2021年09月26日

礼拝説教「天から来て天へ」詩篇57:7〜11(詩篇57篇)

礼拝説教「天から来て天へ」詩篇57:7〜11(詩篇57篇)
今日は午後から教会の墓苑に行き、墓前礼拝を行います。コロナ禍にあって制限もありますが、大切なときとして続けられてきました。家族や友人など、親しい方々を想い、天国に目を向けるひと時です。今日は墓前礼拝に行けない方も、同じ思いで天に目を向けていただければ幸いです。それは、私たちは心が下を向きがちだからです。毎日の出来事にだけ目が向いてしまうなら、神様への信仰まで力を失ってしまいます。旧約聖書時代の信仰者たちは、苦難のただ中で神様に目を向けて祈った。それが詩篇です。
今日は詩篇57篇から、「天から来て天へ」と題してメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントに分けてお話を進めてまいります。まず第一に「天からの送り」ということ、第二に「天の上の神」、そして第三に「天へ目を向ける」ということをお話ししたいと思います。
1.天からの送り(1〜3節)
1節を読ませていただきます。
1 神よ。私を憐れんでください。私を憐れんでください。私の魂はあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
最初に「私を憐れんでください」と二回繰り返しています。旧約聖書では、重要なことは二回言います。どうして「憐れんでください」が重要なのか。それは、後半で「滅びが過ぎ去るまで」と語っているように、危険な状態だからです。助けが必要であり、神様の憐れみにすがるしかないほどに絶体絶命だからです。
「身を避けます」という言葉も二回使われています。現代的な言葉を使うなら、避難所ということです。地震や台風など、日本は災害の多い国です。だから慣れてしまったのか、多少のことなら家でテレビのニュースを見るくらいです。でも、実際に危機が迫り、例えば川が氾濫して水が迫っている、例えば地震で建物が崩壊する。そうなったら自宅では危険です。そのときは避難所で身をひそめるしかない。それが危機的な状況です。物理的な危険なら避難所があるでしょう。でも心が悩みや苦しみ、不安で押しつぶされそうな危機にはどうしたらよいでしょうか。命に危険が迫るとき、どうするでしょうか。私たちは、神様に祈ります。神様こそが私たちの避難所、身を避けるところだからです。「御翼の陰に身を避けます」とは、母鳥がヒナを翼で覆って守るイメージです。祈るときに神様が私たちの心、魂を覆ってくださるのです。その祈りが2節の「私はいと高き方、神に呼ばわります」ということです。そして、祈りの内容が3節です。
3 神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。神は恵みとまことを送られるのです。
「天からの送り」というのは、日本語としてはあまり使わない言い方です。わかりやすくするためには、天から助けを送る、と意訳すると良いのですが、原文でも「天から遣わす」と書いているだけで、何を送るかが書かれていない。その後、「踏みつける者ども」と書かれていますが、これは「追い迫る者」と訳すこともできます。敵が負い迫っているときに、ゆっくりと考えてはいられません。正しい文章を作ることは無理です。何を天から送って欲しいか、まだ決まらないうちに、神様、なんでも良いですから、とにかく天から送ってください。必死なのです。
3節の下に「セラ」という言葉があります。専門的には、まだ意味がはっきりしていない言葉で、何かの記号のようなものではないか。ある人は、ここで黙想すると良い、と教えておられます。もし、追い迫る敵がいる中で必死で祈っていた人が、ふと心を落ち着かせて神様に祈るとき、何を送って欲しいのかが明確になります。それが最後の行に書かれている、「神は恵みとまことを送られるのです」ということです。でも、敵が迫っているのだから、どこかに逃げたら良いのでしょうか。
旧約聖書に出てくるダビデは、サウル王に追われ、あるとき洞穴に隠れます。ところが、その洞穴にサウルが入ってきた。絶体絶命の危機です。今度は部下が「こっそりサウルを殺しましょうか」とダビデに進言します。でもダビデは神様から油を注がれて王となったサウルを殺すことは、やがて自分が王になったときも同じように暗殺を企てる者が起きるようになる。剣で殺す者は、いつか自分も剣で殺されることになる。ダビデは部下の進言を退け、サウルを殺しませんでした。
