2021年10月24日

10月24日礼拝説教「御国が来ますように」(詩篇61:1〜8)

10月24日礼拝説教「御国が来ますように」(詩篇61:1〜8)
今、礼拝では毎週、詩篇を開いていますが、詩篇には昔の信仰者たちの賛美と祈りが書かれています。時代は変わっても、祈る思いには、何か通じるものがあることを感じます。祈りのスタイルは、時代や文化によって様々です。宗教や民族の違いもあります。イスラム教の方たちが、地面にひれ伏して祈る姿は有名です。新約聖書の時代にも、立ち上がって手を掲げて、天を仰いで祈る人もいました。静かに祈る人もいれば、声を上げて叫ぶようにして祈る人もいます。池の上教会が属しています日本ホーリネス教団も、50年前は大きな集会に行きますと、大声で祈る人が結構いました。最近は大人しくなったのかもしれません。実際に叫ぶことはないとしても、神様に対して叫ぶような思いで祈る、必死で叫び求める、ということはあるかもしれません。それは、どうしても何かをしてほしい、というときでしょう。何かの苦しみの中にいる人が、その苦しみから救って欲しいと叫び求めることは、自然な心だと思います。何かが欲しい、自分の願いをかなえて欲しい、という場合もあるでしょう。もちろん、何を求めるかが問われます。
先ほど朗読していただいた詩篇61篇は、比較的短めの詩篇ですが、1節から神様に叫びつつ祈っています。この詩篇を通して、私たちは何を叫び求めるのか、考えてまいります。いつものように三つのポイントに分けて、第一に「高き岩の救い」、二番目に「神がくださる地」、そして最後に「王の治める国」という順序で進めてまいります。
1.高き岩の救い(1〜4節)
この詩人がどんな困難の中にいたのかは、詳しくは書かれていません。3節に「敵」という言葉が出てきますので、何らかの敵に苦しめられていたらしい。でも、具体的に誰にどんなことをされたのかはわかりません。当時のことですから、文字通り、武器を持った敵がいたのかもしれません。若き日のダビデは、羊飼いをしていて獣と戦ったと語っていますから、敵とは猛獣かもしれない。日本では、武器を持った敵も獣も、ほとんど遭遇することはありませんが、災害の多い国です。台風や地震で、例えば洪水が押し寄せてくる。そんなとき、高いところに避難するよりほか、助かる道は無い。この詩人も、敵に囲まれたとき、高い岩の上に逃げた経験があったのでしょう。1節からもう一度読みます。
1 神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

彼が叫び求めた祈りは、高い岩の上に導いてください、ということでした。どんな濁流でも、また猛獣でも、高い岩の上に登れば、必ず助かる。相手が人間の敵ですと、自分が昇ることができる岩なら、敵もよじ登ってくるかもしれません。ですから彼は、「私の及びがたいほど高い岩の上」と語っているのです。自分も登ることが難しいほどに高い、いいえ、人間の力では及ばない高さなのです。そこに登らせてくださるのは、神様以外にはできない。それほどに高い岩なのです。
神様の力で、人間には及ばないほどの助けが与えられるなら、どんな困難があっても、それに打ち勝つことができるでしょう。例えば病気という困難の中にいるときに神様の奇跡によって癒される。新約聖書を読みますと、生まれつき目が見ない人が見えるようになった。一度も歩いたことがない人の足が強められて立ち上がることができるようになり、歩き出し、跳ね回り、踊りだした。これまでの彼には考えられないことです。神様には、そうすることができる力があることを私たちは信じています。でも必ず、いつでも、病気が癒されるか、また、どのように神様の御手が働かれるかは、これも人間にはわかりません。パウロは、彼自身も多くの人を癒したのですが、自分のことで、彼には肉体にとげがある、と語っていますが、おそらく目の病気があっただろうと学者たちは考えています。その病気が癒されたなら、もっとキリストを伝えることができる、だから癒してください、とパウロは必死に祈った。けれども、彼は癒されない。そのとき、「弱さの中に恵みがある」と彼は教えられた。確かに、たとえ病が癒されないとしても、その中で神様の恵みを知ることもあります。でも、できるなら癒されて元気になりたいのが正直な思いです。
他にも、仕事の困難、人間関係の悩み、など、様々な苦難に囲まれることがあります。人とぶつかり、周囲から批判され、どうしようもなくなったとき、詩篇の中には鳥のように山に逃げたい、という祈りもあります。高い岩の上に登ったら、誰ともぶつかることはなくなる。自分に敵対する人が遠くに行ったら良いのに。仕事が大成功して、大儲けが出来たら。様々な「高い岩」を私たちは願います。でも、ずっと高いところにいたままでは決してないのです。いつかはまた地上に戻らなければならないときが来る。そして、また、新たな困難が来るのです。
詩人は気が付きます。3節。
3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。
