある苦しみを隠していても神様は喜ばれない。いつかは、神様の前に出て、ヨブのように叫ぶのです。「どうして苦しまなければならないのですか」と。
2.ヨブ記の構造
次にヨブ記全体が何を語ろうとしているのか、そのために全体構造をかいつまんでお話しさせていただきます。少し授業のようになってしまうのですが、お許しください。
先ほど、ヨブ記のストーリーとして流れをお話ししましたが、教会学校で子供たちに話すときは、議論の部分は難しいので省略します。ヨブが苦しみ、でも信仰を貫き、最後は祝福される。でも、それは表面だけです。プリントの構造というところをご覧いただきますと、1〜2章の「序曲」と呼ばれる部分と、42章の後半7節から17節が「終曲」の部分で、ここだけでお話しが終わってしまいますと、真ん中のほとんどが抜けてしまいます。私は授業では譬えとして薄皮あんパンの話をします。真ん中の餡子を取り除いて、周りの薄皮のパンだけを食べても、美味しいですが、あんパンではなくなってしまう。あんこが大事です。
3章はヨブの嘆きで、それを聞いて三人の友人がヨブを責めて、ヨブが答える。これが論争です。最初がエリファズがヨブに語り、ヨブが答えます。次に二番手のビルダデが語り、ヨブが答える。三番手のツォファルが語り、ヨブが答える。3対1です。一回戦が終わり、二回戦も3対1。同じような議論が続くので退屈するかも知れません。三人の友人が言うことは実は一つで、同じ事を、言い方を変えている。それは、「ヨブ、お前が苦しむのは、罪を犯したからだ。神様は正しい方だから罪人を罰するからだ。だからお前は罪を認めて神様に悔い改めよ」。これは旧約聖書の人にとっては正統派神学と言われることで、ヨブも、「自分もそれは知っている。でも自分が言いたいのはそこじゃない」。ヨブは例えば息子たちが罪を犯したかもしれないから、そのために燔祭を捧げて神様に赦しを求めるような人です。もし罪を犯してもすぐに神様にお詫びして、いつも神様の前に隠し事はしない。ヨブが言いたいのは、「自分は、これほど大きな苦しみを受けるような罪は犯していない。だから、正しい人が苦しむのは何故なのか、それを知りたい」。でも友人たちは同じ言葉を繰り返す。「お前は罪人だ、悔い改めろ」。論争と言ってもかみ合っていない。
こんなすれ違いのような議論では問題は解決するはずがない。議論では人は救われないし、罪を責めるだけでは救いは無い。ですからヨブの悩み、ヨブの疑問は無くならないのです。
三回戦は、二人が攻撃し、ヨブはそれ以上に長く答えて、ついに三人目は降参、ヨブの不戦勝です。ヨブは議論に打ち勝った。でも本当に知りたい答えは見つからないのです。ヨブは29章から自分の正しさ、知恵の素晴らしさを語りますが、まだヨブ記は終わりません。
32章から突然にエリフという人が登場して、ヨブに問いかけます。エリフも三人の友人と同じようなことを言うのですが、少しだけ違うことを話す。それは「神は教師である」ということです。神様は苦難を通して教えてくださる。これはヨブにとっては初めての考え方です。苦しみを通して学ぶことがある。その通りだ。神様はただ単に苦しみを与えるのではない。罰を与えることもあるかもしれないが、試練を通して学ぶべきこともある。そう思ったときに、ヨブは黙りました。三人の友人との論争と違い、ヨブは反論をしないで聞き続けた。これが大切です。反論して自分の意見を押し通そうとするとき、自分の考えに留まり続け、発展はありません。異なる意見に耳を傾ける。特に神様に対して聞く姿勢が大切です。イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったのも、そうです。ヨブに聞く備えが出来たとき、何が起きたか。それは神様ご自身がヨブに語りかけてくださったのです。
38章から42章は神様からの言葉とヨブの答えです。神様は何を語られたでしょうか。それは、世界が創造されたときのことを知っているか、海の底から星々の世界のことまで、知っているか。人が見たことのないような怪物のことを知っているか。どれもが「知りません」としか言えないようなことを立て続けに問われるのです。ヨブはこれまで人から何を問われても答えることが出来た。何でも分かるつもりになっていた。少し高慢だったかも知れません。神様はヨブが無知であることを指摘された。人間には分からないこともあるのです。分からないのに自分は理解出来ると考えて、自分の苦しみの原因は何か、と問いただす。神様にさえもくってかかる。そんな人間の高ぶりに対して、神様はご自身こそが天地万物を造られ、全てのことを知っておられる、全地全能の神であることを宣言されるのです。
しかし、神様は決してヨブの無知や高慢を責めて罰しようとしているのではありません。もし神様が本気でヨブの前に現れたなら、それは太陽の近くに行った人は燃やされてしまうように、聖なる神様の前に出たなら人間は滅んでしまう存在です。イザヤ書の中で預言者イザヤが神様を見てしまったとき、「ああ、私はもう滅びる」と言った。でも神様はヨブを滅ぼすのではなくて生かしてくださる。
神様が共におられるというのは、素晴らしいことであると同時に恐れ多いことです。もし神様が私に怒られるならすぐに滅ぼされてしまう。でも共にいてくださる神様が私を生かしてくださるお方なのです。私の味方となってくださる。どんなに苦難があっても、理解出来ないようなことが起きても、神様が味方として共にいてくださるなら、何があっても大丈夫だ。この、「神我らと共にいます」という信仰です。
