2022年04月17日

4月17日礼拝説教「今も満ちている命」エペソ書1:20〜23

4月17日礼拝説教「今も満ちている命」エペソ書1:20〜23
イースター、おめでとうございます。まだコロナ禍にありますが、今年も主イエス・キリストの復活を祝う礼拝を持てますことを感謝します。病気に対しても戦争に対しても、私たちは力の足らなさを痛切に感じますが、死に打ち勝たれたキリストは全てに勝利されるお方です。今日は特に復活の意味についてご一緒に聖書から学び、復活の主を信じることをもう一度深く考えたいと思います。復活の主イエス様は今も生きておられ、その復活のいのちは今も教会に満ちていることを覚えましょう。
いつものように三つのポイントに分けてイースターのメッセージを取り次がせていただきます。第一に「全能の力による復活」ということ、第二に「全ての上におられるキリスト」、そして第三に「教会はキリストのもの」という順序で進めてまいります。
1.全能の力による復活
さて今日はエペソ書を開いております。復活の出来事は福音書に記されていますが、その意味は聖書全体に示されています。エペソ書は、今年の教会の標語にもなった御言葉が4章にあり、キリストの体なる教会について教えている大切な手紙ですが、教会のかしらであるキリストのことも同時に教えています。
この手紙で、パウロはエペソ教会のクリスチャンたちのために祈っていることは、彼らが全能の父なる神の力がいかに偉大であるかをもっと知って欲しい。この神の力を知らないから、私たちは、「ああ、もう無理だ」と言って諦めたり、不信仰になってしまいます。パウロが知って欲しいと祈った、その全能の力が、先ほどお読みしました、20節の最初に出てきます。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
神の全能の力は、特にキリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた、と書かれています。使徒信条の中で「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されていますが、正確に訳すならば、「よみがえらされた」です。イエス様が十字架で亡くなられたとき、ご自身の力では黄泉に下ったままなのです。父なる神様に「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と祈られた。委ねたということは、任せた、ということです。ですから復活できたのは父なる神の力、全能の力なのだと聖書は告げているのです。多くの奇跡を行ったイエス様です。神の御子です。でも、死んだなら、そこから自力では起き上がれない。それを父なる神の力で「よみがえらされた」のです。
復活というと、教会に来る前の人は当然そうですし、教会に通うようになっても、最初の内は復活なんて信じられない。でも、やがて聖書が教える神様を知るようになり、この神様を信頼するとき、これほどの偉大なお方なら、復活もおできになるかもしれないと、何となく受け入れることができるようになるでしょう。でも、復活は何となく信じるくらいではもったいない。信じられないほどのこと、驚くべき偉大な奇跡なのです。他にも信じがたいことはあるでしょう。でも復活は最大の奇跡です。最初の弟子たちはイースターの朝に復活の主と出会いましたが、半信半疑でした。何度もイエス様を見て、触れて、最後は聖霊が下ってくださり、確信を与えてくださった。聞いても見ても信じられなかったほどの驚くべき出来事です。私たちは復活を、それほどの驚きをもって信じているでしょうか。
クリスチャンになるとき、あるいは人によっては暫くしてからかも知れませんが、復活を受け入れ信じる者とされた。では、もう一歩進んで、この復活の奇跡を成就させた父なる神の全能の力を信じているでしょうか。信じがたい復活を巻き起こした力は、今も無くなったはずがない。いいえ、私たちのために十字架で贖いをしてくださったイエス様を復活させて、私たちに永遠の命を与えてくださる神様の、その全能の力は、私の人生にも働いてくださる。このことをしっかりと信じるなら、今、私が悩んでいること、苦悩している問題、信じがたいようなことでさえ、「その全能の力をキリストのうちに働かせ」たように、私の人生に、またこの教会にも、その力は発揮していただくことができると信じる者となれるのです。
2.全ての上におられるキリスト
主イエス様を復活させた全能の力は、さらに
天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