本当に必要なのは、敵がいなくなること、問題が解決すること以上に、神様の恵みとまこと、すなわち神の愛と真実が示されることです。神の愛があらわされるなら、必ず神様は私を救ってくださいます。神様の真実、神様の義が明らかにされるなら、悪は裁かれ、正しい状態になります。危機が迫る中で、この人は本当に大切なものに気が付かされたのです。
最初は誰でも、何かの助けを求めて神様のところに来ます。でも、自分の罪を知り、神様からの救いが必要であることを学んだとき、神様が私たちに与えてくださった救い主キリストと出会うのです。イエス様の弟子のヨハネは、ヨハネの福音書の冒頭でイエス様のことを語り、このお方は恵みとまとことに満ちておられた、と証ししています。イエス様こそが、天から送られて来た救い主、天からの恵みとまこと、なのです。ですから、私たちもこの詩人の様な危機が迫ることがあっても、また苦難に満ちた日々であっても、天から来てくださった救い主、恵みとまことに満ちておられるイエス・キリストを信じるとき、どんな状況にいても救いがあるのです。
2.天の上の神(4〜6節)
二つ目のポイントに移ります。祈ったらすぐに解決するのでしたら楽ですが、実際は神様の時がありますから、待たなければならないことが多い。ですから祈ってもなかなか答えがなく、厳しい現状が続きます。周りは危険で囲まれているままです。この詩人も神様を信じて助けを祈ったけれども、まだ敵が迫ってきている。四面楚歌、でしょうか。いいえ、上が開いています。
4節は、敵を獅子、すなわちライオンという猛獣に例えて、自分は恐ろしい者たちの真ん中で動くことができずに横たわっている。無防備な姿です。「彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です」と書かれているのは、実際の武器による攻撃ではなく、言葉による攻撃、言葉の暴力や、言葉による罠だったのかも知れません。それでも彼は天を見上げて神様に祈るのです。ちょうど、新約聖書のステパノが、自分に敵が殺到し、石を投げつけて殺そうとしているときに、天を見上げて祈り、イエス様の御姿を見たように、この詩人も祈るのです。5節。
5 神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
自分は敵に取り囲まれるような絶望的な状態なのに、どうして神様の栄光を祈っているのでしょうか。神様は遠く離れて天の上にいるというのでしょうか。いいえ、天の上に神様がいてくださることが大切なのです。天から助けを送ってくださる、その神様が、どんなときでも必ず天にいてくださり、苦難の中にいる自分の祈りを必ず聞いてくださる。そこに安心があるのです。神様が神様として天にいてくださり、あがめられるべきお方が全世界であがめられる。「主の祈り」で、「御名があがめられますように。御国が来ますように」と祈るのも、この5節と同じです。
この詩人は天におられる神様を見上げたとき、この神様が必ずすべてを正してくださる、と信頼します。それが6節です。
6 彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。
前半は、敵が卑怯にも罠を仕掛け、そのために心がうなだれています。後半では、敵は穴を掘ります。穴は、罠かもしれないし、墓穴かもしれない。でも、その穴に自分が落ちてしまう。こうして敵は滅んでしまう。悪を行う者が自分の悪によって滅びるというのは、旧約聖書の中では神の裁きのひとつです。この詩人は、敵のことは、たとえ彼らが悪どいことを仕掛けてきても、天の神様が正しい裁きを行ってくださる。そのことを信じて、待ち望むことができるようになったのです。
天の上に神様がいてくださる。だから四面楚歌でも私たちは絶望しない。嵐の中でも、主を待ち望むのです。今、聖霊なるお方が私たちの心を助けてくださり、天に目を向けるように導こうとしておられます。ですから私たちは天に目を向け、神様に祈り、そして神様をあがめて賛美するのです。それが次のポイントです。
3.天へ目を向ける(7〜11節)
7節、8節を見ますと、ここでも二回同じ言葉を繰り返しています。
7 神よ。私の心は揺るぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌います。
8 私のたましいよ。目を覚ませ。十弦の琴よ。竪琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。

「揺るぎません」という言葉は、ほかの翻訳では「定まりました」となっています。堅く定まったから揺るがないわけです。この二回繰り返しているのは、堅い決心です。彼は神様を賛美することを固く決心した。それは賛美できないような苦難の中にいたからです。普通なら、もう神様に心を向けることなんて出来ない。でも、彼は、それでも神様に心を向けて賛美し祈ることを決心したのです。
