2022年05月29日

今日は説教はありません

本日は信徒の証しによる礼拝でした。
でも来週の説教原稿の準備はしました。
posted by ちよざき at 15:48| Comment(0) | 日記

2022年05月22日

5月22日礼拝説教「神の栄光を表すために」第一コリント10:31〜33

5月22日礼拝説教「神の栄光を表すために」第一コリント10:31〜33(10章)
今日も先週に続けて新約聖書のコリント人への手紙第一より御言葉を取り次がせていただきます。この手紙、第一の次に第二があり、大変に繋がりが強いので、二つの手紙を続けてお話しして、それが終わってから、また旧約聖書に戻る予定です。私たちが持っている聖書は前半の旧約聖書と後半の新約聖書から成り立っていますが、旧約聖書を読むときは新約の福音の光を照らして読む。また新約聖書を読むときには旧約聖書を土台として読む、と教えられてきました。それは新約聖書、特にパウロの書いた手紙もそうですが、旧約聖書の御言葉を引用したり、旧約聖書に出てくる出来事や人物を取り上げて、その解説からキリストのことを教える、ということが良くなされています。ですから、旧約聖書と新約聖書は深く結びついている、と言うことが出来ます。最初は誰でも聖書はチンプンカンプンでしょう。でも通読をしたりして、聖書の全体を何度も読むと、旧約と新約の繋がりが少しずつ見えてきて、そうすると、分からなかった御言葉に光が与えられるようになります。どうぞ、これからも聖書の全体を読んでいただきたいと思います。
前置きが長くなりましたが、今日は第一コリントの10章全体から、三つのことをお話ししてまいりたいと思います。第一に「聖書の警告」ということ、第二に「偶像の真実」、そして第三に「救いの目的」という順序でメッセージを進めてまいります。
1.聖書の警告
1節から少し拾い読みをしたいと思います。1節。
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
ここで父祖たちとはイスラエルの先祖のことで、海を通ってと言うのは出エジプトのことだと分かります。パウロはここで出エジプト記やそれに続く箇所を思い出させて、その事件の意味を話すことでコリント教会の人たちに大切なことを、「ぜひ」知ってもらいたいと言っているのです。2節。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

みなさんも出エジプト記を思い出していただきたい。もし、まだ読んだことがないという方がおられたら、いつか、ぜひ読んでください。ここで「雲と海とで、モーセにつくバプテスマ」と書かれています。バプテスマ、すなわち洗礼は、水の中を通ります。それが出エジプト記のイスラエルも水の中を通り、雲というのは雨を降らせるのですから水がそこにあるのは昔の人も分っていて、雲の下を歩いたことも、海の中を歩いたことも、それは洗礼と同じようなことだと考えているのです。3節の御霊の食べ物は、神が与えてくださったパン、すなわちマナのこと。また4節では岩からでた水を飲んだ。このことは出エジプト記と民数記の二回、同じような出来事が起きています。場所は違いますが、どちらの場所でも大きな岩を杖で打つと水が出てきた。当時の伝説では、この水を出す岩は、実はイスラエルの荒野の旅路を一緒に移動していたんだ、と思っていたらしいのです。パウロは、その水を出した岩とは、キリストなんだ、と解説します。御霊の岩からの水とは、キリストから与えられる飲み物だと言っているのです。これらは聖餐式を思い出させています。神から与えられたキリストのからだであるパンと、キリストから流れ出る血潮の飲み物。なんでこのようなことを話しているかと言うと、5節。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

イスラエルの民は、バプテスマを受け、パンと盃を受けていたにも関わらず、途中で滅んでしまったじゃないか。だから私たちも同じ失敗をしてはけない、と警告しているのです。旧約の出来事、特にイスラエルの罪と失敗を、自分とは無関係としないで、自分のこととして受け止めて、同じ罪を犯さないように戒めている。この読み方は今も私たちがしている読み方です。
この後は全部解説しますと長くなりますので省略しますが、出エジプト記と民数記のいくつかの出来事を取り上げて、最後に11節。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

旧約の言葉は今の私たちに対しても戒めと教訓であり、自分は大丈夫だと思っている人ほど倒れやすいから気をつけなさい、と教えています。
13節は、有名な御言葉です。
13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