天に引き上げて、父なる神の右の座に着かせたのも、全能の力によるとパウロは語っています。そして、キリストを「すべての支配、権威、権力、主権の上に」、つまりあらゆるものの上に置かれた。イエス様は十字架という大切な働きを終えて、天にお帰りになって、仕事が終わって休んでいる、というのではなくて、全てのものの上におられる。ですから、キリストは全てのものを従わせる権威も力も持っておられ、あらゆる問題も解決できる。どんな問題があるのでしょうか。病気、経済、人間関係、罪の問題、それだけでしょうか。仕事や勉強は、自分の仕事であり、キリストは無関心なのでしょうか。いいえ、主イエス様は、私の生活の全ての問題に目を向けておられ、全てを従わせることができる。でも、それを妨げるのは、「私」です。これくらいは自分でできる、これは自分の思い通りにしたいからイエス様も黙っていてください。そう言葉に出さなくても、自分中心な私たちは、イエス様が私の全て、私の心、私自身でさえ、キリストの支配の下にあることを忘れている、いいえ、認めようとしていないのではないでしょうか。
復活の主は、今、私の主人として、私の上にもいてくださり、私たちの上に全能の力を働かせて、人生を造り変え、新しい人生、永遠の命にしてくださるのです。どうしてイースターがおめでたいのか、それはイエス様が復活してくださったということは、全ての問題をも造り変えて新しくして、神様の御心のままにしていただけるからです。
3.教会はキリストのもの
さらにパウロは続けます。22節。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

父なる神様は、貴い御子を救い主としてこの世に遣わされただけでなく、今も主イエス様を、二千年前の弟子たちに、そして今でも、クリスチャンに与えてくださり、教会のかしらとしてくださった。でも、キリストが私たちに与えられ、私たちのものであるとは、私たちが自分の好きなようにして良いということではありません。キリストがかしらであり、教会はキリストのからだとして、キリストの命令に従う存在です。キリストは教会のものであり、教会はキリストのものです。キリストが教会をご自分のものとされるとは、イエス様も教会を自分の好き勝手に扱うということではありません。むしろ問題だらけの教会、また一人一人を、愛を持って導き、父なる神にとりなし、ご自分のものである教会を大切にしてくださる。だから、聖霊を教会に遣わしてくださったのです。
聖霊が教会の中に働いておられるとき、聖霊を遣わされたキリストも共にいてくださる。いっさいのものを満たすことがおできになるキリストが教会の中に満ちておられる。これは大変に凄いことです。私たちは自分の体を大切にします。健康や長寿のために多くの財や時間を費やす方は少なくないでしょう。それくらい、自分の中に自分の思いが満ちていて、何よりも自分は大切です。でも、イエス様はそのような人間の思い以上に、私たちを愛して、教会に深く関わっていてくださるのです。このイエス様に、私たちが連なっているとき、キリストのうちにある命が私たちのうちにも豊かに満ちて、キリストに生かされる人生、それが永遠の命なのです。
まとめ.
キリストの復活は二千年前に終わった出来事ではありません。キリストは今も生きておられ、天で御座に着いていると同時に、聖霊によって教会のかしらとしていてくださいます。池の上教会にも、復活の主のいのちが今も満ちている。このお方を信頼し、御心に従い、全能の力により復活の命に生かしていただくなら、今の困難にも乗り越えさせていただけるのです。
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2022年04月10日

4月10日礼拝説教「十字架の心」イザヤ書53:4〜12(53章)

