2022年08月21日

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)
私事ですが、先日、また一つ歳を取りまして、人間誰でも一年に一つ、年を取り、特に大人になりますと年老いていくことを実感するようになります。だんだんと無理が出来なくなり、力も衰えていく。でも、それを認めるのがイヤで、いろいろな努力をなさっている方もおられると思います。しかし、確かに人間は衰えていく存在です。そんな私たちに勇気を与えてくれる御言葉が、先週、お話しした第二コリントの4章の16節です。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
クリスチャンであるということは、神様によって毎日、新しくされる。それが新しい生き方であり、永遠の命です。この生き方を、今朝は第二コリントの5章を通して、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、「地上の幕屋」ということ。第二に、「新しく造られる」。そして最後に、「和解の使節」という順序で進めてまいります。
1.地上の幕屋(1〜10節)
1節から読ませていただきます。
1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

幕屋とは、当時の貧しい人が住むテントのような住居です。「地上の幕屋」とパウロが語っているのは、もちろん、実際のテントではなくて、肉体のことを指しているのは分かりやすい例えだと思います。地上の幕屋である肉体はこわれていく。でも、神がくださる建物、「天にある永遠の家」とは、天国で与えられる新しい体。それは衰えたり壊れたりすくことがない、永遠のからだです。それが与えられるまで、すなわち天国に行く希望を持ちつつ、地上の肉体の中で苦難を味わっている、とパウロは現実の私たちの姿を描いているのです。
地上で生きながら、天国の体になれるなら、もう老化も病気も無くなって、どんなに良いだろうかと思いますが、今は、神様が御言葉によって保証していてくださる天国の約束を信じて、希望をもって生きるのが地上での人生です。このことを私たちに保証するために神様が与えてくださったのが、5節。
5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

聖霊が私たちの内にいてくださることが天国の保証だとパウロは言います。だから、「いつも心強い」。肉体的には弱さを覚えることもあるでしょう。私も昔っから忘れっぽいところがあったのですが、還暦を過ぎてますます忘れることが増えてくる。しかし、何歳になっても聖霊は私たちの内にいて助けてくださるお方です。ですから、天国の保証は無くならないのです。もちろん、地上の肉体の中にいる限りは、「主から離れている」ときもある。四六時中、神様のことを考えることはできません。でも、自分が出来なくても、神様は眠ることも微睡むこともないと詩篇に書かれていますが、私の意識が仕事や勉強や、違うことに向かっている時でも、聖霊がいてくださることに信頼する。それが信仰です。7節で「見るところ」とは私たちが自分で分かることです。「見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」。神様を信頼するから、「心強い」ともう一度言っている。この信仰も神様の賜物であり、保証なのです。8節。
8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
肉体を離れて主のみもとにいる方が良いというのはパウロの本音です。それは、もう地上で生きるのはイヤだから止めたいということではなく、キリストとずっと一緒にいることの素晴らしさを何よりも貴いと思っているからです。このことを違う言葉で語っているのが、ピリピ人への手紙1章(23節後半)です。
ピリピ1:23後半 私の願いは、この世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかに勝っています。
24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