4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。

高い岩以上に確かな救いは、神様ご自身がともにいてくださることです。どれほど敵が押し寄せてきても、神様が共にいてくださり、私を翼の陰に守ってくださる。敵がいなくなるのではない、押し寄せる大水が消え去るのではない。でも神様がいてくださる。それが、「神はわれらの避け所」なのです。旧約時代の人々にとって、神様が共にいてくださり、イスラエルの真ん中に住んでくださることの象徴が幕屋、後の神殿でした。神の幕屋に住むことこそが心からの願いとなったのです。
私たちは何を求めましょうか。今ある問題が解決する以上に、神様が私の味方となってともにいてくださる。決して私を見捨てない。これこそが私たちの第一の願いなのです。
2.神がくださる地(3〜5節)
さて、高い岩にせよ、神の幕屋に住むことにせよ、結局は、いつかはそこから離れなければならないのなら、同じことです。でも、神様が共にいてくださり、助けてくださることを、苦難の中にいる神の民は求めて祈りました。その祈りに応えて、神様がくださったのが、5節です。
5 まことに、神よ。あなたは私の誓いを聞き入れ、御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。
誓いとは、詩篇の時代には祈りの最後に誓いを立てましたので、祈りのことを誓いと言っています。また、祈る彼自身も、「御名を恐れる」と書かれているように、神様を畏れ敬う人でしたから、自分勝手な祈りをすることもない。ですから神様は「受け継ぐ地を私にくださいました」。受け継ぐ地は、古い口語訳聖書では「嗣業」という言い方をしました。嗣業とは神様がくださった土地です。地とは住む場所、働く場所、すなわち普段の生活の場所です。神様は彼らに土地を与えてくださった。それが出エジプト記以来、イスラエルにとって大切な恵みでした。
では、自分の受け継ぐ地に戻ったら、神様から離れ、高い岩ではなく人の多い平地にいることになるのでしょうか。この受け継ぐ地は、神様が彼らに与えた土地ですが、本当は神様のものです。それを預かっているのですから大切にしなければならない。大切なことは、嗣業も神様の土地だということです。
ソロモン王が神殿を立てたときの祈りが列王記や歴代誌に書かれていますが、その中でソロモンは、この神殿でさえ神様をお入れすることはできない。天地でさえ神様には小さすぎる。それほど大いなるお方です。ですから、神様から預かった地に住むとき、そこは神様が共におられる場所だと知るのです。住んでいる土地の中心にある場所が神殿、神の幕屋です。ですから、私の生活の中心も神様だということを表すためにも、私たちは一週間の初めの日に神様の前に進み出て礼拝をささげ、また日曜日だけでなく、いつでも、共にいてくださる神様に悩み苦しみを打ち明けて祈るのです。これが、私たちの嗣業です。
私たちのためには、受け継ぐ地として、神様は教会を与えてくださいました。教会とは、建物ではありません。教会堂を中心とする生活のすべてです。主にある兄弟姉妹との交わり、聖徒の交わりも教会です。それはクリスチャンでない人を排斥するのではなく、やがてその人たちも救われて神の民となることを祈りつつ待つ。ですから、その人たちも教会の一部となっていく。そして、離れていても、兄弟姉妹とは祈りによってつながっています。現代は便利なことに、直接は会えないときでも、メールなどの新しい方法でつながって言葉をやり取りすることもできる。顔を見ることもできる。コロナ禍にあって、祈りや、また礼拝でさえ、離れていることで妨げられることはないことを私たちは学びました。この交わり、教会のつながり、それは神様とのつながりに結びついている。ですから、どんな状況でも、いつでも、私たちは教会につながり、神様と共に住むことができるのです。
もちろん、だからと言って、もう教会堂に来る必要がなくなるのではありません。教会での礼拝、聖徒の交わりは、生活の中心です。そこがぼやけてしまうと、日曜日だけの信仰となってしまったり、やむを得ず教会堂に行くことができないことを気に病んでしまう。いいえ、自分の生活の中心は神様1であり、神様との交わりであり、教会と兄弟姉妹との交わりであることを忘れないなら、神様が最善を行ってくださる、いや、もうしていてくださるのです。
イスラエルの歴史を見ると、この中心が崩れ、礼拝が偶像礼拝になってしまい、祈りがご利益だけを求めるようになり、せっかくの嗣業での祝福が失われてしまったのです。ただ、信仰者たちは、神様を畏れ敬って生活を続け、礼拝を心から求めた。それが詩篇の祈りなのです。
3.王の治める国(6〜7節)
さて、詩篇61篇にもどり、6節を読みます。
6 どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。
7 彼が、神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。

