2021年05月30日

礼拝説教「聖霊の働き」使徒1:8

礼拝説教「聖霊の働き」使徒1:8
<5月30日は証し礼拝のため、短いメッセージです。>

半年ほどの間、『使徒の働き』を開いてまいりました。最初の教会を立てあげ、福音を世界に広めたのは、使徒たちだけの働きではなく、多くのクリスチャンが証しを伝え、その背後には聖霊の働きがありました。ですから、『使徒の働き』は『聖霊の働き』だとも言われます。聖霊とはどのようなお方でしょうか。
1.助け主なる聖霊 (ヨハネ14:16〜17)
最後の晩餐のとき、イエス様は弟子たちに聖霊を遣わすことを約束されました。ヨハネの福音書14章16節。
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。
17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

それまで弟子たちを導いたイエス様はいなくなってしまいますが、聖霊なる神が来てくださり、「助け主」として彼らを助けてくださるとの約束です。「助け主」とは、何でも助けてくれる便利な存在ではありません。聖霊の方が「主」ですから、私たちが助けを必要とするとき、どのように助けるかは聖霊に主権があります。
聖霊は、特に私たちの救いのために助けてくださいます。教会に来るように導き、聖書の話を理解させ、信じる決心を励ましてくださいます。聖霊の助け無しには、人間は自分が主人となりたい存在ですから、「イエス様こそ私の主」と告白することができません。私たちが救われたのは聖霊の働きの故です。聖霊は、御言葉を悟らせ、罪に気がつかせ、十字架の贖いによる救いを信じさせてくださるのです。
2.風のような聖霊 (ヨハネ3:5〜8)
二つ目に、かつて夜遅くにイエス様を訪問したニコデモという指導者のことがヨハネ3章に書かれています。誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない、という聖句です。水とはバプテスマです。霊とは聖霊のことです。聖霊によらなければ救われない。ただ、どのような形で、またどのような方法で働かれるかは、私たちには予想できません。そのことをイエス様は風に例えて語られたのが、ヨハネ3章の5節からです。
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

聖霊は、風のように、自由に、どんなところにも行くことができます。人間では無理だと諦めそうになったとき、聖霊は、時には奇跡を用いて、時には近くの誰かを用いて、私たちを助けることができます。風自身は目には見えませんが、モノが動かされることで風があることを見ることができます。信仰の目を持って見るなら、救われた人を聖霊が支えておられることが分かります。小さな出来事の背後にも聖霊の働きがあるのです。
3.証しに力を与える聖霊 (使徒1:8)
イエス様が予告され、約束された聖霊が弟子たちの上に降られたのがペンテコステです。臆病で隠れていた弟子たちが、大胆に多くの人の前で語り、迫害されても臆することなく福音を伝えたのは、聖霊の力を受けたからです。聖霊は様々なときに働いてくださり、また私たちに力を注いでくださいますが、特に証しをするときに力を与えてくださいます。なぜならば、聖霊は御子であるキリストの栄光を現すために来てくださったお方だからです。私たちが救われたとき、また特別な恵みをいただいたとき、それを自分の胸の内だけに隠しておくなら、キリストの素晴らしさは自分だけしか知ることができません。それを人に伝えるのは難しいかも知れませんが、その証しによってキリストの素晴らしさが広まるのですから、聖霊は必ず力を与えてくださいます。私たちがキリストの証し人として生きるなら、また福音を伝え、隣人を教会に導くとき、聖霊の働きを知ることができます。教会が宣教の使命に生きるなら、聖霊も確かに働いてくださるのです。
まとめ.
『使徒の働き』という書物は28章で終わります。でも世界宣教はまだ続きます。いいえ、今も聖霊の働きは続いています。ですから、ある人は、私たちは今、『使徒の働き』の29章の中に生きている、と言います。私たちも弟子たちのように力を受けて、キリストの証人としてイエス様の素晴らしさを伝える者としていただきましょう。
タグ:使徒の働き
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2021年05月23日

礼拝説教「大胆に、妨げられずに」使徒28:30〜31(使徒28章後半)