パウロは、自分のためではなく、コリント教会やピリピ教会、また、まだキリストの福音を知らない人たちに御言葉を伝えるために生きるのです。(第二コリント5章)9節。
9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
自分のための生き方ではなく、主に喜んでいただく生き方です。自分のための生き方は地上だけで、いつか終わりが来ます。でも主に喜んでいただくことを願う生き方は地上だけでなく天国にまで続く。これが永遠の命の生き方なのです。でも、どうしたら主に喜んでいただけるでしょうか。それは自分で決めるのではなく、神様が私たちに求めておられることを知らなければなりません。
2.新しく造られる(11〜17節)
11節からの段落でも大切なことがたくさんあるのですが、全部をお話しすることはできませんので、少し飛ばしまして、14節。
14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、と新改訳第三版は訳しています。ここは翻訳によっていろいろと工夫されていますので、比べてみると面白いところです。キリストの愛が私たちを捕えている、と、もう捕まっている。支配しているとも訳すこともできます。私が好きなのは、「キリストの愛が私に強く迫っている」という口語訳です。「キリストの愛」というと、なんだか甘っちょろいと感じる方もおられるでしょう。日本語の愛という言葉の与える印象が原因です。旧約聖書では「ねたみの愛」という表現もあるくらい、神の愛は圧倒的な力のある愛です。キリストの愛は十字架です。命がけの愛であり、私たちの身代わりとして神の怒りを受け止める覚悟のある愛です。父なる神が三位一体としてわが身である一人子を手放すほどの痛みを伴った愛です。人間の文化による愛ではなく、聖書が告げる神の愛を知るとき、それは私たちに迫ってきます。まるで、強力な軍隊のごとく、私たちに迫り、取り囲み、ついには捕えて、私たちはキリストのものとされる。15節。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
自分のために生きる、古い生き方から、キリストのために生きる新しい生き方を選ぶとき、何が起きるか。17節。
17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イエス様がニコデモという人に、「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われましたが、古いままの生き方では結局自己中心、自分のためですから、神に喜ばれることが出来ない。キリストのものとされ、キリストのうちに生きるとき、神様が新しく造り変えてくださる。それが、神様が喜んでくださる生き方です。なぜなら、これが、神様が計画された道だからだと、18節の最初で、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と語られていることなのです。
3.和解の使節(18〜21節)
18節は話題の転換点となっています。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

ここに「和解」という言葉が繰り返されています。まず、神様との和解です。罪を悔い改め、神様に背を向けて歩んでいた生き方から、神様に顔を向け、キリストに従う生き方となる。そのとき、背いていた罪を赦していただいて、神様との和解を与えていただける。迫ってきたキリストの愛に全面降伏して、全部を神様に委ねるとき、神様の平和が与えられる。
そして、他者との和解です。自分が他者と和解するだけでなく、他の人も神様との平和に入ることが出来るように、神様からの和解の言葉を伝える。それが「和解の務め」であり、20節では「キリストの使節」と言っています。20節。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
今回、メッセージの準備をしながら、繰り返してこの御言葉を読んでいて、ハッとさせられたのは、「懇願しておられる」という言葉です。神様は、キリストの愛によって私たちを包囲し、迫ってきている。勝利は神様のものです。ところが、その神様が懇願しているのだというのです。和解をしなさい、いいえ、和解を受け入れて欲しい、と。パウロも、「キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」。
神様は私たちを見ていて、心を痛めておられるのです。私たちが自分勝手な生き方から離れずに、まだ神に背を向けている。その自己中心がどれほど周囲の人を苦しめ、また自分自身の魂を傷つけているか。神様との関係にひびが入り、神様が与えようとしておられる祝福を受け止めそこなっているか。そんな私たちの姿を見るのが忍びなくて、早く、降伏して、神様を信頼して、受け入れて欲しい。それが神様の最大の、そして緊急の願いであり、これ無しにどれほど努力をしても、神様は喜べない。
みなさん。人間はいつか人生の終わりが来る。これは年齢とは関係なく、若い人でも同じです。それがいつ来るか、ご存じなのは神様だけです。その神様が私たちに迫ってきて、和解を受け入れろ、いいえ、受け入れて欲しいと懇願しておられる。そして、キリストから遣わされたパウロがコリント教会の人たちに願っているのです。
まず、自分が神様と和解をする。そして、次に和解の使者として、和解の言葉を私たちも委ねられています。私たちは、今日、またここから遣わされて、それぞれの生活や仕事に帰っていく。それは和解の使者としてなのです。これが新しい生き方なのです。
まとめ.
キリストの愛が私に迫っている。でも、神様は私たちを力づくで従わせようとはなさらない。キリストが戸の外に立って戸を叩いている、と黙示録に書かれています。私たちが心の戸を開き、キリストをお迎えし、和解のことばを受け入れとき、神様の新しい創造の働きが私のうちにも始まる。一回だけではありません。私たちはすぐに古い生き方、自己中心な生活に戻ってしまいがちです。ですから聖霊は何度も何度も、忍耐をもって語り掛けてくださる。そのたびに閉じかけていた戸を開いて、主を私の王として心に迎え入れる。それが日々、新しくされることです。今日も、また明日も、キリストと共に、そしてキリストのために生きる生き方を一歩ずつ歩んでまいりましょう。
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2022年08月14日