ここで、突然に、王様のための祈りが始まります。でも、当時の人々にとっては、神様が遣わしてくださったのが王様ですから、神様への祈りの中で王様のことを祈るのは、自然なことでした。王様が神様に従う正しい王であるなら、受け継いだ地での生活も守られます。中心である信仰生活、神殿や祈りを守るのも王様の働きです。王様が神様に逆らう悪い王になったとき、祝福が失われ、神殿は破壊され、人々は捕囚に連れていかれてしまった。もう信仰の中心は壊れてしまったのです。そうならないために、良い王様の治世が長く続くことを祈るのです。長寿だけでなく、7節では、王座、すなわち治世が続くことを願い、その王様に「恵みとまこと」を授けてください、と祈っています。
牧師は王様ではありませんが、でも信徒の方々が牧師のために祈ってくださっているから、神様がその働きを続けることができるのです。一番、王様に必要なのは「恵みとまこと」だと語っています。恵み、すなわち、神様の無償の愛が注がれ、まこと、つまり神様の真実と正義によって王様が国を正しく治めることが祈られているのです。しかし、人間の王様には限界がある。失敗をしてしまうこともあり、不信仰になって神様に背き、国を滅びに向かわせてしまう。でも、イスラエルには王の王である神様がおられる。
私たちには、イエス様がおられます。教会の主であり頭であるお方、それがキリストです。このお方は最初から「恵みとまことに満ちていた」とヨハネの福音書に書かれています。今もイエス様は教会の王として、御言葉によって私たちを救いに導き、道を間違いそうになったときにも、御言葉によって正し、私たちを治めていてくださるのです。そして御言葉によって私たちを日々養い、高き岩である天国にまで導いていてくださるのです。そして御言葉が成就して、神様の御心がなされるとき、神様は人間が及ばないほどのことをしてくださる。私たちは救いを求めます。罪からの救いが一番重要ですが、ほかにも様々な助けを求めます。でも、何かから助けてくださることや、私が罪から救われることだけでとどまるのではありません。さらに豊かに祝福を注ぎ、私たちもアブラハムのように祝福の基となる。そのとき、私を通して主の栄光が明らかにされる。いつかそうなるではなく、今も、そして日々、主が王として教会を治め、私を治め、世界を支配してくださる、世界の主となってくださることを願うのです。
まとめ.
主の祈りの中で、「御国が来ますように」と祈ります。それは神の国が実現して、神様が王として支配されることです。そして、天でもそうであるように、地でも、御心がなされる。この祈りを日々続け、何かの助けや救いや祝福以上に、キリストの御国が来ますように、特に私自身がイエス様に従うものとなりますように、と祈り続けましょう。詩人が叫ぶように祈ったように、私たちも必死の祈りによって、「御国が来ますように」と祈りましょう。
タグ:詩篇
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2021年10月17日

10月17日礼拝説教「敗北の日にも」詩篇60:1〜4(60篇)

10月17日礼拝説教「敗北の日にも」詩篇60:1〜4(60篇)
人生には、物事が上手くいくときと、そうではない時があります。努力が実を結ぶと嬉しいですが、いくら頑張っても結果がでないでガッカリします。スポーツなど、勝負をする人たちは、連戦連勝のときだけでなく、敗北する日もある。でも、敗北をしたときに、そこから何かを学ぶことで成長し、さらに強くなるという面もあります。私たちも、敗北の日、挫折のときに、信仰が強められることを知っています。
旧約聖書のダビデは、巨人ゴリアテとの闘いに勝利して以来、軍人として敵に立ち向かい、連戦連勝の日々でした。しかし、人気が出てきたときに、王様に妬まれて、それからは逃げ続ける毎日となりました。やがて試練の日が終わり、ダビデがイスラエルの王となり、イスラエルを侵略し圧迫していた周囲の国々に勝利を続け、ついに隣接する国々を平定し、イスラエルに平和が訪れたのです。しかし、決して連戦連勝ではなかったようです。結果的には敵に打ち勝ちましたが、その途中では負けることもあったようです。しかし、サウル王に追われていた日々が神様への信頼を強めたように、敗北したことで、今まで以上に必死で祈ることを学んだのだと思います。
今日は詩篇60篇を通して、「敗北の日にも」と題して御言葉を取り次がせていただきます。いつものように三つに分けていきます。第一に「神に見捨てられる」、第二に「神の約束を信じる」、そして第三に「敗北を認める信仰」という順序で進めてまいります。
1.神に見捨てられる(1〜3節)
この詩篇は、まるで神様に見捨てられたかのような、悲痛な叫びから始まります。1節。
1 神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。