4月10日礼拝説教「十字架の心」イザヤ書53:4〜12(53章)
今日は教会歴では棕櫚の日曜日と呼ばれ、今週は十字架に思いを寄せる受難週です。日曜日にイエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城し、木曜の夜が最後の晩餐、金曜日に十字架につけられました。そして来週がイースター、復活の日です。この十字架と復活がキリスト教の根本であることから、この時期には十字架と復活について礼拝で語られます。普段の礼拝でお話ししているコリント人への手紙から少し離れて、十字架についてお話ししたいと思います。十字架について聖書はどう語っているか。福音書は十字架の事実を記しています。パウロの書いた手紙は十字架の意味について多くのページを割いています。旧約聖書は救い主に関する預言の中で、救い主が苦しみを受けることを述べている。今朝、開かれていますイザヤ書53章は「受難の僕」と呼ばれる箇所で、イエス様の十字架の苦しみが何を意味していたのかを語っています。今日は、この箇所を通して、十字架が何なのかをお話ししたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてお話を進めます。第一に「十字架の苦しみ」、第二に「十字架の意味」、そして最後に「十字架の目的」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.十字架の苦しみ
十字架の苦しみについては、旧約聖書のあちこちに触れられています。例えば、創世記の21章ではアブラハムが一人子のイサクを山の上で神に捧げるシーンがありますが、これも人間を救うために御子を十字架で死なせるときの父なる神の思いを感じさせます。しかし、十字架で何が起きるのか、その苦しみを直接的に描いている箇所としては、詩篇22篇とイザヤ書53章が有名です。今日開かれておりますイザヤ書53章では、罪を犯したためではなく、むしろ人々の誤解や裏切りの故に神の僕である正しいお方が痛みつけられ、ついに死に至る様子が、まるで十字架を見たかのように鮮明に描かれています。詩篇の方がもう少し起きた出来事を描写していて、衣服をくじ引きにされた様子が有名です。それに対してイザヤ書は、十字架の苦しみと、その意味が示されているようです。
先ほどは53章の途中から読んでいただきましたが、この箇所は52章の13節から続いていると考えられ、52章13節で
13 見よ。わたしのしもべは栄える。
と始まって、主のしもべについて語られています。この僕こそメシアであり、イエス様において成就した預言だと言えます。最初は「栄える」と書かれている通り、イエス様の教えを聞きに多くの人が集まってきて、人気はうなぎのぼりでした。でも誤解され、捨てられ、苦しめられる。それが53章で述べられていることです。53章の4節から。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

本当は十字架の苦しみは私たちのため、私たちを罪から救うために身代わりとなって罪に対する神の罰を受けてくださったのに、人々は彼が神の罰を受けていると考えた。これはイエス様を十字架につけて殺そうとした人々、十字架の周りでイエス様を嘲った人たちの姿です。6節。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

この口を開かない羊の姿は、イエス様の裁判での姿だと福音書は語っています。8節。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