8月14日礼拝「キリストの光が輝く」第二コリント4:16〜18(4章)

8月14日礼拝「キリストの光が輝く」第二コリント4:16〜18(4章)
高校野球もそうですが、スポーツ選手が懸命に競技しているのを見ると輝いて見えます。スポーツにかぎらず、一所懸命に働いている姿は、感動を与えます。私たちは、輝くような生き方を送っているでしょうか。自分を見ると、足らないところだらけで、人様に見せられるような人生ではないなと思うのですが、でも、クリスチャンにとって大切なことは、自分が輝くこと以上に、こんな私を救ってくださったお方が私を通して光を放ってくださることです。
今日は「キリストの光が輝く」との説教題で、コリント人への手紙第二の4章からメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで、第一に「輝く福音」、第二に「土の器」、そして第三に「永遠に新しく」という順序で進めてまいります。
1.輝く福音(1〜6節)
4章の1節から拾い読みをしていきます。1節。
1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

「私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられている」と言っています。パウロ一人ではなく、パウロの仲間もそうですが、コリント教会の人たちもそうであり、私たちも「この務めに任じられている」のです。その務めとは、神のことばを曲げずに真理を明らかにすることであり、さらに5節。
5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
と言っているように、キリストを宣べ伝える務めです。神の御言葉を伝え、キリストを宣べ伝える。すなわち福音を伝えることです。キリストの十字架によって救っていただいた私たちには、このお方を伝える責任があり、また、イエス様ご自身が、「福音を宣べ伝えよ」と弟子たちに命じられたのは、私たちにも同じ事を命じておられるのです。
このイエス様の命令に従って、二千年近くの間、教会は全世界で福音を伝えていきました。欧米からアジアやアフリカと世界に福音は広まり、日本は百数十年の間、宣教がなされてきた。ただ、日本という国はなかなか福音が広まらないとも言われます。もちろん日本だけに問題があるのではないと思いますが、福音を伝えることはいつの時代でも困難が伴いました。初代教会の時代は大変な迫害が続きました。それ以外にも様々な原因があって、福音宣教を妨げています。なぜ伝わらないのか。パウロは、一つの根本的な理由を挙げています。3節。
3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

「覆いがかかっている」という言い方は、3章の後半でも「顔覆い」ということが語られていましたが、それは4節の、「この世の神が不信者の思いをくらませて」、それが福音の光を輝かせないようにしている、というのです。「この世の神」とは、何か。天地を造られた神様以外に、何か神のような存在があると聖書は告げているのでしょうか。そうではないと思います。ここでパウロは偶像とか、いろいろな宗教の神々という言い方をせず、「この世の神」と言うときに、「世」という言い方をしています。これは「時代」と訳すこともできる言葉です。その時代時代ごとに、また国や文化によって、違いはありますが、中心にあるのは「この世」、「この時代」なのです。
現代は、民主主義の時代であり、自由の時代です。過去は違っていた時代もあります。民主主義も自由も大切なことでしょう。でも、それがいつのまにか、人間の思い通りにしようという考えがあり、自分の自由のために他者を、弱い人や弱い国を虐げる。そこに人間の罪があるからです。この自分が中心である考えがあるとき、イエス様が他者を救うために十字架についてくださった生き方は受け入れがたくなる。少し前は、お金が一番という価値観がありました。思想や一つの宗教やカルトのようなものが一番である人もいます。しかし、その価値観が第一であるとき、キリストの価値を拒んでしまうのです。そして、御言葉が伝える福音の輝きが覆われて、輝かなくなっている。イエス・キリストのことを聞いて、そこに崇高なものを感じていた人が、この世の価値から離れられず、キリストの光から目を背けてしまう。すると聖書を読んでも目が鈍ってしまうのです。だから、現代は、また日本は、福音を伝えるのが難しい。いいえ、違います。
6節。
6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
闇と光という例えが用いられていますが、どれほど闇が深くても、神様は天地創造のときに「光あれ」とおっしゃったお方です。私の心の中にも光を照らすことがおできになる。聖霊は、どれほど不信仰な人にも語りかけることができる。そのとき、福音を伝えるのは無理だと考えられていた時代にも、キリストの光が輝くことができる。そう私たちは信じるのです。
2.土の器(7〜15節)
二つ目のことをお話しします。7節。
7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
キリストの光がどれほど素晴らしくても、私はそれを伝えることができない、と誰もが躊躇します。それはパウロも分かっています。コリント教会の人たちも、いいえ、パウロ自身も自分は罪人の頭だと自覚している。ここでも「土の器」と言っているのは、金や銀ではない、価値の低い存在だということです。汚れたものであり、弱く、また欠けだらけの存在です。でも、その土の器であるはずの私を通してキリストの光が持ち運ばれるとき、器自身の栄光ではなく、神の栄光が鮮明に輝くのです。8節。
8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