私たちは誰かから拒まれると、悲しかったり、心が傷ついたりします。怒りをおぼえるかもしれません。あまり関わりの無い人だったら無視することもできますが、親しかった人から拒否されると辛いです。信仰者にとって、神様から拒まれるのは、最も辛いことです。祈っても受け入れてもらえない。悪いことがあると、全て神様の怒りのように考えてしまいます。1節には「私たちを破り」という言葉があります。「破る」とか「打ち倒す」と訳され、普通は敵に打ち破られる、すなわち敗北を意味します。敗北は、敵に負けることです。でも、それが神様によって破られたと感じている。負けても、神様が味方してくださるなら、いつかは挽回できる。でも神様が敵となったら、もう絶望です。
このような悲痛な叫びを上げるほどの敗北が、ダビデの生涯のいつごろにあったのか、難しいところです。実は、表題を見ると、こう書かれています。表題の途中からですが。
ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに
ここに書かれていることは、恐らく第二サムエル記の8章のことと考えられます。開かなくて結構ですが、第二サムエル記8章13節を読みますので、表題と聞き比べてください。
13 ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰ってきたとき、彼は名をあげた。
数字が違うことに気がつかれたでしょうか。サムエル記では一万八千人、詩篇60篇の表題では一万二千人となっていて食い違っています。地名は「塩の谷」、恐らく死海の近くでしょう。相手はエドム人、これも同じです。そして主語は、サムエル記では明らかにダビデが敵に勝利していますが、詩篇では、ダビデが戦っているときに、部下である将軍ヨアブが帰って来て、エドムを打ち破った。ダビデが勝ったと見ることもできますが、文法的にはヨアブが勝ったと読む方が自然です。なぜ、このような違いがあるのか。重箱の隅をほじくるようなことですが、私はこのような疑問が好きです。
もしエドムに打ち勝ったのが将軍ヨアブであったとしても、それはダビデの部下ですから最終的にはダビデの勝利として記録されます。また人数も、途中の段階であるなら一万二千人で、その後も加えると最後は一万八千人と数えることができます。つまり詩篇の方は途中経過で、サムエル記は最終結果ではないかと思うのです。どういうことかと言いますと、最後には勝利するのですが、それは結果であって、途中では敗北を経験していたのだと思います。そこにヨアブが戻って来て合流し、少しずつ逆転勝利して行くことができたのでしょう。
これまで連戦連勝だったのか、あるとき、急に敗北を経験するのはショックです。2節。
2 あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。
この敗北は、まるで地が揺らぎ、足下がぐらつくような思いです。足下が揺らぐなら、しっかりと立つことはできません。まして戦う事など、これ以上できない。そして、地が引き裂かれる。これは恐怖です。地が引き裂かれるという出来事は、民数記の中でイスラエルの一部の者たちが、神様と、神様の立てたモーセとアロンに対して謀反を起こしたとき、その首謀者たちが、地が裂かれ、そこに落ち込んで神の裁きを受けた、と書かれています。ですから、神の裁きによって滅ぼされる、ということです。詩人も、急な敗北で動転し、もう地が裂かれるような恐怖感に襲われた。しかし、その時に彼は、その神様に助けを求めたのです。神様が地を裂くほどに怒り、裁きを下そうとしているのに、神様に助けを求めることなどできない、と私たちは考えます。でも、神様がそのようになさるのなら、他の誰かに助けを求めても神様にはかないません。だから、詩人は神様に祈ったのです。たとえ、捨てられたと思っても、祈ったって拒まれていると感じても、それでも神様に祈る。しかも、引き裂かれた地の裂け目を癒やすということは、神様以外にはできないのです。祈っても敗北した、だからこそ、彼はさらに必死で祈るのです。
私たちも、大きな敗北や挫折を味わい、厳しい苦しみの中で、信仰が揺らぐこともあります。心が挫けそうになるかもしれない。そのとき、神様との関係も崩れてはいないでしょうか。神様への信頼がしっかりしているなら、敗北も、勝利のために必要な経験だと受け止める余裕があります。信仰が揺らぐと、それが受け止められなくて、さらに心が塞いでいく。しかし、そのようなときでも、神様に祈り続けるのです。
2.神の約束を信じる(4〜8節)
二つ目のことをお話しします。4節を見ると、「旗」という言葉が使われています。
4 あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。
この旗とは、戦争の時に使われる軍旗と呼ばれる旗でしょう。日本でも戦国時代のドラマを見るとそれぞれの軍が旗を立てています。この旗が立っている限りは、まだ負けてはいません。最後まで旗が立ち続ける、それが勝利です。出エジプト記の17章には、ヘブル語で「アドナイ・ニシ」という言葉が書かれています。アドナイは主という意味です。ニシは、新改訳では「御座の上の手」と訳していますが、口語訳では「旗」と訳しています。アマレクという強い敵と戦ったとき、モーセが手を上げて神様に祈ると、神様が助けてくださって戦いが優勢になる。モーセが疲れて手が下がると戦いも負けそうになる。モーセの祈りの手、それがまるで戦いの旗のようにひらめいているなら勝利が約束される。モーセの手だからではありません。神様の前に祈っているからです。