私たちの罪の身代わりとなって命を絶たれたイエス様は、十字架上では二人の極悪人と並べられ、死んだあとはアリマタヤのヨセフという裕福な人の作った墓に入れられます。このような御言葉を味わい、十字架の苦しみを考えるとき、イエス様が十字架にかかってくださったのが、私のためだということを考えさせられます。
四月に入ってから礼拝で用いられる賛美に十字架の受難について歌っているものをいくつか選ばせていただきました。これらの賛美歌も、歌詞を味わっていただきたいと思います。言い回しは古い言葉ですが、何度も読むと十字架のことが心に迫ってくるように感じます。また、ある方は今、あるいは最近、自分が受けている苦しみを思い起こしたときに、ああ、この痛みや苦しみは、イエス様も十字架の上で私のために痛みや苦しみを受けてくださったんだなあ、と、十字架を身近なものとして受け止める機会となるかもしれません。
誰でも痛みや苦しみを味わったことがあるでしょう。十字架の苦しみは肉体的な苦痛だけでなく、弟子たちに裏切られ、救おうとしている人々に罵られるという心の痛みもあったでしょう。何よりも父なる神から苦しみを受けなければならないという、これをゲツセマネの園では「受けなければならない『さかずき』」とイエス様は言われましたが、それほどにつらい思いがあった。だから私たちは自分の体験した痛みや苦しみを通して、イエス様の十字架について考え、深く知ることができるのだと思います。この一週間、聖書や賛美歌、さまざまなことを用いて十字架に心を向けてみてはいかがでしょうか。カトリックでは、十字架までの約40日間、例えば好きなものを絶つといったことで苦しみを味わうという習慣がありますが、形は違っても、十字架の苦しみを考えることは大切だと思います。
2.十字架の意味
もちろん、ただ苦しみを味わうというだけでは、それが終わって、ああ大変だった、と言うだけです。その苦しみが、いいえ十字架が、どのような意味なのか、を考えることが必要です。
もう一度、5節。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
ここに、十字架が私たちのための苦しみ、私たちの罪への「懲らしめ」と書かれていますが、その苦しみを身代わりとなって受けてくださった。これを「贖い」という言葉で、新約聖書は教えています。十字架は、本当ならば私が受けなければならない、私の罪に対する罰を、イエス様が身代わりとして受けてくださり、私はその苦しみから救われた。これが十字架の贖いであり、この代価が払われなかったら、私たちの救い、罪からの救いはできなかった。私たちの救いの土台は十字架です。でも、十字架の苦しみだけが土台だとするなら、キリスト教の救いは苦しみの上に成り立つ、残酷なものとなってしまいます。
10節。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
ここに、十字架の苦しみは、神様の御心であったと語られています。イエス様も父なる神様の御心に従い、それもイヤイヤで、不平たらたらで従ったのではなく、悩みつつも、でも、父の心を自分の心として受け止めてからは、自ら十字架に向かって進んで行かれた。それは嬉しい楽しいという御心ではなく、心に痛みを感じつつ、でも自分からそれを行うという御心なのです。なぜ、そんなことをされるのでしょう。それは私たちを救うため、私たちへの愛の故です。これを知らないと、罰を受けるという嫌なことをイエス様が代わりに受けてくださり、自分は助かった、という表面的な理解になってしまいます。私たちを愛しているからこそ、父なる神は御子を十字架につけさせ、御子イエス・キリストも私たちへの愛の故に、この御父の計画を忠実に行ってくださった。十字架は愛の故の苦しみであり、神様の御心は私たちを救うことにあります。
この十字架の苦しみが持つ本当の意味が分かったとき、私のためにイエス様は自ら進んで十字架についてくださった、その愛の深さを知るのです。誰でも苦しみは好きではありません。でも、その苦しみを通して愛する人が助かるなら、進んで苦しみを受けるのは、貴い自己犠牲となります。私たちが十字架のような苦難であっても、神様の御心として受け止めるとき、その苦しみは祝福への入り口となることができるのです。
3.十字架の目的
最後に11節。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