試練はいつの時代の人でも必ず出会います。救ってくださった神様は、救うと約束された者を放り出すようなお方ではなく、約束に信実なお方ですから、試練があっても必ず助けてくださる。ところがイスラエルは神様を信頼せず、食べ物がないとつぶやき、モーセが見えなくなると金の子牛の偶像を作ってしまう。私たちは試練の時にどのように神様を信じて祈り、どのように助けをいただいているでしょうか。これは時代や国を超え、またどんな人にも当てはまる真実なのです。
長くなりますので二つ目のことに移りたいと思いますが、先ほど取り上げた聖餐式の話と、今お話しした偶像礼拝の件が、つぎのポイントへの伏線となっています。
2.偶像の真実
「偶像の真実」と言いましても、偶像が正しいというのでもありませんし、偶像の中にも少しは良い部分があるということを言いたいのでもありません。偶像とは何でしょうか。木や石で作った神々の像、と考えられますが、偶像とは見える形は何であっても、それは人間の欲望と言う罪が背後にある。本質は人間の罪だということは真理です。16節から、また拾い読みをしてまいります。
16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

ここに聖餐式のパンが取り上げられています。あのパンをいただくとき、私たちはキリストのからだにあずかる、言い換えると、パンが体の中に入るだけでなく、私たちもパンの一部とされ、このパンは「私たちの裂くパン」と言っているように、本来は一つのパンの塊を割いて、分け与えるのが聖餐式でしたから、私たちは一つのパンから食べることで、キリストのからだという一つの体に属する者となる。これが教会の一体性ということです。ですから、聖餐のパンを食べるという行為は、単なる食事ではなく、私たちのあり方に影響を与えるのです。同じように、旧約時代の人々は、罪を赦してもらうために動物の供え物をささげ、その一部は祭壇で焼き、一部は家族や仲間と一緒に食べる。そのとき、一部を焼いた祭壇、この祭壇は贖い、すなわち神の救いの御業を象徴します。祭壇に捧げ、払い下げられた肉を食べる行為は、その祭壇による救いを受けることなのだと律法に教えられています。
19節。
19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
「私は何を言おうとしているのでしょう」って言われても困りますよね。私たちだってパウロの文章は難しくて分からないのに、「私は何を言おうとしているのでしょう」、パウロも混乱しているのか。もちろん、そうではありません。よく聞いて考えなさい、ということです。「偶像の神にささげた肉」を食べるという行為について語ろうとしているのです。これは7章の冒頭にありました、コリント教会からパウロへの質問状の中にあったことです。偶像のささげた肉には大した意味はない、ただの肉だから食べても悪影響はない、と主張する人もいました。偶像の神に信実な意味があるとパウロは言いたいわけでもない。20節。
20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
これがパウロの答えではないかと思います。例え、偶像には何の意味もなく、偶像に捧げた肉を食べても良いとしても、その偶像の背後には悪霊があって、人間を神様から引き離そうとしている。偶像にささげた肉を食べる人を見て、他の人が、あのクリスチャンは偶像を肯定しているんだと誤解して、そこから信仰を離れるようになるなら、それは悪魔の思う壺でしょう。礼拝は神との交わりです。私たちはこれを大切にしたい。ですから信仰に不純物を持ち込むような余計なモノからは離れる方が健全だと考えているのです。23節。
23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
何かを食べる・食べないは個人の自由です。でも、それが有益かは別の話です。私たちは肉体の健康に気を付けて、何かを食べないことを選択することがあります。でも、信仰の健康のために何を食べるか、何をするかを考え直す必要がある。いいえ、自分の健康のことだけを考えるなら、自己中心です。他者のこと、そして教会全体の徳を高める。教会の交わりで、世間話も楽しいのですが、神様の喜ばれないような話題を避ける、いいえ、本当に大切なこと、神様の恵みを証ししあうなら、それがお互いの信仰の成長に役立つ。私たちは自分の自由や権利を何のために用いたら良いのでしょうか。三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。
3.救いの目的
31節からをもう一度読みます。
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