ダビデも、ヨアブが加わってくれたから勝つことができるのではありません。例え敗北をしそうになっても、神様が助けてくださることを信頼して祈る時、神様が勝利を約束する御言葉を語ってくださるのです。
この旗は誰にでも与えられているのではなく、神様を恐れる者たち、つまり神様を畏れ敬い、神様を信じて従う者たちに与えられる旗なのです。神様が祈りに応えて立ち上がってくださるとき、敵ばかりでなく、自分も神様の支配の下になければなりません。神の支配に反抗するなら一緒に滅ぼされる。でも神様の支配に服するなら、御言葉は希望を与えるのです。そして救いの約束を信じるとき、神様は御業を行ってくださるのです。その約束の言葉が、6節から8節です。
6 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。
7 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。
8 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」

カタカナがたくさん出てきます。シェケムとスコテは地名です。神様がイスラエルのために土地を分配してくださる。これも勝利の約束です。7節はイスラエルの十二部族のことです。ギルアデはヨルダン川東に住んだ三つの部族をまとめて語っています。マナセとエフライムはヨセフの子孫で、神様のものだと言ってくださる。かぶとは頭ですから権威がある。杖も同じく権威の象徴でしょうか。8節はイスラエル以外の民族で、そこにエドムも出てきますが、彼らは敗北してぞんざいに扱われています。これらの言葉を神様が聖所から語られた。聖所とは礼拝の場所であり、また祈る時には聖所に向かって祈る。ですから神様が聖所から祈りに応えてくださるのです。敗北の時、それでも神様に祈り続ける時、神様はその祈りに応えて勝利の約束を語ってくださるのです。
3.敗北を認める信仰(9〜12節)
三つの目のことをお話しして終わりたいと思います。祈りに応えて、まず神様は約束の言葉を与えてくださる。でも、まだ敵に苦しめられている。何故でしょうか。9節は、
9 だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。
エドムまで行って勝利したい。でも、誰も導いてくれないのです。どうしてかと言うと、10節。
10 神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。
まだ神様から拒まれていると感じる。それは、いつになっても勝利が無いからです。神様が一緒に出陣してくださらなければ勝つことはできない。この詩篇60篇、最初は神様に拒まれて敗北し、それでも神様に助けを求めて祈り、勝利の約束の言葉をいただいた。でも勝利ではなく敗北が続くとき、また神様に拒まれたという思いが出てくる。神様を信頼して立ち上がったのに、上手くいかないと、信じても無駄ではないか、という思いが沸き上がる。そうなったら、前以上に不信仰に陥ってしまいます。しかし、この詩人は、それでも祈るのです。11節。
11 どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
ストレートに救いを求めているだけでない。「人の救いは空しい」。これは神様以外の者に頼ることの空しさを告白しています。もちろん、私たちは周囲の方たちに助けていただいています。でも、それは神様の代わりにはならない。他の人のことだけではない。「人」には自分も含まれています。自分で自分を救おうとしても、自分も力不足なのです。なぜ敗北したか。上手くいかない原因を、他に求めたくなり、あの人が悪い、状況が悪い、と自分以外に責任を押し付けても本当の解決はありません。自分の力が足らないからだ。自分自身が敗北したのだ、と神様の前に自分の敗北を認めるとき、私たちはただ神様にのみ信頼する信仰へと導かれます。それが12節です。
12 神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。
神こそが勝利をするお方であり、私たちは神様の働きのために用いられているにすぎないのです。本当の勝利は、自分が勝って自分の思い通りになることではなくて、神様が勝利すること。そのとき、例え、今は敗北をしていても、その敗北さえも用いることの出来る神様が勝利してくださる、と確信するのです。
イスラエルの先祖であるヤコブが行き詰まったとき、神様が彼に現れて夜中に格闘する。最後は関節を外されて、実質上、ヤコブの敗北です。でも彼は神様にすがった。ある人は、これは祈りの格闘だと教えます。自分の負けが決まっても、それでも神様に祈り続けた。その時、神様がヤコブに勝利を与えてくださったのです。敗北や苦難の時、自分の弱さを認めて神様に信頼する。それが敗北の中での勝利の秘訣なのです。
まとめ.