礼拝説教「大胆に、妨げられずに」使徒28:30〜31(使徒28章後半)
序.『使徒の働き』を続けて開いてまいりましたが、今日は最後の部分です。パウロの伝道旅行は、最後は囚人としての護送される旅路でした。嵐もありましたが、ついにローマに到着しました。当時の世界の中心がローマであり、エルサレムから始まった福音宣教は、エルサレムから見たら地の果てとも思える遠いローマにまで到達した。そこでもパウロは大胆に福音を語ったと書かれています。今日はペンテコステですが、『使徒の働き』は2章で最初のペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降って教会が誕生したところから始まり、すぐにペテロとヨハネが捕らえられて議会に立たされますが、そこでも使徒たちは大胆に語り、また神様に「もっと大胆に語らせてください」と祈ったと書かれています。その後も様々な困難や迫害があっても、大胆にイエス様が証しされていき、そして、この最後の部分でも「大胆に」、さらに「妨げられることなく」とあります。それは今も続いています。私たちも大胆に救いを証しし、キリストを宣べ伝えてまいりましょう。
今朝は、この28章の後半から三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「誤解を解いて」、第二に「不信仰の壁」、そして第三に「制限されても」、という順番で進めてまいります。
1.誤解を解いて(16〜22節)
さて前回は28章の前半で、ローマへの旅の最後の部分をお話ししましたが、今日はローマに到着してからで、16節から少し見てまいりたいと思います。16節。
16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
番兵の監視はあるということは勝手に出歩くことは出来ませんが、自分の家の中で自由に生活できる。これは、軟禁状態ではありますが、破格の待遇です。17節。
17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
これまでの伝道旅行では、一つの町に入ったら、最初はユダヤ人の会堂に行って、ユダヤ人に福音を伝えるところから始めましたが、今回は外出はできません。そこでユダヤ人の有力者たちを呼んでもらって、彼らの方からパウロのところに来てもらったわけです。そのユダヤ人の前でパウロが何を語ったのかというと、まず最初に囚人であるが無罪であることです。いくら熱心に福音を伝えようとしても、犯罪者であるなら信用してもらえません。18節。
18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。
19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。
20 このようなわけで、私はあなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。

二つ目に、パウロがローマに来た理由は、カイザル、つまり皇帝に上訴したからですが、それはユダヤ人を訴えるためではなく、無罪を勝ち取るためであって、ローマにいるユダヤ人たちに敵対するつもりは無い。では、何が論点かと言うと、「イスラエルの望み」、これはイスラエル人が待ち望んできた救い主のことです。つまりナザレのイエスこそ救い主キリストであるという主張。これこそパウロが宣べ伝えていることです。この後は、いつものように福音を伝えることになるのですが、どうして、パウロは自分を弁護するような話から始めたのでしょうか。
パウロはあくまで無罪でしたが、誤解をする人もいるでしょう。誤解を解いてからでなければ福音を語ることができないのです。私たちも人間関係では、誰かから誤解されることがあるかもしれません。そのような人にも福音を伝えたいと願うなら、最初は誤解を解くことが必要になるかもしれません。信頼関係から伝道は始まるからです。もちろん、個人的な関係の誤解だけではありません。相手の人がキリスト教に対して誤解があったら、それが解消される必要もあります。なんだか分からないけれども、キリスト教に対して敵対的だったり、とても頑なな態度の人がいたりします。もしかすると昔、クリスチャンにいやなことをされたとか、悪いイメージを持っておられるのかもしれない。あるいは自分の身内が事故や病気など受け止めにくい理由で亡くなっているということがあって、神様はなんでこんな理不尽なことをするのか、という、神様に対する誤解もあるかもしれません。それを真っ向から反対して、議論したら、よけいに心を閉ざしてしまいます。時間をかけて相手に寄り添い、少しずつ誤解をとくことが必要かもしれません。
パウロの場合、ローマで会ったユダヤ人たちはどう対応したか、21節。
21 すると、彼らはこう言った。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」

これまでも伝道旅行で一つの町のユダヤ人がパウロに反発し、伝道を妨害しただけでなく、次の町にまでやってきてパウロを悪く伝えて伝道の邪魔をしたことが何度もありました。でも、ローマまでは反対者たちは来ていなかったようです。そして、ここのユダヤ人たちは、噂や悪口ではなく、直接に会って話を聞いて判断しようと考えていた。とても公正な人たちです。もちろん、キリスト教に関する悪い噂は聞いていましたが、それも、自分たちで確かめてから判断する。彼らは、相手を勝手に悪く思って、ハナから反対して聞こうともしない、という人ではない。聞いて冷静に判断してくれる。こういう人たちでしたら、パウロも話がしやすいでしょう。パウロは思う存分語ることができました。
2.不信仰の壁(23〜27節)
二つ目のことに移ります。23節。
23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
誤解がなく、聞く姿勢がある人たちに福音を語るのは楽しかったでしょう。パウロは力いっぱい福音を伝えました。それでも、24節。
24 ある人々は彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
25 こうして、彼らはお互いの意見が一致せずに帰りかけた