食べる、飲む、いいえ、何をするにも、神の栄光を表すため。それが私たちの行動の目的なのです。人間を神様が創造されたとき、神のかたちに造られたと書かれていますが、それは人間は神の栄光を表すべき存在として造られた、ということです。また出エジプト記では、エジプトの奴隷から救われたイスラエルが、神の民としていただいたのですが、そのイスラエルがこれから神様とおつきあい、つまり交わりとしての礼拝をおこなうために幕屋を作ります。その幕屋が完成したとき、神の栄光が満ちたと書かれている。イスラエルも自分のためではなく神の栄光を表す、宝の民となるために救いだされたのです。私たちが救われたのも、自分のためではなく、神の栄光のためであることを忘れないようにしましょう。
32節の、躓きを与えないように、というのは、肉を食べる問題ですが、自分がしたいことをして、誰かが躓くなら、それは神様の御心では無い。でも人を躓かせないように気を使って行動するというだけですと、何もできなくなってしまう。むしろ、33節で「私も、人々が救われるため」、多くの人が御救いにあずかり、共に神をあがめるようになるとき、栄光が表されます。自己中心だった者が、自分の利益よりも多くの人の利益を求め、みなの喜びを喜びとして仕えていく。この教会のありかたが、そのようにしてくださった神の栄光となるのです。
まとめ.
今、私たちはコロナ禍という試練の中にいます。でも、神様は耐えられないことはなさらないどころか、試練を通して私たちが神の栄光を表す者となるようにと導いておられるのです。それは私たちが救われたのは、自分のためではなく神様の栄光のためであり、何をするのも自分の自由であるのですが、それを信仰の徳を建て、教会が建て上げるために何事でもする。この年、そのことを考えてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2022年05月15日

5月15日礼拝説教「知恵よりも自由よりも権利よりも」1コリント9:19〜23(8〜9章)

5月15日礼拝説教「知恵よりも自由よりも権利よりも」1コリント9:19〜23(8〜9章)
今は新型コロナのためか、電車に乗っても車内は静かなことが多いですが、以前は、時々、車内でも携帯でしゃべっている人がいました。なぜ携帯での通話が迷惑なのか、いろいろな理由があると思いますが、一つには、対話の片方しか聞こえない。普通の会話ですと、二人が語っている、そのやり取りが聞こえるので、何について語っているのか、理解できますが、通話ですと一人の言葉は聞こえても相手の声は周囲には聞こえてこない。ですから、耳に入るのは会話の半分だけで、何について語っているかよくわからない。何だかわからない話を延々と聞かされるのはすごく気になってしまう。突然に変な話から始めてしまいましたが、コリント人への手紙は、著者のパウロがコリント教会のクリスチャンたちと手紙でやり取りをしていまして、そのうち、パウロの書いた手紙の一部だけが聖書に残されています。ですから私たちは、この手紙を読みながら、背後にあるコリント教会からの手紙を想像する必要があります。例えば、8章の1節の最初にこう書かれています。
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが
ここには、コリント教会からの手紙で質問が書かれていて、それに対するパウロの応答が書かれています。「偶像にささげた肉」が何かは、少し読んでいくといくらか理解できます。その肉を食べてよいか、食べてはいけないか、という質問だったのでしょう。それにパウロが答えています。でも、8章に書かれているのは、単純に肉を食べるべきかということではなく、その質問がなされた背後にある問題にまでパウロは目を向けている。それは、8章から9章に続いている問題で、クリスチャンの自由や権利といった、現代の私たちにも関わってくることなのです。
前置きが長くなりましたが、今日は、第一コリントの8章と9章を通して、「知恵よりも自由よりも権利よりも」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「知識よりも大切な愛」ということ。第二に「権利よりも大切な誇り」、そして第三に「自由よりも大切な福音」という順序で進めてまいります。
1.知識よりも大切な愛
もう一度、8章1節から少し読んでいきたいと思います。
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなけらばならないほどのことを知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