イエス様は人間を救うためにこの世に来られたけど、人々に拒まれ、弟子たちに裏切られ、十字架につけられる。その十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、神様にまで捨てられた。人間的には十字架は敗北です。でも、神様は、この敗北の十字架を用いて人間の罪の贖い、罪からの救いをなし遂げてくださった。そしてイエス様は三日目に復活され、勝利を確かにしてくださったのです。私たちは、この十字架によって救われ、このイエス様を信じて従う者となったのです。ですから、どんな敗北、どんな苦難でも、そして罪にさえ、神様が救いと勝利を与えてくださる。
昨年来のコロナ禍、まだ完全に終わったわけではなく、海外ではまだ猛威を振るっている国もあり、再び感染が拡大しないとは言い切れない。でも、私たちは神様が勝利してくださり、栄光を表してくださると信じ、困難な時でも、そして敗北の日にさえも祈り続けていくのです。
タグ:詩篇
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2021年10月10日

10月10日礼拝説教「怒りから賛美へ」詩篇59:16〜17(59篇)

10月10日礼拝説教「怒りから賛美へ」詩篇59:16〜17(59篇)
私たちはこの世の悪に対して憤りを感じることがあります。正義感の強い人ほど、そうだと思います。それ自身は悪いことでは無いでしょう。悪に対して鈍感になり、それに染まってしまうよりも、悪に対して一線を引く姿勢は大事です。ただ、ヤコブの手紙の中で「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:20)と書かれているように、気をつけませんと、悪に対して怒っていたつもりが、神様の御心から離れて、神の義ではなく自分の義を優先してしまうことになる危険性があります。特に、誰かのせいで自分が苦しみを受けているときに、その相手を敵と見なして、敵の悪を怒るはずが、敵を憎み、呪うような思いに陥ってしまうとき、敵を愛せよと教えたイエス様のお心からは遠く離れていってしまうのです。
昔の人も同じ罠に陥ることがありました。詩篇に記されている信仰者たちの祈りも、時には怒りに染まってしまうことがある。でも、それが祈りの中で賛美へと変えられていくのを見るとき、そこに神の栄光による働きを見ることができるのです。
今日は、「怒りから賛美へ」と題して、詩篇59篇より、いつものように三つのポイントで御言葉を取り次がせていただきます。まず、第一に「罰せられる悪」、第二に「高慢の罪」、そして第三に「成長する信仰」という順序で進めてまいります。
1.罰せられる悪(1〜5節)
詩篇59篇の祈りも、悩み苦しみの中で神様に助けを求めるところから始まります。1節。
1 わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。
ここには、自分を苦しめる敵がいることを示しています。新改訳では、「敵」、「私に立ち向かう者」、さらに2節でも、「不法を行う者」、「血を流す者」と敵のことを描いています。その敵が自分に向かって悪を行うのです。3節。
3 今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。
敵が私の命を取ろうとしている。それも、私が罪を犯したからではない。もし自分が神様に対して背くような罪を犯しているのなら、神様が私を裁くために敵を用いて私を罰するとしても、仕方が無い。もし私がその人々に対して罪を犯しているのなら、敵に憎まれるのは当然だ。でも、そのような罪は無いにもかかわらず、彼らは私に襲いかかろうとしている。この理不尽な苦悩を、彼は神様に祈っているのです。
旧約聖書を読んでいますと、例えば、士師記という書物の中には、神様に背くような罪を犯していた人々が登場します。彼らが神からの祝福と守りを失ったために敵に苦しめられるのは、自業自得です。ところが、その人々があまりの苦しさの中で神様に叫んで助けを求めたとき、神はそんな彼らをさえ憐れんでくださった、と記されています。神様は憐れみの故に、苦しむ者の祈りを聞いてくださるお方なのです。ただ、その祈りが間違った方向に向いてしまうことがあります。
この詩人も、敵がどれほど酷いことをするのか、神様に訴えているのですが、敵に目を向けすぎて、神様のこと、自分のことが見えなくなってしまう。状況を正しく見る目が失われてしまうのです。
3節の中頃に「力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています」とありますが、口語訳聖書では、「私を攻めます」と訳しています。私を攻撃するということですが、武力攻撃だけでなく、時には言葉による攻撃もあります。私たちも誰かから言葉で攻められることがある。特に、「お前が悪い、お前のせいだ」と責められる。誰でも人から責められるのは苦しいです。でも、そのように責めを受ける理由があるのかもしれない。責められたときに自分自身を省みて、もし反省すべき事があるのなら、素直にお詫びする、自分を正す、その姿勢を忘れてはいけません。しかし、敵に攻撃されているときは、自分の問題に目を向ける余裕もない。そして自分を守ろうとする防衛本能で、私は悪くない、と自己弁護をしてしまうのです。もちろん、命を狙うような攻撃に対して自分の身を守ることは必要です。でも、神様の前に進み出て、神様の目から見ていただくとき、自分の姿に気がつくのです。