どうしても、信じる人と信じない人がいるのです。パウロの話し方が悪かったとか言うことではありません。あとは受け取る側の問題です。私たちも、いくら証しをしても、教会に誘っても、来てくれる人もいれば、やんわりと断る人もいる。それは色々な事情や理由があるのです。決して焦ることも無いし、諦める必要もない。聞いてくれない人、信じてくれない人は、きっと、いつかまた機会があると、神様に委ねることも大切です。
このユダヤ人たちも意見が分かれ、そして信じる人たちだけが残って、信じない人たちはこれで帰る。というふうにはならず、彼らは今度は信じる人と信じない人で議論しながら帰っていったと思われます。パウロの語ったことを信じても、信じたことに基づいて行動するのではなく、議論が面白いから、さらに論じ合う。そして、相手の言うことに納得したら、一度は信じたという人も信じない派に変わるかもしれない。これは本当に信仰ではなく、頭で理解したという程度の「信じた」なのです。
パウロは彼らの不信仰を見抜き、帰りかけた彼らに言いました。25節後半。
パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

このイザヤ書の言葉は新約聖書で何回か引用されている言葉です。イエス様もこの言葉を引用して、頑なに信じようとしないユダヤ人たちに語っています。このイザヤの預言は、一見すると、人々が信じようとしないのは、神様が彼らの心を頑なにしたからだ、と理解しやすいのですが、よくイザヤ書全体を読んでいくと、そういうことではない。神様が彼らの心を頑なにしたために彼らは信じることができない、というのではなく、彼らの不信仰のために、いくら神様が預言者たちを通して語り掛けても、彼らは信じようとしない。不信仰な人は、神様からの語り掛けを聞けば聞くほど、自分の意見に固執して、よけいに信じない心を強めようとする。ですから不信仰な人が信じるようになるのは大変に難しい。それでも神様はあきらめない。頑固な人には普通に語っても聞くはずがない。そこで普通ではない方法で神様は語り掛けて、彼らの心を少しでも開こうとした。「あなたたちが信じないのは、私がそうしたんだ」と言われたら、彼らは自分の考えて信じないと決めていると考えているわけですから、それを神様がしていると言ったら反発する。でも反発であっても対話に乗ってくれたら、話すきっかけができる。これは普通はしない方が良い方法ですが、神様だからこんな裏技のようなやり方で、それでも彼らに語ろうとされるのです。
不信仰の壁は、簡単には崩れないのです。でも、神様なら、聖霊が忍耐強く語り掛けて、いつかはその心を開いてくださる時が来る。パウロも彼らのことは神様に委ね、それでも信じようとする人たちは、これからも受け入れていくのです。
3.制限されても(28〜31節)
最後のことをお話ししたいと思います。結局、これまでの伝道旅行と同じように、不信仰なユダヤ人への伝道はいったん止めて、パウロは異邦人伝道へと切り替えます。もちろん、異邦人でもユダヤ人でも、求めてくる人には福音を伝えることは当然です。30節。
30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