「目を覚ませ」も二回出ていきます。私の魂よ、と自分の心に呼び掛けています。私たちの心は沈みそうになります。目が下を向いてしまいがちです。天の上のことに心を向けるのではなく、地上のことにばかり目が向いて、悩むばかりです。だから、この詩人は自分に目を覚ませと呼び掛けるのです。千代崎備道よ、目を覚ませ、心をしっかりとせよ、神様が天にいて祈るのを待っているぞ、と。皆さんはいかがでしょうか。目がどこに向いているでしょうか。
この詩人は心の目を天に向けて祈ります。賛美します。感謝しています。それが9節で、次の10節を最後に読みたいと思います。
10 あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
ここに、恵みとまこと、が出てきます。最初のほうで、神様が天から送ってくださるように祈った恵みとまことは、今や天にまで及ぶほどに大きいのです。天も雲も、人間の力では遠く及ばない、という意味です。人間の考えでは及ばないほどです。私たちは、自分で限界を作って、それを神様にまで押し付けてしまうのです。神様だって、この問題はどうすることもできっこない。祈っても無駄だ。そうではありません。神様のご愛、神様の真実は無限です。限りがないのです。祝祷の最後に「世よ限りなく」という言葉を使いますが、神様のご愛はいつまでも限りなく豊かにあるように、と祈るのです。皆さんは心の中でアーメンと答える。アーメンとは真実です、その通りです、という意味です。神様の恵みは限りなく豊かだと、私たちは告白するのです。
私たちはこの神様に信頼します。天から恵みとまことであるお方を送って私たちを救ってくださるお方。周りが困難に囲まれているときでも天にいて希望を与えてくださるお方。そして限りない恵みを注いでくださるお方。この神様に目を向けるとき、悲しみの中にいる人に天国の希望が与えられます。苦難の中で悩む人は、悩みから信仰へと心が変えられることができるのです。
まとめ.
昨年来、コロナ禍が続く中、健康的にも経済的にも、多くの人は閉塞感のなかに閉じ込められています。でも、御言葉により、この神様を知って、天に目を向けて祈るなら、やがて賛美と感謝に変えられていくことを、詩篇は私たちに語っています。私たちも、この詩人とともに、神様に祈る者となりましょう。
11 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2021年09月21日

お詫びと再会

二週間ほど掲載が滞っていました。夏休みの後遺症かもしれませんが、オンラインに自動保存していた原稿が文字化けしていたためブログにコピペできませんでした。メールに添付した原稿を発見してアップしましたので、掲載日と実際に投稿した日付がズレてしまいました。慌てていると思わぬ失敗をします。反省。
posted by ちよざき at 16:25| Comment(0) | 日記

2021年09月19日

礼拝説教「恐れずに信頼する」詩篇56:8〜13(詩篇56篇)

礼拝説教「恐れずに信頼する」詩篇56:8〜13(詩篇56篇)
誰にでも、恐れを抱くことがあります。同じような状況でも、人によって反応が違うということはあるかもしれません。恐れを憶えて、どうして良いか分からなくなる人。恐れまでは行かなくても不安を感じる人。自分は恐れていないと強がりつつ、心の奥底では怯えている人。でも、自分の力ではどうすることも出来ないほどの危険に脅かされるなら、恐れを感じてしまうのは無理のないことです。旧約聖書のダビデは、巨人ゴリアテに立ち向かうなど、勇気のある人でした。でもサウル王に命を狙われて逃げている最中、一度、敵国に亡命しようとしたことがありました。国内にいたらいつかはサウルに捕まって殺される。敵側に寝返ったら、有能な兵士であったダビデを家来に出来るのですから、きっと喜んで受け入れてくれる。ところがガザという町にいたペリシテ人の王は、まだダビデとサウルが仲違いをしていることを知らなかったのでしょう。ダビデがスパイとして来たのかもしれない。捕らえて殺してしまえば、イスラエルの有力な軍人がいなくなって自分たちに有利である。そう考えてダビデを捕らえようとしたのです。周りを兵士たちに囲まれ、逃げようがありません。ダビデは恐れを感じた。彼は、助かるために、気が触れたフリをして別人に見せかけたのでした。まさに恐怖の時だった。その後も、何度か絶体絶命の危機があり、勇敢なダビデですが、恐れを感じることがあったのです。