古代ギリシャの有名な哲学者ソクラテスが「無知の知」と言うことを語ったのを思い出しますが、人間にはプライドがあって、知らないというのが難しいようで、知らないのに知ったかぶりをして失敗することもあります。パウロも、知っているという人は知るべきことを知っていない、と、ソクラテスのようなことを言っています。では何を知るべきか、パウロは、「しかし、人が神を愛するなら」と言います。哲学、英語でフィロソフィと言いますが、フィロは愛するという意味で、ソフィは知恵、ですから知恵を愛するということでしょうか。パウロは知恵を愛する以上に大切なことは、神を愛することだと言います。なぜなら、人間には分かっていないことも神様がすべてご存じであり、このお方を愛し、信頼していれば、分からないことがっても恐れる必要はないからです。
コリント教会の人たちは、知恵があると自称する人が多かったのでしょう。「偶像にささげた肉」という問題に関しても、彼らは、自分たちは知っている、と主張します。その知識とは何か。4節。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
アテネ同様、コリントの町も学問が活発で、偶像の神殿も多かった。クリスチャンになって、偶像礼拝は罪だと聖書から学び、特にイザヤ書をはじめとする預言書には、偶像なる神は無に等しいのであって、天地を造られた神は唯一のお方だと教えられています。そのような知識を持っている人は、偶像にささげた肉と言っても、偶像なんてただの石や金属だから、ささげても意味がない。だから食べても良いと主張した。ところが、偶像礼拝の罪から救われた人の中には、二度と偶像礼拝には関わりたくない。でも偶像に捧げた肉を食べることで偶像礼拝に加担することにならないか、心配する人もいて、そのような人は市場で売っている肉はたいてい偶像に捧げた肉のおさがりであるので、肉は食べたくない、と考えた。考え方の違い、ということはよくある話です。教会で問題となるのは、どちらが正しいかということ以上に、肉を平気で食べている「知識人」が、食べない人をあいつらは無知だと見下す。食べない人は食べる人を、罪を犯していると言って裁く。ここに教会内での争いが生じていたのです。
パウロは双方の主張を知っていて、あえて「私たちは知っています」と知識派に話を合わせていますが、同調しているのではありません。10節。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神に捧げた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

神の愛を、彼らは知識としては知っていたでしょうが、その愛によって救われたことを心から感謝していないために、他のクリスチャンが躓いて心を痛めていることに気が付かない。神への愛と兄弟への愛は不可分です。知識があると高ぶっている人には、神の愛を知ることが必要です。そして、知らないと見下すのではなく、他者への配慮を忘れてないようにパウロは語っています。もちろん、反対の立場の人には、唯一の神、また唯一の主であるキリストについて教え、8節。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
と教えていて、両方の立場をふまえて語っているようです。ですからパウロの結論、13節。
8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。
これは、パウロが肉食を止めてベジタリアンになったということではなく、誰かを躓かせるような状況なら食べないということでしょう。食物の話だけではなく、私たちは神と人を愛するということを忘れてはならない。この原則に立って考えるなら、コリント教会のような争いを避けることが出来るのです。
2.権利よりも大切な誇り
二つ目のポイントに移ります。8章9節。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまづきとならないように、気をつけなさい。
ここでパウロは「権利」という言葉を使っています。続く9章では自由と権利について語っています。肉を食べる権利はある。でも、その権利を使うこと以上に大切なことがある、とパウロは主張しています。ここにもう一つの背景が見え隠れしています。9章3節から。
9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
9:5 私たちは、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。