ここには、十字架の苦しみの結果、多くの人が救われ、罪を赦していただいて、義と認められる。十字架の目的が明らかにされています。「分捕り物」とは昔の戦争では勝ったものが負けた者の全てを手に入れて、それを仲間と分け合う。12節で、「わたし」と語っているのは神様です。身代わりの苦しみを受けきった僕、彼に対して多くの人を分捕り物として与える。それは多くの人が十字架によって救われて神のもの、キリストのものであるクリスチャンとなることを語っています。
苦しみを味わって知ることは、自分の体験を通して十字架を深く学ぶ機会となるでしょう。また十字架の贖いが、私自身の罪のためだということを受け止めることは、自分の救いにとって重要なことです。でも、自分の救いは、それが神様の目的だとするなら、自分が救われてオシマイです。でも神様の目的は、もっと多くの人が救われることです。もし十字架の苦しみの背後に、神様の、そしてキリストご自身の愛があることを受け止めたなら、その神様の御心、私だけでなく、もっと多くの人を救いたい、という願いをも受け止めることができるのではないでしょうか。
クリスチャンとなるとき、何かの悩みから救われた、という方もおられるでしょう。もしかしたら、同じような悩みの中で苦しんでいる人が近くにいるかもしれない。その人のためにもイエス様は十字架で苦しみを受けてくださった。罪の悩みは全ての人に共通する問題です。すべての人は罪を犯した、と聖書が教えているとおりです。ですから神様はどんな人であっても救いに導きたいと願っておられる。その神様の御心を思い、私たちも、関わることができる人たちに、この救いを伝えること、それが神様の御心ではないでしょうか。
誰かの救いのために祈り、実際にその人が救いに導かれるように働くことには、犠牲を伴います。自分のために仕える時間や労力を、ほかの誰かが救われるために用いるのです。家族の救いのために長い間祈り続ける方も少なくありません。でも、それがキリストの願いであるなら、喜んで犠牲を払う。それが私たちの果たすべき使命です。自己中心、自分のために生きるという古い生き方をしている自分を、十字架につけなさい、とパウロは教えていますが、私たちがそれを進んでするものとなり、まだキリストの救いを知らない人のために犠牲を払ってでもキリストを伝える姿を見るとき、私たちを救うために十字架の苦しみを進んで受けてくださったイエス様も満足しておられるのではないでしょうか。
11節で、
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
というのは、苦しんで満足するというのが少し不思議です。もちろん、十字架という最も重要な救いの働きを立派に成し遂げたが故の満足もあると思いますが、「苦しみのあと」、その結果を見て満足する。一番新しい「聖書協会共同訳」では、「苦しみの後、光を見、それを知って満足する」と、これは原文には無い「光」という言葉を使って意訳しているのですが、面白いと思います。暗闇にいると遠くの光も良く分かります。イエス様ははるかとおく、約二千年後の私たちを見て、私たちが自分のためではなく、他の人のために祈り、多くの人の救いのために喜んで犠牲を払う姿を見て、よくここまでになったな、と満足しておられるのではないでしょうか。そこまでなることが、十字架の目的なのです。
まとめ.
神様は私たちのために、計画されたすべてのことを成し遂げてくださいました。旧約聖書に預言された神様の計画、救い主をこの世に送り、その苦しみを通して人間を罪から救う。この救いの働きを全うするためにイエス様は進んで十字架の苦しみの盃を受けてくださった。このお方の愛と苦しみを知った私たちは、何をしたら良いのでしょうか。自分もイエス様の御心を行う者とならせていただきましょう。
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2022年04月03日

4月3日礼拝説教「キリストに倣う人生」1コリント4:14〜17(4章)

4月3日礼拝説教「キリストに倣う人生」1コリント4:14〜17(4章)
今日の説教題は「キリストに倣う人生」としました。15世紀の修道士であったトマス・ア・ケンピスという人が書いた本の題名が『キリストに倣いて』で、この本は、聖書の次に最も多く読まれたそうです。聖書が最も多く読まれたナンバーワンで、二番目がこの本、『キリストに倣いて』。それは人数だけでなく、何度も繰り返して読む人が多かったのかもしれません。そして、多くのクリスチャンの人生に深い影響を与えました。「キリストに倣いて」。言い換えると「キリストに似た者となる」ということは、私たちの目指すところです。最初からキリストの同じであるはずがない。でも、少しずつ、そして一生をかけて進むべき方向はキリストに向かって歩むことです。
今日は、使徒パウロがコリント教会の人々に、彼らはキリストのからだの一員とされ、一体であるべきなのに分派分裂と言われる派閥争いをしていた間違った生き方に対して、何が目指すべき生き方かを教えるために書いた手紙です。その4章からメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントに分けてお話しします。第一に「忠実な管理者」ということ、第二に「間違った誇り」、第三に「愛する我が子」という順序で進めていきたいと思います。
1.忠実な管理者
先ほどは司会者に14節からを読んでいただきましたが、1節から少し見てまいります。1節。
1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