この詩人は、神に助けを求め、祈っていったとき、神様に目を向けます。5節。
5 あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。どうか目をさまして、すべての国々を罰してください。悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください。
神様を「万軍の主」と呼んでいます。万軍とは、天使の軍勢のことと言われます。神様は天使どころか世界を治めておられるお方です。ですから、「すべての国々を罰してください」と言うのは理解出来ます。でも、自分が苦しみを受けたからといって、世界中が罰を受けるのでしょうか。「悪い裏切りものは、誰も憐れまないでください」と語っていますが、自分自身には神様に対する罪は無いと言えるのでしょうか。イスラエルの神、という呼びかけも使っていますが、イスラエル自身は、その歴史の中で何度も神様に背き、神様を裏切ってきた。それは国が悪い、社会が悪い、と責任転嫁は出来ない。自分もその一員だからです。ネヘミヤやエズラと言った、バビロン捕囚から帰って来た信仰者たちは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされたのは、先祖が悪かったから、と責任をなすりつけるのではなく、それは私の罪でもある、と認める祈りを捧げています。しかし、この詩人は自分の罪、自分の国の罪は忘れて、すべての国々を罰して、と求めているのです。
敵に対して「憐れまないでください」と書かれているように、神様は憐れみの神です。その憐れみは自分にも向けられています。また、罪を犯した者でも、例えば、律法を読むと、故意では無くて事故によって誰かを害した場合、おとがめは全く無し、ということはありませんが、厳しい罰にならないように神様の配慮が記されています。罪人でさえも憐れんでくださる神なのです。でも、もし自分の罪を認めようとしないなら、神様はその罪に気がつかせるためにも厳しくなさることがある。まして、もし私たちが自分の罪は棚上げにして、自分を攻めてくる者に対して怒り、神の裁きを待たずに敵を裁くなら、それは神の憐れみからは離れてしまっているのではないでしょうか。罰せられるべき悪は、実は自分自身の中にもあるのではないか。御言葉はそのことを私たちに示しているのです。
2.高慢の罪(6〜13節)
次に、6節から、敵の描写が続きます。
6 彼らは、夕べには帰って来て、犬のようにほえ、町をうろつき回る。
7 見よ。彼らは自分の口で放言し、彼らのくちびるには、剣がある。そして、「だれが聞くものか」と言っている。

6節では敵を野良犬に例えています。どうも聖書の中では犬は良くない譬えに用いられることが多いようです。(ネコは、出ても来ません。)敵が夕暮れ時から町をうろつきまわり、剣で自分を狙っている。酷い言葉を使いながら、誰も聞いていない、すなわち神さえも聞いていないから裁かれることもない、と神を侮る態度です。
この描写の背景には、サムエル記第一の19章に出て来るエピソードがあると考えられています。ダビデがサウル王から命を狙われ、ある日、夜のうちにダビデの家の周りを兵士たちによって包囲させ、朝になったらダビデを捕らえて死刑にする計画でした。ですから夕方から町の中を兵士たちがうろつきまわっていたのです。これも絶体絶命の危機でした。妻ミカルの機転で逃げ出したダビデですが、かつては戦場で共に戦った仲間だったのに、サウル王に味方して自分を嘲る兵士たち、その悪口が夜中にダビデにも聞こえてきたことでしょう。
誰にも似たような経験があるかもしれません。かつての友人が、いつのまにか自分の悪口を誰かと話している。本当に裏切られたのか、それとも誤解なのかは分かりませんが、そんな言葉を聞いたら苦々しい気持ちになります。8節。
8 しかし主よ。あなたは、彼らを笑い、すべての国々を、あざけられます。
ここで詩人は、そのような悪い奴らを、神様が裁いてくださるはずだと考えるわけです。神が彼らを笑うとは、彼らが語った言葉が実現しないことを知っているからです。サウルの計略で逃げられないようにした。きっと兵士たちは、明日になったらダビデもお終いだ、と笑っていたでしょう。それを、神様は、なんて彼らはこの先起きることを分かっていないのに、分かったかのように語るのか、と嘲笑っている、というのです。
確かに神様からすれば、敵の言葉は愚かで、笑われてもおかしくない。しかし、本当に神様が嘲り笑っているのか。これは実際に神様がそうするか、ではなくて、詩人自身の願望が隠れているのです。神様が嘲るのではなく、彼自身が嘲る者になっていて、それを神様の口を借りて語っているのです。