私たちは今、見えないウイルスがどこから忍び込んでくるか分からない。その意味では恐れや不安を感じるのは間違った反応ではありません。でも、その恐れの中でどのように神様を信じるかが大切です。
今朝は、詩篇56篇を通して、「恐れずに信頼する」ということを、いつものように三つのポイントでメッセージを取り次がせていただきます。第一に「恐れと痛みと涙」ということ、第二に「信頼の告白」、そして第三に「賛美と証し」という順序で進めてまいります。
1.恐れと痛みと涙
この詩篇の中には、教会の聖書(新改訳第三版)ですと、三回、「恐れ」という言葉が出てきます。3節に「恐れのある日」、4節に「恐れません」、11節にも「恐れません」と書かれています。「恐れません」、と言うのですから恐れていないのか、と言いますと、もし本当に恐れが無いのでしたら、わざわざ「恐れていません」と言うことも無いでしょう。恐れを感じているからこそ、「私は恐れない」と自分を奮い立たせることがあります。でも、それが空元気だったり、本当は危機的状況なのに、それを見るのを怖がって認めようとしない、いわゆる「正常化バイアス」ですと、正しい判断ができなくなってしまいます。正しく恐れることは必要です。でも、三回の「恐れ」という言葉。旧約聖書では大事なことは二回、とても重要なことは三回、言葉を重ねますから、やはり、この詩を書いた詩人は恐れの中にいたと言えます。
どうして恐れたのか。1節もですが、2節。
2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
多くの敵がいて、「誇らしげに」というのは必ず勝てると考えて戦いを挑んでくる。四面楚歌です。そして、「一日中、私を踏みつけています」。実際に足で踏みつけられているのかは分かりません。何か抽象的なことなのかもしれません。でも一日中痛め付けられるなら、それは恐怖です。少しなら忍耐します。敵が多くなければ反撃もします。でも、殺されそうな状況が、一日中です。剣なら一瞬で命が終わるかもしれませんが、踏みつけられる、それは痛みを受け続け、戦いにもならないと辱められている状態です。それが一日中続くのです。
さらに5節では「痛め付けられ」、とくに「私のことばを痛めつけ」と書かれています。言葉が痛め付けられるというのも、どういう意味か、様々な解釈があります。いくら言葉で相手を説得しようとしても、その言葉を否定され、何を語っても、よけいに痛め付けられる。そして6節には「待ち伏せ」という言葉もあります。陰に隠れて急に害を及ぼすかもしれない。後ろから追いかけてきて、追いつかれたら命を取られる。そんな状況が続いているのです。
8節には、少し詩的な表現が語られています。
8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
痛みと恐れの中で涙する。心の中で涙を流しているのかもしれません。それが皮袋に蓄えられるほどの涙です。それだけの悲しみを、神様の書の中に記録されていないのでしょうか。
私たちが悩み苦しむとき、また悲しみの中で、誰も自分を理解してくれない、という孤独感も、その痛み悲しみを募らせます。誰かが分かってくれるなら、少し悲しみも和らぎますが、あまりに痛みや悲しみが大きいと、誰も同じ痛みは理解出来ない。少なくとも、自分がそう思って、「どうせ誰も分かってくれない」と自己憐憫に陥ってしまうこともあります。でも、どんな心の痛みや恐れであっても、神様は全てを知っておられ、記録して、憶えておられるのです。神様だけは、私のことを分かっていてくださる。
そのことを、私たちに示してくださるため、神様は独り子であるイエス様を地上に送り、人間の生活の中で多くの人の痛みや悲しみを味わわせてくださったのです。人間として歩まれたイエス・キリストは、時には心を悩ませ、時には悲しむ者と共に涙を流し、時には、いいえ特に十字架では痛みを背負ってくださったのです。それは、私の恐れや痛みを理解してくださるお方であることを証しするためです。
今、教会に来ることができずに、寂しく過ごしておられる方がおられ、また痛みに耐えておられる方もいらっしゃいます。不安な日々を過ごしておられる方も少なくありません。でも、神様はその人とも共にいてくださる。イエス様は、その痛みや恐れを分かってくださるお方なのです。
2.信頼の告白
完全な信仰、全き信頼は、恐れすら感じないのかもしれません。でも、私たちは恐れることがある。それでも、恐れつつ神様を信頼することができるのです。この詩篇は、恐れの日に神様を信頼すると告白しているのです。4節後半。