苦しめられ、時には途方に暮れ、迫害され、倒れるときもある。それが私たちです。でも、行き詰まったり、滅んだりすることはない。村上宣道先生が語られた言葉ですが、「クリスチャンは、ボクシングに例えるなら、ダウンすることはあっても、ノックダウンされることはない」。もし一回も倒れることが無いなら、その人の素晴らしさです。でも、倒れるような弱い存在が、人生の中で失敗をしたり、挫折をしたり、また病気やけがで苦しむこともあれば、愛する人を失う悲しみもある。でも、それで終わりなのではなく、また立ち上がることができるとすれば、それは、もう自分の力ではないことを、誰もが認めざるを得ない。11節。
11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
イエスのいのち、それは死から蘇らせた神の力です。欠けだらけの弱い器である私にも、神の力が働いて、立ち上がるとき、それは感謝と恵みに満ちた人生となるのです。15節。
15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
3.永遠に新しく(16〜18節)
最後のポイントに移ります。もう一度、16節から読ませていただきます。
16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

「外なる人」とは私たちの肉体と考えて良いでしょう。確かに肉体は衰えていきます。と言っても、若い人は年老いるなんてことを考えたこともないでしょう。でも、心が弱ることを感じたことがある人は少なくないでしょう。何歳であっても、体や心が衰えても、内なる人、キリストと結びついた生き方です。内なる人は日々新たにされていく。これでおしまい、ということは無い。いつも新しい恵みが与えられ、天国を目指して、前に進み続けることができます。
決して楽観主義的な生き方とは違います。今の時代には患難があるとパウロは分かっていますが、その患難でさえも、栄光に変えられる。他の箇所でも、「患難が忍耐を、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す」との有名が御言葉もあります。17節では、「軽い患難」と言っています、決して患難は軽いものではないのですが、これは、「軽い患難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光」と言っている、「重い」という言葉と「栄光」という言葉は、ヘブル語ですと同じ言葉からできています。栄光に輝く栄光と言ったら良いでしょうか。それと比較するなら、患難は大きなことではなくなる。だから栄光の反対、重いの反対で「軽い」と言っているのです。確かに、今、私たちが体験している苦難は決して小さなものではありません。でも、それを遙かに超える祝福が私たちを待っている。それを知ったとき、患難の中でも希望を知ることができるのです。
もちろん、長い間、苦しみの中におられる方々がいらっしゃいます。でも、「永遠の栄光」と書かれているように、私たちの人生が今、ここで終わるのではなく、やがて神様から与えられた寿命が尽きるときがきても、その後に永遠の世界が待っているという天国の希望を私たちは信じるのです。この永遠ということを考慮に入れた視点を持って物事を見る。その反対は短期的な視点でしょうか。今さえ良ければというような刹那的な生き方や、目の前の利益だけを求める行動が、最後には残念な結果となることは誰もが知っていることです。5年、10年先を考えることができる人もいるでしょう。でも私たちは永遠を考える。それは目には見えないことです。18節。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
見えないものに目をとめる、というと何だか怪しい気がしますが、そういうことではなく、このことを違う表現で教えているのが、ヘブル書の有名な言葉です。
ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
目に見えないものを確信させる、それを信仰と呼んでいます。目に見えないものを信じるとは、迷信のような怪しいことを盲信するのとは違う、信仰による行為です。そして信仰とは神様への信頼です。自分には分からない、見えないことであっても、目には見えない神様を信頼するとき、その神様が約束してくださったことを確信して歩むことができるのです。イエス様の弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っているときに嵐が来て沈みそうになった。そこにイエス様が歩いて近づいた。それを見たペテロは、私も水の上を歩かせてください。イエス様が命じると、ペテロは水の上を歩いてイエス様に近寄った。でも足下の水を見て、波が怖くなり、イエス様のお言葉の約束を信頼しなくなったとき、沈みそうになった。有名な奇蹟ですが、神様が大丈夫といっしゃるなら、見えるところは分からなくても、このお言葉を信じて一歩ずつ進むこと、それが信仰です。今日も明日も、日々、神様が語ってくださるお言葉を信頼して、歩んでいくとき、不思議なように、日々新たとされるという体験が生まれ、それは永遠の天国にまで続く道なのです。
まとめ.
私が輝いているか、自信はない。でも、神様の御言葉は私の心の内に輝き、時には感謝と喜びを、時には慰めと癒やし、時には希望となってくださる。私に輝いてくださる主を信頼して行く。その生き方が、他の人にも証しとなり、希望を与え、キリストの光が輝くようになるのです。
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2022年08月07日

8月7日礼拝「私たちの務めは?」第二コリント3:1〜3(3章)

8月7日礼拝「私たちの務めは?」第二コリント3:1〜3(3章)
私たちは何のために生きているのか。そんな哲学的な問いかけを、若い時は考えたことがあっても、私たちは毎日の忙しさの中で忘れているかもしれません。でも、とても大事な問いかけだと思います。牧師は何が務めなのか。こうして皆さんの前で説教をする、聖書を教える、それも大切ですが、ただ語っているだけではいけない。教会の方たちのために祈ることも重要です。でも、それでは毎日、それをしていることで満足してしまってはいけない。何のために御言葉を取り次ぐのか。この問いかけに対して神様が示してくださった聖句が、エペソ書の4章で、その一部が今年の教会の標語となっています。エペソ4章11節。
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