二年間というのはカイザルの前での裁判は順番待ちだったのでしょう。ずいぶん長く待たされた。でも、パウロは待つことに不満はありません。外出して好きな場所に行って語ることはできなくても、向こうから来てくれるのです。反対者たちに囲まれて、あるいは罠にかけられて殺されそうになることもない。監視をしている番兵は、実は保護してくれているのでもある。パウロは制限されて不自由であったのですが、それがパウロを守り、妨げられずに語ることが出来る環境にもなったのです。
私たちも今、コロナ禍にあって、様々な制限を受けています。日常生活も不自由ですが、教会は活動を制限されて、どこの教会も苦労しています。集まるとクラスターを起こしやすい。でも教会は集まるところでもある。とても悩むところです。でも、いくら制限をされても、工夫をすることはできる。インターネットなどの手段もその一つです。ウイルスに対応するために出来ることをすることも工夫です。制限されても、出来ることはある。そこに目を向けるのです。出来ないことだけに目を向けると、諦めになったり、不平が出たりします。出来ることをしっかりと見て、実行するなら、神様が新しい道を開いてくださいます。
最後に「大胆な」という言葉です。最初にお話ししたように、『使徒の働き』の中には何度も「大胆」という言葉が出てきます。そして、それは人間的な大胆さ、これは人間の性格の問題ですが、そうではなくて、そこに聖霊が働いてくださって、勇気を与え、語る言葉を教えてくださり、クリスチャンたちは大胆に証しをし、福音を語ったのです。『使徒の働き』は「聖霊の働き」だとも言われます。最初のころは聖霊の働きは大変に派手と言うか、誰が見ても神様の力が働いていると分かるような分かりやすいやり方だった。でも、段々と奇跡の様なことは減っていきます。それは聖霊の働きが無くなったのではなくて、もう聖霊がおられることは分かってきたので、見えない形で聖霊の働きは続けられているのです。だから、どんなに制限されても、それでダメになるどころか、ますます福音は広まっていくのです。不信仰な人の心を開くのも聖霊の働きです。語る者を大胆にするのも聖霊です。軟禁生活だったパウロの家は、伝道所として活用されました。パウロが出て行けなくても、人々が口コミで新しい人を連れてきてくれる。これも聖霊の働きなのです。
まとめ.
今、私たちが制限されて、だから出来ないと諦めるのではなく、少しでも出来ることをして教会を前進させようとする。どうしても出来ないときには心を合わせて祈る。そこに聖霊は働いてくださるのです。人間の働きが制限されて、自分の力ではどうすることもできないときこそ、神様に信頼するときなのです。
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2021年05月16日

礼拝説教「この人たちにも」使徒の働き28章1〜10節

礼拝説教「この人たちにも」使徒の働き28章1〜10節
『使徒の働き』も最後の章になりました。今回と、来週と二回に分けてお話ししたいと思います。『使徒の働き』の最後ということは、先週まで続いてきました、使徒パウロの宣教の旅も終わりを迎えます。最初は伝道旅行ということで、各地に福音を伝える旅が三回行われました。最後は、囚人となってローマまで護送される旅です。しかし前の章では嵐のために大変な思いをして、ついに船は難破し、ある島に泳ぎ着いた。全員の命は救われましたが、荷物は全て失われ、着いた場所はマルタと呼ばれている島です。イタリヤ半島の南にある小さな島です。大きな町も無ければ、護送をしていたローマの兵隊たちにとってはローマ軍の駐屯地も無いような島です。でも神様はこの島にパウロたちをたどり着かせた。それは、この島の人たちにも神様の恵みが注がれるため、また、この島の人たちを通してパウロたち一行にも神様の恵みを与えるためでした。
今日は「この人たちにも」と題名をつけました。神様は私たちにも恵みを注いでくださると共に、私たちを用いて私たちの周囲の人たちにも恵みを備えていてくださるのです。ただ、それは簡単に、上手くことが進むとは限りません。紆余曲折、様々なことを通して少しずつ福音は伝わって行きます。今日は『使徒の働き』28章の前半から、三つのポイントに分けてメッセージを取り次いでまいります。第一に「誤解されたパウロ」、第二に「尊敬されたパウロ」、そして最後に「出迎えられたパウロ」という順序で進めてまいります。
1.誤解されたパウロ
1節からもう一度読ませていただきます。
1 こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。
2 島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。