ヨブにとって必要だったのは、苦難の理由を知ること以上に、この神様と出会うことだったのです。神様はヨブの疑問に対する解答は何もおっしゃいませんでした。でも神様と出会い、神様の言葉を聞いたとき、もうヨブの中には疑問は無くなった。疑問が疑問では無くなったのです。もっと大切なことを知ったからです。神様は遠くにおられ私を無視しているお方ではなく、私が祈る時に聞いてくださり、私に御言葉をもって語りかけてくださるお方。この神様との出会いこそ、ヨブの魂が求めていたことなのです。この後、友人たちのために祈り、ヨブの財産は回復して行きますが、そんなことはオマケです。イエス様が教えられました。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それらのものは添えて与えられる」。
3.ヨブ記の福音
三番目のことをお話しして終わりたいと思います。今日はヨブ記の授業ではありません。アシュラムの福音の時です。ヨブ記が私たちに語りかけている福音の言葉に目を向けたいと思います。それは今回のアシュラムのテーマです。ヨブ記19章25節、「私を贖う方は生きておられる」。ヨブが語った言葉です。これはヨブと三人の友人との論争で、友人たちから責められて、ヨブが反論している時です。三人はヨブに言います、「お前が罪を犯したから罰を受けているんだ」。でもヨブは必死で答えます、「いいや、私はこんな苦しみを受けるような罪は犯していない」。どこまでも平行線の議論です。この論争は無駄だったのでしょうか。そうではない、と私は思います。
ヨブは罪を責められたと感じたときに、「私を贖う方」と言います。贖いとは、罪の赦しであり、罪からの救いです。旧約聖書的な表現ですが、ヨブは心の中で救いを求めていた。この苦しみから救われたい。もし本当に自分に罪があるなら、その罪を贖って救ってくださる方がいて欲しい。最終的な神様からの答えは、「神が共にいてくださる」ことです。でも神様に共にいていただくためには、神様の前に出て行けるように、罪を赦し、私たちをきよめてくださるお方がいなければ、私たちは神様の前には出て行けない。
別の箇所でもヨブは、そのようなお方を求めています。開きませんのでお帰りになってからお読みいただければ良いと思いますが、9章では「私たちふたりの上に手を置く仲裁者」、神様と私の間に立って取りなしてくれるお方がいて欲しいと語っています。16章では「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます」。保証、言い換えれば弁護してくださるお方です。ヨブは論争をしている最中ですが、神様との間を取り持ち、かつ自分を弁護してくれるお方、そして私に罪があるなら贖ってくださるお方、そのようなお方がいて欲しい、いいや、きっといるはずだ。そう信じて、言うのです。「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」。このときヨブはチリの中に座していました。苦しみの中にいた。その場所に贖い主なるお方が立ってくださる日が来る。このお方は今、生きておられ、天におられる。そう彼は信じたのです。
ヨブは旧約聖書の時代でもかなり古い時代の人です。まだメシヤ預言を知りません。来たるべき救い主のことは分からない。でも彼は苦しみの中で神様を信じ、神様の救いを求め、そして必ず神様から仲裁人であり保証人であり贖う者が与えられると信じたのです。でも彼はそのお方を見ることはありませんでした。今、私たちは新約聖書の時代に生きています。そして、このお方、私を贖う者がどなたかを知っています。このお方は私たちを罪から救うために、天から来られ、地上に立ってくださったイエス・キリストです。インマヌエルと呼ばれ、神様が私たちと共にいてくださることを保証するためにクリスマスに生まれてくださった。そして私の罪、神様との間を隔てている罪を許すために、贖い、すなわち身代わりとなって十字架についてくださり、三日目によみがえられて、天に昇り、今も父なる神の右の座について私たちのために弁護人となってくださる。また今も私たちの心に聖書の御言葉を通して語りかけるために、キリストの霊、イエスの御霊と呼ばれる聖霊として私たちの内に住んでくださる。内住のキリストです。
イエス様が十字架で成し遂げてくださったことは、私たちの罪を背負って贖いをしてくださり、神からの罰を身代わりとして受けてくださった。ですから、イエス様を信じる私たちは罪のための罰を受けるのではないのです。苦難があっても、それは神からの罰では、もう無い。イエス様が私を贖ってくださったからです。私を贖う方は生きておられる、今も生きておられ、私たちと共におられるのです。このお方と出会い、このお方のことが分かっていくときに、私たちは苦しみで悩む必要は無くなるのです。問題が問題では無くなり、全能者である神様が味方となってくださる恵みを知るのです。
まとめ.
神様がヨブに突然に語りかけられる場面を良く読んでみますと、こう書かれています。「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた」。このメッセージの説教題です。実際に嵐があったことは、その直前のエリフの言葉にも濃い雲とか稲妻という言葉が何度も出てくるのは、エリフがそのような情景を見ながら語ったのだと思われます。財産を失い、健康を失い、友情も壊れてしまった。そのヨブを嵐が襲う。しかし、その嵐こそ神様が登場する前触れなのです。旧約聖書では、例えば出エジプト記でシナイ山に行ったイスラエルの民が神様と会うときは、山が黒雲で覆われて雷が鳴った。神様は嵐の中で登場されるのです。
私たちの人生にも嵐があります。でもその嵐こそ神様と出会うときでもあるのです。コロナ禍で大変でしょう。仕事や人間関係で悩むことがあるでしょう。でもその嵐の中で出会うために神様は私たちに近づき、語りかけてくださるのです。今日も聖書の御言葉を通して神様がお一人お一人に語ってくださった。それは必ずしも問題への解答や、求めていたことが直接に与えられるのではないかも知れません。でも神様が共にいて下さり、キリストが私のうちに生きておられることを知るなら、苦難は恵みへと変えられるのです。
posted by ちよざき at 14:00| Comment(0) | 説教