キリストが私を牧師としてお立てになったのは、私が何かできるとか、そんな業績を上げるとか、そういうことではなく、私だけでなく、様々な方たちと共に、キリストのからだを建て上げるため。この大きな目標の一部を私も担わせていただき、教会のお一人お一人と共に主に仕えていきたいと思わされています。
前置きが長くなりましたが、今日は第二コリントの3章から、パウロがクリスチャンの務め、あるべき姿に関してどう語っているかを、ご一緒に考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで。第一に「キリストの手紙」、第二に「栄光ある務め」、第三に「御霊の働き」という順序でお話ししてまいります。
1.キリストの手紙</strong>(1〜3)
この手紙をコリント教会に書き送ったパウロの勤めは、異邦人の使徒として福音を宣べ伝えることです。でもパウロが使徒であることに反対する人たちもいました。3章の1節で「私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか」と書かれているのも、パウロは自己推薦をしていると批判する人がいたからです。確かに誰かの推薦や紹介があると、その人を信頼できます。パウロを推薦するのは誰でしょう。十二使徒でしょうか。イエス様ご自身でしょうか。もちろん、イエス様がパウロを使徒として遣わしたのですから、推薦してくださるはずです。でも、ここでパウロは驚くことを言っています。2節。
2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
コリント教会の人たち自身がパウロを推薦している。確かに、パウロが使徒として宣教をしなかったらコリント教会は始まらなかった。コリント教会が存在すること自体が、パウロの働きが確かだったことを証しし、パウロの推薦状とも言えるのです。でも現実のコリント教会は問題だらけで、推薦ができるような教会ではありません。ところがパウロは,コリント教会が、パウロを推薦するだけではなく、キリストの手紙だと語るのです。3節。
3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
キリストの手紙とはどういうことでしょう。前回、2章からメッセージを取り次がせていただいたとき、キリストの香水、キリストのかおりということをお話ししました。それは私たちが周りの人たちにキリストのかおりを伝えている。証しであり、伝道のことです。キリストの手紙も、キリストを伝えるためです。私たちの言葉や行い、生き方を通して、私たちが信じているイエス・キリストがどのようなお方かを示している。それが香りであり、手紙なのです。コリント教会が、パウロが使徒であることを推薦しているように、私たちはイエス様を救い主として推薦しているのです。でもイエス様を伝え、推薦する手紙なんて、私たちがなれるでしょうか。
3節で、墨によって書いたとか、石の板と書かれているのは、律法のことを表しています。律法の最初に与えられた十戒は石の板に書かれました。その後、多くの教えや戒めが墨によって書かれたのが律法の巻物です。起源は神様から来ていますが、それを書き伝えていったのは人間の筆です。でもキリストの手紙は、神の御霊によって書かれ、私たちの心に書かれた。聖霊なる神様が私たちの心に来てくださって、神の言葉を分からせてくださり、心に刻み込んでくださるのです。聖霊が私たちの心を新しくしてくださり、イエス様の救いがいかに人を造り変えるかを、他の人も分かるようにしてくださることです。皆さんが教会に通うようになり、イエス様を信じてクリスチャンとなっていくとき、近しい人から、「前とは変わった」と言われることがあるとするなら、それは私たちを通してキリストの救いが示され始めているからです。
クリスチャンは、何をするにしても、ある人は職場で、ある人は家庭や学校で、またご近所や親しい人との関わりの中で、他の人とはひと味違う姿を現すことができます。職業としての務めは、それぞれの人がそれぞれの働きをしています。でも、教会に来たときや、仕事や家庭という働きも含めて、その人の人生全体がキリストを証しする、キリストの手紙として福音を伝えること、これが私たちの一番の務めなのです。