「こういうわけで」と始まるのは前の章から続いているのであって、3章最後には、「あなたがたはキリストのもの」と書かれています。クリスチャンとは、キリストによって救われ、キリストのものとなった、ということです。ですから、パウロは「私たちはキリストのしもべ」なのであり、それは「管理者」だと語っています。
イエス様の弟子というと十二弟子が有名ですが、実際にはもっと多くの弟子たちがいて、その弟子がやがてクリスチャンと呼ばれるようになっていきます。当時の弟子は、先生をご主人とする僕でした。そして主人から任された教えを自分勝手に変えるのではなく、正しく管理する役目があります。どうして管理者という言い方が大切か。これと似た話として、創世記で神様が世界を造られたとき、最後に人間を造り、「すべての生き物を支配せよ」と言われました。この言葉を見て人間は世界の支配者だと勘違いをして、何でも自分の思い通りにした結果、環境破壊と言われるように世界を壊すようになってしまった。もちろん、神様はそんな風にすることを求めたのではなく、「支配せよ」とは、管理せよ、ということです。神の僕として、ご主人である神様こそが世界の所有者ですから、その神様のものを預けられて、正しく管理する。神様は世界を見て「良しとされた」と書かれていますから、良い状態に保つことが管理者の務めです。これと同じように、パウロはコリントのクリスチャンたちに、キリストの十字架の贖いによって買い取られた私たちは、キリストのしもべであり、管理者だと教えているのです。そして、管理者は忠実でなければならない、と2節は語っています。
どうして「管理者」という話を始めたのかというと、コリントのクリスチャンたちは、それと逆のことをしていた。3節。
3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

派閥争いがあると何度か話しましたが、パウロを認めたくない人々はパウロの悪口を言って否定します。曰く、パウロは異邦人の使徒と自称しているが、使徒は十二使徒だけで、パウロは使徒ではない。曰く、パウロはアポロと比べると雄弁ではない、口下手だ。もっと酷いことも言っていたのはパウロの耳に入ってきていたでしょう。彼らはまるで自分が裁判官であるかのように、パウロのことを判定し、判決を下して裁いていたのです。本当の裁き主は神様であり、御子であるキリストです。
人間は誰もが、自分が王か裁判官であるかのように他者を裁き、周りの人を支配したがります。それは本当の王であり裁き主である神様への罪です。ですからパウロは、派閥争いをしている彼らに、裁き合っていることを戒め、神様こそが裁き主であり、私たちがその僕、また管理者だと教えたのです。そして正しく管理するためには、何度も主人の言葉に耳を傾ける必要があります。もし僕が主人の意に沿わないことをしていたら、主人はそれを戒めるでしょう。その声を聞いていなければ、間違った管理者となります。聖書を通して語ってくださる神様の言葉をしっかりと聞き、聖書が教えていることから逸脱しないように。6節。
6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
私とはコリント教会の創立者パウロであり、アポロはパウロの後に来て教えた雄弁な伝道者です。ペテロ派などもありましたが、この二つが最大派閥だったのでしょう。パウロとアポロが反目していたのではなく、勝手に派閥をつくり、相手を裁き、パウロたちをも裁いていた。それは二人を遣わした神様の意に反することであり、裁きあうことは教会の一体性を破壊する罪です。ですから、「あなたがたが、私たちの例によって、『書かれていることを越えない』ことを学ぶため」、この書かれていることこそ、聖書の教えです。聖書に書かれた神様の声に耳を傾けることは、私たちにとっても大切であることは言うまでもないでしょう。
この6節の最後に「高慢にならないため」とありますが、パウロは違って切り口で彼らの高慢を戒めます。
2.間違った誇り
7節から読みます。
7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。