自分は、神の裁きを代弁しているつもりで、ますます敵に対する怒りは増幅していきます。11節。
11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が、忘れることのないためです。御力によって、彼らを放浪させてください。彼らを打ち倒してください。主よ。私たちの盾よ。
ここで「彼らを殺さないでください」と祈っているのは、敵に対する憐れみかと、最初は思ったのですが、後から「滅ぼしてください」と祈っています。この「殺さないで」は、その後に「私の民が忘れないため」。つまり、簡単に滅ぼしてしまったら記憶にも残らない。人々が決して忘れないために、しばらくは生かしたままにして、彼らを苦しめてください、ということなのです。
さらに敵の様子を述べています。12節。
12 彼らの口の罪は、彼らのくちびるのことばです。彼らは高慢に取りつかれるがよい。彼らの述べる、のろいとへつらいのために。
「彼らは高慢に取りつかれるがよい」と訳されていますが、一番新しい新改訳2017では、「高慢にとらえられる」と訳しています。敵がすでに高慢になっており、その高慢にとらえられて動けなくなり、高慢な者を裁かれる神様によって滅ぼされることを願っているのです。
しかし、高慢に取らえられているのは、自分自身ではないでしょうか。自分の罪は見ようとせずに、敵の悪だけを見て神の裁きを願う。しかも自分の思ったとおりに神がしてくれると考えるとき、それは神をも思い通りにする高慢な心となってはいないでしょうか。ダビデがバテシェバとの罪を犯しながら、預言者ナタンの話を聞いて、悪人のことを怒って死刑判決を下したとき、預言者は、「それは王様、あなたのことです」と見事に神様からの判決を告げた。もし、この詩人が敵の高慢を責めて神による滅びを祈るなら、それは自分が高慢になったときに同じ裁きを受けることにもなるのだということを忘れてはいけないのです。怒りのあまり、罪を裁くのは神だけであることを忘れて、神様のすることを自分がしてしまうことにならないように、怒りの祈りから、どのように立ち返ることができるでしょうか。
3.成長する信仰(14〜17節)
最後の箇所として14節から読みます。
14 こうして、彼らは夕べには帰って来て、犬のようにほえ、町をうろつき回る。
15 彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。

14節は6節とほとんど同じで、敵を犬に例えています。でも、15節は少し違ってきています。敵は、まるで野良犬のように、食べ物を求めてうろつきまわっているのだ。サウル王に命令された兵士たちは、命令に従わなければ、罰を受け、兵士の仕事を失う。給料をもらってゴハンを食べるためには、嫌でも従わなければならない、ダビデを捕まえなければならない。敵は悪意で行っているということよりも、しかたなくしているのであり、自分がしていることがどのような悪であるか分かっていない。これが敵の本質だと見抜いたとき、それほど恐れる必要は無くなり、敵への怒りは変わり始め、敵の滅びを祈るような呪いから解き放たれるのです。
このことに気が付いた時、彼はもう敵の姿に目を向ける必要はなくなり、神のみに心が向けられた。それが16節、17節です。
16 しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。
17 私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。

この最後の結論部分では、もう神様への賛美で一杯です。朝になったら神の恵みを喜び歌う。希望に満ちた祈りとなっています。そして、彼は告白します。神様こそ、私の逃げ場、私のとりで。「とりで」も「逃げ場」も同じような意味で使われる言葉です。古い聖書では「さけどころ」、すなわち避難所です。神様に祈ることは、怒りや苦しみの嵐に翻弄される私たちにとっての避けどころです。避難所にたどり着いて安心するように、祈りの中で神様の恵みにひたるとき、怒りや高慢から救い出され、神への信頼が与えられるのです。詩篇の詩人たちは、この秘訣を証ししているのです。祈る時に、私たちも神を信頼する者として成長することができるのです。誰でも苦難の中で心が揺れ動き、それが不安や怒りへと結びつき、神への信頼と平安が失われそうになります。でも、祈るとき、その悩みが変えられて、信仰が成長し、賛美へと向かうことができるのです。
まとめ.
怒りによって心が囚われてしまうとき、最初は神様に文句を言ってもよいです。とにかく祈りに心を向けましょう。やがて聖霊の交わり、聖霊による導きが私たちの心を闇から光へと導き、御言葉の光を照らしてくださいます。そのとき、どんな苦しみも怒りも、神様に委ねることができるのです。

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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教