2.栄光ある務め(4〜12)
二つ目に「資格」ということが語られています。職業の中には資格を必要とするものもあります。キリストの手紙としてイエス様を伝える務めのために必要な資格とは何か。5節。
5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
自分の力で資格を得るのではなく、神様から与えられた資格です。どのような資格をいただいたのかというと、6節。
6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
新しい契約とは、キリストの十字架によって罪から救っていただけるという契約のことです。言い換えるなら福音です。私たちは福音に仕える資格をいただいたということです。福音に仕えるとはどういうことでしょう。福音とは、イエス様が十字架について私たちの身代わりとなってくださり、私たちは罪を赦していただける。十字架によって救っていただいたのは「私」です。私のためにキリストが十字架について贖いとなってくださった。ところが信仰が成長していくと、私のためのキリストから、キリストのための私、すなわち、私たちはキリストのために生きる、キリストに仕える者となっていく。ですからキリストを伝える手紙としての働きは、私がしたいときにするという自分中心ではなく、私たちが福音に仕え、私たちを神様に用いていただくのです。
さて、この6節の後半は説明が必要な言葉です。「文字は殺し、御霊は生かす」とは、文字を否定しているわけではありません。神様は聖書の御言葉を通して私たちに語りかけてくださるからです。ここでパウロが文字と言っているのは、律法に書かれた文面さえ守ってさえいれば、それで救われるんだ、という律法主義的な考えのことです。人間は自分の力で律法、すなわち私たちにとっては聖書を全うできるのではありません。精一杯努力をしても、なお神様の基準には達することができないで、自分の足らなさに気がつくのです。それが、9節で「罪に定める務め」とパウロが書いていることです。しかし、同じ聖書の言葉を、聖霊が私たちの心に語りかけ、その御声に私たちが従うとき、聖霊が私たちの心の内に働いてくださり、罪を赦し、義としてくださる。9節。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
この箇所、7節から11節には、何度も栄光という言葉が出てきます。7節。
7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
ここにモーセの栄光ということが語られています。ユダヤ人にとって、モーセは最高の人物で、栄光ある存在でした。そのことを表しているのが、神様と顔と顔を合わせて語ったモーセの顔が光り輝いた、という出エジプト記の出来事です。でも、パウロは言います、モーセの顔の光はやがて消え行くものだった。でも、キリストの栄光は消えることがない、モーセ以上の栄光です。私たちはそのキリストから務めを命じていただいたのです。その務めは、キリストの素晴らしさを伝えるという栄光ある働きなのです。私たちは神様のなしてくださった救いの恵みを宣べ伝えるという栄光ある務めへと招かれているのです。
3.御霊の働き(13〜18)
最後に、「顔の覆い」ということを取り上げたいと思います。顔覆いとは何か、と言いますと、先ほども触れましたが、神様と、顔と顔を合わせて語り合ったモーセの顔は光り輝くようになった。そのモーセの顔を見たとき、イスラエルの人々は怖がったのです。そこでモーセは恐れている民のために顔に覆いをかけた、そう聖書に書かれています。これは、モーセの配慮という面もありますが、神の栄光に目を向けることができないイスラエルの民の不信仰でもあります。彼らは神様の声を聞くのを拒み、モーセがいなければ神様の御声を聞くことができないように自ら目を背けたのでした。そのために、彼らは御言葉の本当の意味がわからず、間違った理解をしていた。それが14節です。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