私たちが持っているものは全て神様からいただいたものです。いや、自分の手で稼いだものだ、と多くの人は考えます。でも、自分の力が発揮できたのは、神様がそのような力を与え、環境を整え、必要な助けを備えてくださったからです。コリントは豊かな町でした。もちろん、貧しい者も多くいましたが、派閥争いをする中心人物たちは身分も高い、豊かな人たちだったでしょう。経済的なことだけでなく、もうパウロの教えなどいらない、と高慢になり、何でも分かっている。知的な面でも高慢だった。それをパウロは「まるで王様みたいだ」と言います。当時のローマ帝国で自分が王だと宣言するのは反逆罪になりますから、本当に王だとは考えていないでしょうが、彼らの立ち振る舞いは、まるで王になったかのように自分勝手に振る舞い、他者を裁いていました。
イエス様は「心の貧しい者は幸い」と教えておられます。貧しいからこそ、自分には足らないところがあり、だから神様に祈り求め、神様は恵みを注いてくださる。それが幸いです。ところが王になって、神様に求めるべきことを忘れるなら、恵みが与えられない。いえ、与えられたものも感謝しない。祈って、神様との交わりを深めることも忘れてしまう。これでは「幸い」ではありません。
パウロは王のようになった彼らの姿に対し、自分を含め使徒たちの姿を切々と述べたのが9節以降です。
9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

ここには使徒たち、伝道者たちが、どれほど苦労したか、迫害され、侮辱されていたかが記されています。でも、12節後半から、「はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます」。迫害されても忍耐し、ののしられても祝福する。ここにキリストの姿が描かれています。10節の最初に「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です」。「キリストのために」と「キリストにあって」は、文法的には違う前置詞ですが、どちらもキリストが重要です。パウロはキリストのために生きていました。コリントの人たちもキリストが救ってくださったから、キリストにつながっているなら、本当の意味で「賢い者」となるのです。クリスチャンはキリストに属する者、キリストの僕として、キリストの姿を映し出す生き方が目標なのです。
3.愛する我が子
14節から。
14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

二番目にお話しした、「あなたたちは王のようだ」というところは、まるで皮肉のようにも読めます。でもパウロは彼らを諭したくて厳しく語った。それは、彼らがパウロにとって「私のこども」だったからです。「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」。男性が生むというのは、もちろん、喩えとして語っているのですが、旧約聖書の系図では「アブラハムはイサクを生んだ」と、父が子を生むという言い回しがあります。パウロは教会の創立者であり、コリントのクリスチャンたちの父です。その子供たちが間違った道を進もうとしているのを知って、彼らを正しい道へと導きたくて手紙を書いた。その父の愛による勧めが16節。
16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

「私に倣う者となりなさい」なんて、私たちはなかなか言えません。私みたいにはなるな、というのは楽です。でも、パウロは自分が完璧だから見習え、と言っているのではない。パウロがキリストに倣って生きることを目指していた、その目指して生きていることを見倣って欲しいのです。失敗があっても挫折があっても、なおキリストを目指し、キリストに倣うことを聖書から教えられて生きるのです。パウロは自分の弟子であるテモテを遣わします。テモテもパウロに倣って「キリストに倣う」生き方を目指している。だからテモテを見ればパウロの生き方を思い出すことができる。いえ、今はテモテを遣わすのですが、やがてパウロ自身がコリント教会を再訪します。そのときに、まだ彼らが罪を犯し続けるなら、パウロは父として厳しく裁かなければならない。しかし、同時にパウロは彼らを父の愛をもって愛しています。21節。
21 あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。
パウロの願いは、彼らが分派分裂だけでなく、様々な罪を悔い改めてくれることです。彼らを鞭で罰するのではなく、優しい心で再会したい。それはキリストの心、父なる神の心も同じです。神様は私たちが御言葉によって悔い改め、御心にかなう者、キリストに倣う者となることを願っておられるのです。
まとめ.
パウロがコリント教会に手紙を書いたのは、神様がそれを書かせて、コリント教会だけでなく、すべての教会に読ませるため、すべてのクリスチャンがパウロに、いいえ、キリストに倣う者となるためです。一人一人がキリストに倣うとき、教会はキリストのからだとしてあるべき姿となっていくのです。「キリストの体を建て上げる」とは、間違った建て方ではいけません。かしらであるキリストに倣った教会となりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教