飲み食いの権利は人間誰にでもあります。ないのでしょうか、という問いかけは、ありますよね、という意味です。では、6節の「生活のための働きをやめる権利」とは何のことでしょうか。
当時の教師たち、教会を教えて回る巡回教師たちは、その働きをするために生活費は教会が支えていました。ところが訳あって、パウロはコリント教会からは金銭的な援助は受けてこなかった。そのことから、パウロを批判する人は、金銭を受け取らないのはパウロが使徒ではないからだと裁いたのです。パウロは14節で
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音のための働きから生活のささえを得るように定めておられます。
パウロは、これは当然のことだと言いながら、15節。
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りを誰かに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
後半は過激な言い方をしていますが、パウロの言いたいことは、権利を主張したいと誤解を与えたくない。
理由ははっきりとは書かれていませんが、パウロはコリント伝道の中で彼らから金銭を受け取ることが彼らとパウロとの関係にとって良くないと感じて、コリント伝道の間は、彼らからの援助を受けなかったようです。コリントに到着したとき、パウロは天幕作りという副業をしながら伝道していた、と『使徒の働き』に書かれています。それでは伝道のために時間を使えない。そこで途中からは他の教会からの援助が届いて、フルタイムで伝道ができるようになったと記されています。
パウロは福音を伝える者が援助を受けることを否定しているのではない。パウロのコリント教会に対する個人的な思いがあったようです。ですから、彼らからの援助を受けないことが「誇り」だと言っているのです。援助を受ける権利はパウロにもある。でも、その権利を使用しない権利もある。時には自分の誇りにかけてでも権利には頼らない、という姿勢もあることをパウロは示しています。
私たちはクリスチャンとして、権利を使ってはいけない、ということではありません。社会の中で当然主張すべき権利は大切です。でも、権利を主張しすぎることが、周りの人からはあさましく見えるかもしれない。いいえ、他人の目に左右されるのではなく、神様がどう見ておられるか、を忘れてはならない。神様と共に生きる、これは失ってはならない、パウロにとっては誇りだったのです。
3.自由よりも大切な福音
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。権利と似ていますが、自由という問題です。現代人は権利や自由を重要視します。特に欧米ではかつて自由と権利を得るための闘いがあったからです。その自由を否定するのではありませんが、自由が神様よりも上になるなら、クリスチャンとしては、何か違うのではないでしょうか。
自由の反対は、強制、でしょうか。教会では、献金も礼拝出席も奉仕も交わりも、それは強制ではありません。自由です。ただ、それが大切なことだと聖書は教えています。どうして大切なのか。それは、私たちはキリストの十字架によって救われ、聖書の言葉を用いるなら、贖われて、キリストのものとされた。キリストのものとされたのだから強制されているのではありません。救われた私たちは自由があり、権利がある。でも、その自由よりもキリストと共に生きることがはるかに価値があると知ったのです。もし自分の自由や権利の主張が、一番大切なものを失わせるなら、その自由を行使しないことが益となるのです。礼拝のために時間をささげることは強制ではない。でも、そうして神様に時間や労力や金銭や、さまざまなものをささげて、それはすでにいただいた大きな恵みへの感謝です。神様に感謝するとき、神様はそれ以上の恵みを注いでくださることを私たちは知っているのではないでしょうか。
クリスチャンにも権利と自由があります。でも、永遠のいのちよりも大切なのでしょうか。自分の自由のために、神様との関係を手放して、永遠のいのちの豊かな祝福が半減するなら、それは大きな損失です。でも、それも正解ではありません。自分の益だけを考えているなら、自由に生きても、捧げる生き方をしても、結局は自分のための生き方になってしまいます。そこに神への愛があるなら、強制されていると感じるよりも、神様との交わりが喜びとなります。また、兄弟姉妹への愛があるなら、聖徒の交わりが楽しみとなります。
パウロは、特に迫害者であった自分がキリストと出会い、その愛により救われた経験から、誰よりもキリストの救い、すなわち福音を宣べ伝えることに情熱があります。19節から、有名な言葉です。
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

とんで、22節。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

イエス・キリストによる救い、すなわち福音によってパウロは救われ、人生が変えられた。その絶大な価値を知ったパウロにとっては、自分の権利や自由よりも福音に生きることがはるかに素晴らしいと知ったのです。福音と言う自分の考え方を主張するためではありません。それが誰かを救い、新しい人生、キリストにある生き方がそんなに素晴らしいかを知って欲しい、受け取って欲しい。だからパウロは敢えて損となっても良いから、福音のために全てのことをしているのです。
私たちも同じ福音によって救われたはずです。誰もがパウロと同じことはできませんが、私たちも喜んで福音のために生きるものでありたいと思います。自分だけが救われるのではなく、一人でも多くの人に福音を伝える。それが教会の使命であり、それが私たちの誇りであり恵みなのです。
まとめ.
私たちは何のために生きるのでしょうか。自分の知恵を誇るため、自分の権利を主張するため、自分の自由を楽しむため、ではありません。それも大切なものであることを認めつつ、それ以上に価値のある、大切なものをしっかりと握りしめて行きましょう。
タグ:ローマ書
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