顔覆いは誰の心にもあります。神様を見ないで人を見て、人間の理解力で聖書が分かると思う時、心に覆いがかかって、御言葉が分からなくなるのです。でも、「それはキリストによって取り除かれる」。人ではなくキリストを見て、キリストが私たちに語ってくださる御声に耳を傾ける。どうしたら、そんなことができるのか。16節。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

人の心を主に向けさせるのは、聖霊のお働きです。
聖書を読むということは、聖霊の助けなしにはできないのです。人間の力で理解しようとするなら、自分の力でなんとかできると考える。でも、私たちは「敵を愛せよ」と言われてもなかなかできない。でも御霊の助けをいただくとき、自分自身が神の敵であったときに、イエス様が敵である私を救うために十字架についてくださった、神の愛を知るのです。その時、私たちの心が主の愛に満たされ、敵であった人さえも受け入れることができるまでに変えられていく。それは、聖霊が私の心に語り掛けてくださる御言葉に聞き従い、御霊の助けによって神様の力を信じるときに、私たちの心にも御言葉が成就するのです。ですから、聖書を読むときは、神様の助けを求めて祈りつつ読むのです。自分の理解に頼るのではなく、むしろ分からない言葉を教えてくださる聖霊の語り掛けに従う思いで読むのです。自分が中心であるとき、それは聖霊の働きを拒んでしまいます。でも、お従いする従順な心となるとき、聖霊は自由に働いて、私たちを変えてくださるのです。18節。
18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
不信仰という顔覆いが取り除けられるとき、御言葉を通して明らかにされる主の栄光を豊かに示していただいて、私の心も御言葉の光に照らされて変えていただき、主と同じかたち、キリストの似姿に変えられていく。これがクリスチャン人生の目標です。この最終目標に向かうために、罪から救っていただいただけでなく、キリストを証しする栄光ある務めに私たちは招かれ、そのために日々御言葉の恵みを注いでいただく。そのすべてが御霊なる主の働きなのです。
まとめ.
今、教会は、また私たち一人一人も、コロナの時代にあって弱い存在です。教会は思う存分に伝道をすることが難しい。でも、私たちを栄光ある務めに召してくださった神様は、弱さや失敗のある私を用いてくださり、私たちの心を造り変えてキリストを伝える手紙としてくださるのです。聖霊の豊かな交わりが皆様の上に注がれて、用いていただけるように祈りましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教