島の人たちはローマやギリシャの文化から見れば未開人と言われたかも知れませんが、決して乱暴な人たちではなく、むしろ難民のような一行を暖かく迎えてくれました。火をたいて、というのはスイッチ一つではありません。薪を運び、200人以上が暖まることが出来るようにしてくれた。持て成してくれたのです。ところがパウロも彼らの手伝いをして、木というか柴を火にくべておりますと、マムシ、と新改訳聖書は訳しています。毒蛇という言葉です。日本のマムシとは違う種類かも知れません。その蛇がパウロの手に「とりついた」。他の日本語訳を読み比べますと、かみついた、と訳している聖書もありますし、原文に一番近いのは「絡みついた」という訳です。でも毒蛇が逃げるのではなく絡みつくというのは敵対的な態度でしょうから、いつ噛みついてもおかしくないし、周囲の人たちも噛みついたと思ったでしょう。その光景を見た人たちは、こう考えました。4節。
4 島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。
彼らの宗教のことは良くわかりません。複数の神々を拝んでいたでしょう。その中に「正義の女神」というのがあった。この正義の女神は悪人を罰する神だと考えていたのです。ですからパウロが毒蛇にかまれたのはパウロは人殺しのような極悪人で、女神の罰を受けたと考えたのです。
「正義の女神」を信じて、その裁きがあると考えているということは、彼ら自身も悪事を行ったら神々の罰を受けると考えていた。すなわち悪を行ってはいけない、という考えだったということです。今の時代、悪を行ってもお金や地を利用して罰を免れる人がいたりすると、段々と悪を離れて正しく生きることが馬鹿らしくなってしまう。段々と倫理観が崩れていってしまう風潮があります。まだまだ日本人は正しく生きることの大切さを忘れていないと思いますが、気をつけないと、悪を行っても見つからなければ良いとか、見つかっても色々と手を尽くせば罰を受けない、という考える人が多くなると、怖いと思うのです。
脱線しましたが、この島の人たちは、親切な人たちで、外部から来た人でも困っていたら助ける。また悪いことをする人は神々から罰を受けるのだから、正しく生きることを大切にする。とても素晴らしい文化です。でも、本当の神をまだ知らなかったし、救い主を理解するには時間がかかります。
パウロが蛇を振り捨て、時がたっても毒の害を受けないのを見て、彼らはパウロが極悪人という考えから百八十度、パウロは神だと言い出した、と6節の最後に書かれています。少し凄いことをする人がいると神だ、と言うほど、神は人間と大して違わない、少し人間の上、くらいに思っていたのでしょうか。ですから天地を造られた神、しかも、高いところにおられるお方が低いところで苦しむ人間を救ってくださるために救い主を遣わしてくださったという福音は、まだまだ理解するのは難しかったことでしょう。
ここでパウロは、アテネの町でしたように、ただちに天地創造の神の話を始めなかった。それは、彼らには時間をかけて、少しずつ理解を進める必要を感じたからでしょう。決して、福音を伝えることを諦めたのではありません。この人たち、特に親切に助けてくれた島の人たちにも福音を知って欲しいと思っていた。彼は「人殺しだ」と疑われても、「神だ」と逆の誤解を受けても、すぐには反論しなかった。そして、やがて神様がチャンスを作ってくださいます。
2.尊敬されたパウロ
「神様かも知れない」と思った人たちが島の首長であるポプリオという人に伝えたのでしょう。彼らは首長の家に招かれて、三日間も手厚くもてなされます。すると首長ポプリオの父親が病気で苦しんでいることを知って、パウロはその父のところに行って、手を置いて祈り、神様に癒やしていただきました。すると、その話を伝え聞いた島の人たちは、他の病人も連れてきて、パウロは彼らも癒やしてあげました。かつてイエス様のところにも各地から癒やしを求めて人々が集まってきたことを思い出します。
病気を癒やすことは、直接の救いとは違いますが、癒やされたことから信仰に入った人もいますし、癒やされないけれども信仰を持って天に召された人もいます。でも、この島の人たちのように、未開の島で、恐らく医者も少ない。病気になってもどうすることもできない状況では、神様は癒やしという手段を用いて福音を伝える切り口を作ってくださることもあります。
私が子供のときに交通事故で死にかけたことがあり、そのとき多くの方々が祈ってくださいました。N先生という方も病床で祈って下さったと聞いています。この先生は、戦後の大変な時期に、貧しい人たちに福音を伝えようとしていた。でも貧しい人たちは病院に行くお金もなく、病気で苦しんでいた。先生は神様に必死で祈り、彼らの癒やしを願っていったときに、神様が癒やしの賜物を与えて下さった。そういう先生でした。未開の文化で伝道する宣教師たちも同じ思いかも知れません。この人たちを愛し、どうにか救われて欲しい、そう願っているときに、神様が癒やしという手段を用いて働いてくださったのです。
この結果どうなったか。10節を読みます。
10 それで彼らは、私たちを非常に尊敬し、私たちが出帆するときには、私たちに必要な品々を用意してくれた。
彼らはパウロを尊敬しました。単なる遭難者としてではなく、自分たちのために尽くしてくれる人とわかり、尊敬した。「私たちを尊敬し」と書かれていますから、尊敬を受けたのはパウロだけではない。恐らくパウロに同行していた仲間たちも、パウロの手伝いをしたので、同じように尊敬されたのでしょう。「私たち」の中には『使徒の働き』の著者であるルカも含まれています。ルカは医者でした。でも嵐のために医者としての道具やクスリは失っていたでしょう。でも出来ることをしたときに、ルカも尊敬され、信頼されたのです。
この尊敬や信頼によって関係が建てあげられていったとき、福音を語っても受け止めてもらえます。伝道の土台は信頼関係です。信頼していない人が良さげなことを語っても信じてもらえなかったり、欺そうとしていると受け止められるかも知れません。伝道の前に信頼される、尊敬される、そのような関係を築いていっていただくことが大切です。
島の人たちはパウロたちを尊敬しただけでなく、やがて彼らがローマへと出発するときが来たら、旅の準備を手伝い、それは間接的にパウロの福音宣教の旅を手伝うことでもあったのです。宣教師や伝道者は、時にはまだクリスチャンになっていなくても、良い信頼関係を結び、尊敬をしてくださる人たちが協力してくださるという体験をすることがあります。
今、私たちは東日本大震災以来の大変な時代に置かれています。あの大震災の時にも、多くの方がボランティア活動で被災した方々に手をさしのべましたが、その中にクリスチャンも多くいて、良い証しを立てていました。中には困ったクリスチャンたちもいて、被災して苦しんでいる人たちに、これは神の裁きだから、キリストを信じなければならないと上から目線で伝道しようとして失敗した。いいえ、悪い印象を与えてしまった人たちがいました。でも他のクリスチャンたちは、まず困っている人を助ける、いいえ、助けるなんて言い方も上からです。その方たちに仕える僕の姿となっていったときに、その姿が周りの方たちからの尊敬を生み出していき、やがて教会が地域に認められるようになっていった、という証しがあります。
今、私たちも、自分自身がコロナ禍で苦難を体験していますが、その中で良い証しを立てていくなら、それがクリスチャンが受け入れられ、伝道の第一歩となることを憶えたいと思います。
3.出迎えられたパウロ
最後に11節から15節のところに目を向けたいと思います。パウロはまだこの島で人々と関わりたいという思いもあったかもしれませんが、今の彼の立場はローマへと護送されている囚人ですから、時が来て百人隊長が出発するときには従わなければなりません。でも、クリスチャンとの良い関係を持った島の人たちは、やがて他の伝道者が遣わされたなら、きっと福音を信じる様になるでしょう。パウロは自分が最後まで行うのではなく、後の人に、そして神様に委ねて、島を出発します。
船での移動です。恐らくいくつかの船を乗り継ぐので、途中で数日の滞在をしながら、ポテポリという港町に到着し、そこからは陸路を進みます。進むと行っても、行軍の準備がありますので、ポテポリの町で七日間、滞在する。隊長はパウロを信頼していましたので、兄弟たち、つまり、その町のクリスチャンたちのところで過ごすことを許可した。たぶん、パウロの体調を整えて、陸路に備えたのだと思います。14節。
14 ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した。
15 私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。