4 私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
肉なる者とは、神ではない、単なる人間です。人間は体を傷つけることはできるかもしれないが、魂を滅ぼすことはできない。この人は、痛め付けられながら、それ以上のことは敵は何も出来ない、と言うことができた。それは神様を信頼することに決めたからです。もちろん、一日中踏みつけているような残虐な者たち、心の中で災いを加えることばかり考えているような悪意のある者。待ち伏せや後を追いかけてくるような卑怯な者たち。そのような不法を行っている者たちに関して、そのままで良いと言うのではありません。もし彼らのしていることが神様に背くような罪であるなら、神様はいつかはその不法を裁くはずだ。でも、彼はそれを神様に委ねているのです。いつ、どのように神様が彼らに何をするか、それは神様のお考えです。一番、大切なことは、9節。
9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
このことが分かっていたら、恐れの日であっても、いえ、実際に恐れを感じてしまうとしても、そのままではなく、神様を信頼して立ち上がることができるのです。その信仰があるからこそ、この人は神様に呼ばわって祈り、また、その祈りを神様が聞いてくださり、一番の危機から救ってくださった。痛みを受けたけれど、命を助けてくださった。私たちは、いつかは肉体の命は終わるときが来ますが、それでも永遠の命は失われることはなく、天国に入れていただけるのです。
この信仰。私たちは頭では分かっている。知識としては知っている。でも、私たちの信仰が、恐れの日になったとき、この信仰に立つことが出来るでしょうか。
3.賛美と証し
やはり何回も繰り返されている言葉として、4節前半。
4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。
10節にも
10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
神様を褒め称えるのは当然のことでしょう。この詩人は「みことばをほめたえる」と三回も語ります。自分の言葉は痛め付けられて、いくら語ってもダメかもしれません。でも、神様のお言葉は、そうではない。例え御言葉を踏みつける者がいても、神の言葉は生きて働くのです。いつか、御言葉が実現し、御言葉通りに私の身になっていくのです。ですから、詩人は「みことばをほめたたえる」、その言葉を語ってくださった神様を賛美するのです。ここに秘訣があると思うのです。
聖書の言葉は、私たちの心に蓄えられ、恐れの日に、私に聖霊が語ってくださる。その時、私たちの信仰が奮い立たせられるのです。人間の言葉、誰かの励ましも、力づけてくれるでしょう。でも人間ではどうすることができない時でも、神様の言葉は不思議なように私たちの中に働くのです。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいをおそれません。あなたが私とともにおられますから」。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」。有名な詩篇23篇の言葉です。暗記している方もおられるでしょう。この言葉を聖霊が思い起こさせてくださるとき、それが私たちに神様への信頼を取り戻させ、沈み込んでいた信仰が奮い立たされる。そのような体験をしたこともあるでしょう。神様は、みことばによって、私たちを励まし、力を与えることが出来るお方なのです。
今年の教会の標語、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」、です。今年は、本当に厳しい年です。まだ暫くは続くかもしれません。だからこそ、この御言葉が私たちに与えられているのです。神様の約束の御言葉を信じて、恐れの日にも、恐れつつ神様を信じていこうではありませんか。
まとめ.
詩人が「一日中」と語ったように、長い間、ストレスの溜まる生活、いつも不安を思い出す、そのような毎日は、私たちの心を、自分で思っている以上に蝕んでいるかもしれません。少し状況が良くなり、でもまた、ぶり返す。その連続の中で、倒れそうになるときもあるでしょう。でも、神様は私たちにいつも御言葉を語りかけ、励まし、強めてくださる。今は、神様への信頼が成長するときでもあるのです。私たちもみことばをほめたたえ、いつも御言葉を聞いて歩む者となりましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教