七日間の間に、ローマに行く人に言付けて、ローマのクリスチャンたちにもパウロが間もなくそちらに着くことを知らせたのでしょう。するとある兄弟たちは、ローマからわざわざ出迎えるために、途中の町まで来てくれたのです。そして、神様がここまで守ってくださったこと、またパウロとお互いに会えたことを喜び、神様に感謝し、また出迎えてくれた人たちの暖かさに勇気づけられた。実際は、護送されている最中でローマで裁判を受けるのですが、心配もあったかも知れませんが、勇気づけられた。これも神様からの恵みです。
マルタ島の人たちの暖かいもてなしも励ましとなりましたが、この兄弟たちとの、主にある交わり。イエス様を中心とした交わりのことを聖徒の交わりと言います。この交わりは何よりもパウロを力づけたのです。彼らだけでない。各地でパウロを迎えてくれた兄弟たちの存在はパウロを力づけたと同時に、彼の伝道の働きを支えた。その意味で、この出迎えてくれた兄弟たちも、パウロの宣教を共に担ったのです。
まとめ.
今、私たち自身も苦しい時、不便な生活をしているかもしれませんが、様々な事情で教会に行くことができない方々、病院やホームや自宅で過ごさなければならない方々もいらっしゃいます。直接に会うことは出来なくても、見えないところで祈り、また出来ること、様々な手段を用いて語りかけるときに、その方々を力づけることができます。それこそが聖徒の交わりなのです。そして、この交わりは、まだクリスチャンになっておられない方々にも開かれています。私たちが、苦難の中にいる方々に手をさしのべ、僕となって仕え、良い証しを立てるとき、それも教会の宣教の一端を担っているのです。私のそばにいる、「この人たちにも」神様の恵みが注がれるように祈りたいと思います。
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